照りつける太陽にうんざりしながらも、まだ若い肢体は日の光を吸収し、瞬く間に小麦色に染めていく。
「焼けたなぁ」
 冬芽は細い腕を肩までめくり上げて呟く。
「それでか?」
 春はその細い腕の隣に、逞しい腕を並べる。春に比べれば、冬芽の肌は、まだまだ白く見える。もともと色が白いので、どれだけ焼いても、赤くなるだけで、色素が沈着しないのだ。
「うるせぇなぁ。まだこれからどんどん男らしくなるんだよっ。あっ、三池、今笑ったなっ!」
「笑ってない、笑ってない」
 本当は笑ったが、それを認めると、5倍、いや10倍になって返ってくるのはわかっているので、とりあえず認めない。本当は堪えきれずに、小さく吹き出しのだが。
「三池だって、あんま焼けてねーじゃねーか」
 冬芽が勝也の腕を持ち上げて並べる。
「俺は、剣道部以外は、インドア派だからな」
 じろりと睨んでくる春の視線を意識しながら、勝也は苦笑しながら腕をはずす。
 剣道部は夏休みの最初に行われた県内の武道大会で5位に入賞したものの、全国大会へは手が届かなかったので、8月の20日過ぎまでは休みに入る。
 勝也は部室に置いておいた道具類を手早くまとめる。
「三池、夏休み、どうすんの?」
 冬芽は興味深そうに訊いてくる。
 最近、朝比奈家に直接電話をかけることが多く、そのうちの半分を冬芽に取り次いでもらう形になっているので、その辺の事情に興味があるのだろう。
「何も予定なし」
「へー」
 何か言いたそうな冬芽と、クラブのメンバーにそれじゃと挨拶して、勝也は部室を出た。クラブ棟の玄関を出ると、途端にきつい日差しが勝也を襲う。
「眩し……、夏だよな」
 誰に言うともなく呟き、かばんを肩に抱える。
 校門へと歩道を歩いていくと、駐車場の入り口で陽を見つけた。車に何かを積み込んでいるらしい。
「手伝いましょうか?」
 陽は突然かけられた声に驚いて振り返り、その相手が勝也だと知って、更に驚く。
「三池か……」
 勝也はかばんと防具袋を脇に置き、陽が積み込んでいるダンボールを手に取った。
「結構重いですね」
「いいよ、三池、疲れてるだろ?」
「疲れてませんよ。まだ足りないくらい」
 何も考えずに、泥のようになって眠り込むためには、これくらいの運動では足りない。
「そう……か?」
「まだ運ぶものがあるんですか?」
 足元の台車にあったダンボールの箱を積み終えた勝也は陽に尋ねた。
「いや、これで全部だよ。ありがとう」
 まだこんなふうに勝也と普通に話せることに安堵しながらも、陽はどこかそわそわする。気持ちが落ち着かないのだ。
 まるで……、そう、勝也に対して後ろめたいような気がして。実際、今こうして普通に話ができるのは、勝也の気持ちに陽が甘えているからだろう。
 思春期のさなかの少年が確執があった相手と、何もなかったかのように話ができるその精神力に、陽は感嘆させられる。
「先生、言葉よりお礼が欲しいな」
 勝也は笑って要求してくる。その言葉の中身ほど、言葉の調子はきつくない。
「何が欲しいんだ? 昼ご飯か?」
「あー、昼ご飯も捨てがたいけど、27日って暇?」
「27日? 何かあるのか?」
「何もないけどさ。暇だったら、どこかへ出かけたいな。って」
 陽の車に肘をかけ、勝也は笑顔で陽を見つめる。
「だったら、却下だな。生徒とは出かけられない」
「ふーん」
 意味ありげに勝也が頷きながら、陽を見ている。
「なんだよ」
「いいですけど。先生、生徒の要求に簡単にお昼をおごってやるなんて言っちゃだめですよ。じゃ」
 勝也はひょいと自分の荷物を抱え、片手を上げて、背中を向けた。
「三池」
 陽は思わず勝也を呼び止めていた。
「なんです?」
 何故勝也を呼び止めてしまったのか、陽自身にもわからない。ただ、そのまま帰したくなかったとしか言えない。
