『俺、今日からきっと新しい俺になれるから』
 勝也からの電話を切って、陽はしばらくぼんやりとその電話を見つめていた。
「ヨウちゃん、何してんの?」
 まだパジャマ姿のまま、髪に寝癖を残した冬芽がリビングで佇む陽に声をかける。
「ん…。何でもないよ。それよりお前、宿題できたのか?」
「おはようの前にそれかよー」
 冬芽が思いっきり顔をしかめる。
「できてないんだな、まだ」
 思わず声が低くなる。
「なんとかなるよ、なんとか」
 冬芽は引きつった笑いで誤魔化そうとする。
「春君に写させてもらうのは、無しだからな。写させないように頼んであるぞ」
 驚いた顔をして冬芽が振り返る。その表情に、冬芽が丸写しを企んでいたことを知る。
「今日は1日、見ててやるから、持って来い」
 陽の宣言に冬芽は叫び声を上げる。
「やだーーーーーー!!!」
 陽は笑って、そして再び電話を見た。
『またかけてもいい?』
 勝也の声が耳に残っている。それは今日のことだろうか。
 陽は瞬きをして、視線を電話からはずす。意識を勝也から引き離すために。
 けれどそれは成功とは言えなかった。
 1日に何度も視線が電話の上をさ迷う。電話が鳴るたびに、身体が強張る。
 そんな陽の様子に冬芽が不審の目を寄越す。どうしても宿題との格闘から逃れたい冬芽は、いっそ電話を待っているらしい兄に、電話がかかればいいのにと思う。
 そしてその電話は、ようやく暑い夏の1日の陽が翳った頃にかかってきた。
 
『ただいま』
 電話の声が陽だとわかったのか、勝也の第一声はそれだった。本当に今走って帰ったばかりのように、息も荒いのが伝わってくる。
「お…かえり……」
 喉に息が絡んだように、声が途切れる。自分でも可笑しいほど緊張しているのがわかった。
『ヨウ先生、俺、今日は誕生日だったんだ』
「そう……なのか?」
 言われてカレンダーに目をやれば、27日。夏生まれはいかにも勝也らしいと思った。
「16?」
 陽が確かめると、勝也はくすくす笑う。
『そりゃ、誤魔化してないし、ダブってもいないよ』
「そうだよな。おめでとう」
 言ってから、自分の年との違いに愕然とするのもまた事実だ。生徒と教師であることは、あまり年を意識しなかった。それをこんな風に言われて、年の開きにショックを受ける自分がいる。
 おめでとうという言葉の裏に、離れなければと思い、そう思う自分に愕然とする。離れるも何も、そんな位置に自分が立とうとしているのかと問い掛ける。どきどきしながら、それを否定する。否定しようとする。
 違うのだと、自分に言い聞かせる。
『今日、1日会ってきたんだ』
 勝也の声が静かに陽に語りかける。聞きたくない。咄嗟にそう思った。なのに、口がかってに訊いていた。
「誰に……」
 聞かなくてもわかる。だから言わないでくれ。陽の鼓動は苦しいほど速くなっていた。
『秋良さんに会ってきた』
 …………やっぱり。陽は思わず目を閉じていた。そしてそれが失敗であることを思い知る。
 瞼の裏に浮かんだのは、あの日、駐車場で抱きしめられる勝也と、優しげな面影のその人。
『会って、好きな人がいるって言ってきた。その人のことが誰より好きだって言ってきた。ヨウ先生のことだよ』
「…………」
 陽は答えられずに小刻みに震える手で受話器を握り締めていた。
『頑張れって言われた』
 そこで勝也は微かに笑ったようだった。
『これからも俺は、あの人の前では弟でいられるって、わかったんだ。俺が好きなのは、ヨウ先生だよ。もし許してくれるなら、陽って、名前で呼びたいんだよ。俺がそう呼ぶのは、今までにいなかったし、これからも先生だけにする』
「あの人のことは……」
 なんて呼ぶんだ? そう訊こうとして、はっとする。それを訊くと、勝也の気持ちを受け入れることになりはしないか。
『アキちゃん、って呼んでた。今まで。これからもそう呼ぶよ。あの人にとって、俺は弟だし、俺もそう思ってる。中学生の時の気持ちを否定はしないけれど』
 誠意のある答え、なのだろう。多分。
 それでも陽は聞きたくなかったが。
「あの人が、今でも好きなんだろ?」
 だからつい聞きたくなる。意地悪をしたい気分になる。
『今、好きなのは、ヨウ先生だよ。他にはいない』
 この言葉を信じてもいいのだろう。信じられると思っている。けれど、受け入れられるのかと問われれば、答えは否だ。
「だけど、俺は……」
 息が喉に詰まる。
『俺ね、けっこう諦め悪いんだ。ずっとこれからも先生のこと好きでいるよ。何があってもね。先生から顔も見たくないって言われない限りさ』
「三池……」
『だからさ、先生の答えは無理に聞きたくない。教師だとか、生徒だとか、年上だとか、年下だとか、俺には関係ないことだから』
 眩しいほど真直ぐな心。
 この心が欲しい。本音はそうだ。けれど、まだ何かが拒否をする。それが何であるのかは、陽にもわかっている。それが取り除ける日なんて来ない。
 そう思う自分の心が嫌だった。
『今日から俺は新しい俺になるんだ。陽先生のために』
 優しく響く声に、陽は泣きたくなる。
 どうしてこの暖かい気持ちを受け入れられないのだろう。
 でも、どうしても「あの人の影」が邪魔をする。それが存在するのは、自分だけなのに、どうして勝也は分け持ってくれないのかと、恨みたくさえなる。
『先生が好きだよ』
 甘い囁きに、胸が痛む。嬉しいはずなのに、痛いのは何故なのだろう。
「………………ごめん」
 でも、駄目。どうしても駄目。
 陽は振り絞るようにそう言った。
『いいよ。言ったでしょう? 俺は諦めが悪いんだ。好きでいさせてもらえるなら、それでいいんだ』
 勝也のほうが大人だと陽は思った。常に相手の気持ちを先に考えている。それは学校でもそうで、陽はどれだけ勝也に助けられただろうかと思い返す。
 こんなに担任を持つのが楽だと感じたことは、今までになかったほどだった。
「俺にはわからない」
 陽はそれだけを答えた。勝也を信じているのに、それを信じられないと言いたい自分の気持ちがわからない。
 勝也はそれでもいいんだと明るく言う。きっと無理にも明るく言ってくれるのだとわかる。そして、しばらくはそれに甘えようと思った。
 勝也がそれでいいと言うのなら。
 電話を切ってリビングに戻ると、弟の影はどこにもなく、陽はそれにどこかほっとしていた。今は誰にも自分の顔を見られたくなかった。きっと、弱くなっているから……。
 