 足を止め、振り返った勝也に、何も言えずに口篭もる。
「気をつけて……帰れよ」
 結局そんなことしか言えずに、陽は自分で自分にむっとする。
 勝也はふっと笑って、「はぁーい」と間延びした返事をする。
 その笑顔が大人っぽく見えて、陽は視線をそらした。
 入道雲が空高く聳え立っていた。
 
 
 一人きりで誕生日を過ごすつもりだった。
 その日が誕生日だとは言わずに、勝也はそれからも何度か陽に電話はしていた。
 けれど、いつものように、どこかへ誘えば行かないと言われ、わずかな近況報告で電話は切られる。
 それでも、勝也に対しての警戒心が少しずつ薄れてきているのは良く伝わってきた。
 それにつれて電話も長くなりつつある。
 電話だと、教師と生徒という枠が薄れるのかもと勝也は考えた。
 時間帯によって、陽しか電話に出ないことがわかってくると、勝也はだんだんにその時間に電話をかけるようになった。
 そして陽も最初の一言で勝也だとわかってくれる。
 そんなことがうれしかった。
 それでも二人きりで出かけようとはしない陽に、多少の苛立ちも感じる。
 学校を離れれば、何かが変わるというのを信じたわけではないけれど、その期待は膨らむ。
 けれどどうしても陽は壁を越えようとはしてくれなかった。
 勝也も自分から乗り越えようとは思わない。
 自分だけで乗り越えても、無駄だと、もうわかっているから。
 一人きりで過ごすつもりだったが、お盆に田舎に帰省していた秋良が帰ってきて、三池家に兄の洋也と食事に来たときに、何が欲しいのかと訊かれ、一緒に出かけて買ってよとねだった。
 一人で過ごすのが苦しかった。
 勝也の気持ちが秋良から離れたことを感じた洋也は、あれ以来、勝也の行動に対しては何も言わなくなった。
 
 誕生日、出かける前に勝也は陽に電話をかけた。
 八月のはじめからは顔を見ることもなく、こうして週に一、二度の電話が、二人を繋ぐ唯一の接点になっていた。
『珍しいな、朝から』
 陽の声は落ち着いて聞こえた。
「俺さ……」
 勝也は言いかけて、そのまま口を噤む。何を言っていいのか、わからなくなった。
『どうかしたか?』
「んー、いい。声を聞きたかっただけ」
 そう、本当は声を聞きたかった。
 そしてつい言いそうになる。
 秋良に会ってくる。これを最後にする。
 それを陽に言ってどうなるのだと、自分に言い聞かせる。
 陽を困らせるだけだ。
『宿題は済んだのか?』
 教師らしい物言いに、勝也はつい笑う。
「大丈夫、済みました」
『まぁ、三池なら大丈夫だと思ったけれどな』
 そしてまだ終わらないらしい、冬芽に対する愚痴めいた言葉を聞く。
 陽が冬芽に関することを言っているのは、聞いていてとても楽しい。自分達には見られない兄弟の姿のような気がして。
 笑いながら話を聞いているうちに、出かけなければならない時間になっていた。
「ごめん、ヨウ先生、俺、出かける時間だ。もっと話してたかったんだけど」
『そうか。気をつけてな』
「うん、ありがと。…………ヨウ先生、あのさ」
『何だ?』
 電話だと、垣根の見えない二人の関係。それが嬉しくもあり、悲しくもあった。近くなったようで、縮まらない二人の距離。
「俺、今日からきっと新しい俺になれるから」
『はぁ? …………変なことするんじゃないだろうな』
 陽の心配に勝也は吹き出してしまう。
「帰ってきたら、また電話する」
『気になるだろう。そんなこと言われると』
「うん、……ありがとう。でも、ほんと、大丈夫だから。また電話する。いい?」
『…………わかったよ』
 勝也は電話を置き、慌てて玄関を飛び出した。
 夏の太陽は、今日も一日、眩しい日差しを投げかけるようだった。
 
 