 
 
 二学期は特に大きな変化もなくスタートした。
 夏休み明けの高校生男子の顔は、やはりどこか大人びていて、それでいてまだ少年期の不安定さも残している。
 その中にあって、『新しい俺になる』と言った勝也は、目元にきつさが加わり、頬がシャープになり、同じ一年生の中では前から大人に見えていたが、益々男らしさを加え、抜きん出て見えた。
 陽を見て笑う顔に翳りはなく、以前の孤独感が消えた勝也は、印象が話しやすくなったのか、常に人の輪の中心にいるようにも見えた。
 日常に変わったことはなかったが、学園祭が近づき、勝也はその実行委員に立候補した。
「大丈夫なのか?」
 陽が放課後、廊下で勝也を呼びとめて心配すると、勝也は笑って大丈夫だと言った。
「ただ、クラブのほうを少し抜けちゃうことになりますけど」
「それは、……まぁ、みんなもわかってるだろうし」
「今まで聞いたところによると、学園祭の実行委員をしたほうが、生徒会長には近道らしいですしね」
 勝也の説明に陽は驚いた。
「生徒会長って……、三池……」
「やりますよ。学園祭のあとの選挙に出ます」
「一年生じゃ無理だ」
 きっぱり宣言する勝也に、陽は怯えたようにそれを引き止める。
「最初に言ったでしょう? 委員はやり慣れているんです。大丈夫です」
「どうしてそんなこと……」
 それは、委員をやりたいと言うものはいるだろう。人から推されるだけの人望もあるだろう。けれど……。今の時期でなくてもと思う。まして一年生ではやりにくいだろう。
「んー、内緒」
「内緒って……、なんだよ、それ」
 思わず教師らしい口調がはがれてしまう。そうすると勝也は嬉しそうに笑った。その笑顔が眩しい。
「言っちゃったら、カッコ良くないだけ」
 勝也も優等生の言葉遣いをやめて陽に笑みを向ける。悪戯っ子のような邪気のない笑顔。眩しくて陽は顔を無理して背けた。
「成績下がったら知らないからな」
 せめてもの強がりだというのは、陽にもわかっていた。
「下げませんよ。満点取ったら……」
「何も約束しない!」
 あんな苦しい駆け引きはしたくない。陽が即座に否定すると、勝也は一瞬呆気にとられていたが、すぐに優しく笑った。
「わかりましたー」
 ふざけ気味の声にぱしんと肩を叩いて、廊下を左右に別れた。
 そして心の中で思う。
 ………………今のままでいいじゃないか。
 
 その日、陽は数学科の教科主任に頼まれ、県の社会教育課に出かけた。私立学校の情報交換と研究授業の持ち回りについての会議があるためだった。
 ほぼ儀礼的にレジュメの通りに行なわれる一時間ほどの会議を終えて、陽は指定の書類を提出し、帰ろうとエレベーターに向かった。
「アキラ!」
 呼ばれる声に思わず振り返る。だが、こんなところで自分を名前で呼ぶ者がいるはずがないと思い直し、再びエレベーターを待とうとした。
「大きな声で呼ぶなよ。恥ずかしいな」
 柔らかい声が聞こえた。その声に聞き覚えがあるような気がして、振り返ってしまった。そしてすぐに振り返ったことに後悔する。
 困ったような笑顔で、彼が立っていた。呼びとめた人は、まだ廊下の向こうにいるらしい。
 驚きよりも、疑問よりも、胸に湧き上がった想いに、陽は自分で愕然とする。それを認めたくない。
 けれど、それを認めれば、今までの自分の気持ちに整理がつく。
 嫉妬。
 胸に迫ったのは、憎しみを抱くほどの嫉妬だった。
「あの……」
 声をかけてどうするのだと、自分でも思った。けれど、つい声をかけてしまった。
 彼は振り返り、不安そうに陽を見た。
「三池のことで……、話を……」
 声が震えているのがわかった。
 みっともないなと思いながら、驚くその人の顔を見ていた。