 映画を観て、昼の食事を一緒にとって、アミューズメントパークへ連れて行き、1日はあっという間に暮れていく。
「アキちゃん、楽しかった?」
 駅からの帰り道、星の瞬く道を二人で歩きながら、勝也は優しく問う。
「ほんと、勝也の誕生日なのにな」
「俺も楽しかったよ。すごく」
 勝也はクレーンゲームで勝ち取ったふにゃふにゃのパンダのぬいぐるみを両手でぷにぷにと押しながら、秋良に微笑みかける。
「アキちゃん、何もきかなかったよね」
 秋良との約束を破り、拳を上げ、振り下ろした勝也。その理由を問われ、拒否し続けてきた。その中で秋良は勝也を見守ることで支えてくれていた。
「だってお前、絶対しゃべらないって目、してたぞ」
 秋良の優しい笑顔に、胸が痛む。
 勝也はいつも感じていた。自分の背中に向けられる、心配そうな目。けれど勝也が真っ直ぐに見詰め返すと、秋良は安心した様に微笑んでくれた。
 その微笑みと信頼を失わない様にと思うことだけでも、勝也にとってはどれだけ心強かっただろう。
 勝也は足を止めた。
 どうした? と、秋良も立ち止まって振り返る。
「アキちゃん、これからもさ、アキちゃんって呼んでいい?」
 これからも変わらぬ気持ち。自分が自分をだましていた気持ちがやっと一つになる。これからは演じることもなく、兄の恋人として、この人を見ることができる。
 それがどうしても越えられなかった壁。超えられなかった想い。
 今、勝也はそれを越えようとしていた。
 秋良は笑って、いいよと返事をする。
「今更、どうしたんだよ」
 突然、勝也は秋良を抱きしめる。ぽとりと、ぬいぐるみが二人の足元に落ちた。
「勝也?」
 秋良は戸惑う様に勝也の名前を呼んだ。
「アキちゃん、俺ね、好きな人ができた」
 告白する声が微かに震えた。
 秋良はただじっと抱きしめられていた。
「その人のこと、アキちゃんより、好きかも知れない」
 秋良は抱きしめられたまま、バカと呟く。
「僕より好きで、当たり前だろ」
「だって」
 そんな人が出来るなんて、勝也は考えもしなかった。いつまでも、この苦しい想いを抱き続けなければならないのかと、自分を恨んでいた。自分を憎んでいた。この人を恨むことも、憎むことも出来なくて。
「今度、紹介してくれよな」
「まだ、駄目」
「昔の担任としてもか?」
 勝也の拒否を、兄の恋人とは紹介できないだろうからと受け取ったのか、秋良は寂しそうに言う。
「違うよ、アキちゃん。違うんだ。紹介できる様になったらさ、アキちゃんのこと、隠したりしないよ。ただね、まだ俺の片想いだから」
 勝也の答えに、秋良はそっと勝也の背中を抱いてやる。
「大丈夫だよ。きっと、勝也の気持ちは通じるさ」
「…………うん」
 そして勝也はそっと秋良を離す。
「片想いもね、楽しいもんだよ、アキちゃん」
 いつもの明るい声。それが秋良をどれだけ安心させるのか、勝也は知っている。だから変わらないでいられる。
 落としてしまったぬいぐるみを拾い上げ、秋良はそっと口接ける。そして……、自分の触れたところを、勝也の頬に押し付けた。
「頑張れ」
 勝也は驚き、すぐににっこりと笑った。
「最高のプレゼントだね」
 でもこいつむかつく、と言って、罪のないぬいぐるみを軽く叩く真似をする。
 いつまでも、生徒として、弟として存在しようと、自分の気持ちを縛っていた。秋良の気持ちのあり場所を作ってやるために、自分が無理をすればいいのだと思っていた。
 檻を作っていたのは勝也自身だ。
 分かれ道で手を振る。
 秋良を見送ることはできずに、駆け出した。
 手に残るぬくもりは宝物。今まで自分が大切に育ててきた宝物。
 ずっと心に残るものだから。
 勝也は堪えきれずにこぼれた涙を、腕で乱暴に拭いた。
 陽の声を聴きたい。
 これが、新しい自分の、始まりの日だから……。