『三池のことで……、話を……』
 陽は震える声で彼に声をかけた。
 振りかえったその人は、驚いた様子で陽を見ている。
「秋良?」
 彼を呼んでいた人が廊下の角から姿を出した。
「どうした?」
 彼の肩に手をかけ、その男はちらりと陽を見た。
「あ、あのさ、ちょっとこの人と話があるんだ。鳥羽、先に帰っててよ」
 いいのか?と、鳥羽と呼ばれた男が心配そうに秋良と陽を見比べる。
「うん、久しぶりに会ったんだ。ちょっと話したいし」
 少し不満そうに、鳥羽はふーんと言い、陽をちらりと見てから、何かを囁く。
「いいよ。そんなんじゃないから」
 鳥羽の肩を押して、秋良は陽に向き直って、「お待たせ」といかにも友達らしく並んで歩き始める。
 陽が振り返ると、鳥羽は陽を睨んでいるように見えた。
 
「それで……、話って……」
 近くに見つけた喫茶店に二人で入った。
 それぞれに飲み物をオーダーし、運ばれてくるまでは無言で座っていた。さぞ、周りからは変な組み合わせに見えただろう。
 ウエイトレスはチラチラと二人を見ながらカップを並べて去って行く。
 それを見届けてから、秋良が陽に尋ねてきた。堪りかねて聞き出したという感じだった。陽も、話があると口走ってしまったが、何を話すつもりだったのか、どう切り出していいものか、考えあぐねていたので、直裁に聞いてもらえることは助かったかもしれない。
 だから陽も、そのまま聞き出そうと腹を決めた。
「あなたと三池はどのような関係なのでしょう」
 しかし、その質問は秋良を追い詰めたようだった。ぐっと口を引き結び、俯いてしまう。
「三池のこと、好き……なんですか?」
 俯くその人に陽は重ねて尋ねた。
 あの日、駐車場で躊躇いもなく勝也を抱きしめた人。その姿が今も陽の胸に焼き付いている。
 好きかと聞かれ、秋良は顔を上げた。
 鳶色の優しい瞳。曇りのない彼の心を映しているようで、陽は思わず目を逸らしてしまう。
「それを答える前に聞きたいんですが、あなたは洋也とどのようなお知り合いなんですか?」
「え?」
 秋良の口から出た名前に、陽は再び秋良を見た。
「洋也?」
 それは確か……、と陽が記憶を手繰り寄せる。勝也がいつも比べられていた、兄の名前ではないだろうか?
「三池って、洋也のことじゃないんですか?」
 陽が怪訝な顔をしたからだろうか、秋良も不思議そうに陽を見た。
「三池勝也のことですが……」
 陽が言うと、秋良は一気に緊張が抜けたように微笑んだ。
「なぁんだ。びっくりした」
 本当に緊張していたのだろう、その解けた笑顔が優しくて、陽はまた目を背けてしまう。
 …………見ていたくない。
 そんな陽を秋良は心配そうに見つめる。
「ごめんなさい。勝也の……先生ですか?」
 そう、直接会うのはこれがはじめてなのだと改めて陽は思った。自分は二度、この人を見ているが、声をかけることはできなかった。
「はい。担任を持たせてもらっています、朝比奈陽です。名乗るのが遅くなって、すみません」
「僕は安藤です。安藤秋良。同じ名前ですね」
 曇りのない笑顔がこんなにも憎い。
 同じ名前だと笑って言えるこの人を、どんな思いで見ているのか知らせてやりたいと思いながら、知られたくないと意地にもなる。
「あ……、あの」
 先ほどとは反対に、陽の方が俯いてしまう。毅然としていようと思いながら、その笑顔に負けてしまう。そんな陽に気遣う声がかかる。
「勝也と僕の関係をお聞きになりたいんですか?」
「はい」
 やはり呼び止めたりしなければ良かった。すみませんでしたと言って、この場を走り去れたらどんなに楽になれるだろう。
 だが、そんなことできるはずがない。後で勝也にばれたら、なんと説明すればいいのだろうか。勝也の気持ちを拒みつづけているのは自分の方なのに。
 息苦しいほどの思いで、陽は必死に座り続ける。
「勝也は僕が最初に受け持った生徒です」
「え?」
 思わぬ答えに、陽は驚いて顔を上げた。微笑むその人が陽をみつめている。
「僕が新任で6年生を受け持った時の生徒です」
 教師だったのかと、陽は少し放心気味に秋良を見た。社会教育課で会ったのだから、その可能性が高いということなど、陽の頭からはすっぽり抜けていた。それほど緊張していたのだろう、陽自身も。
「生徒……」
「信じられないでしょう、新任で6年生を持たせるなんて」
 陽は曖昧に頷く。小学校の現状は知らないが、確かにいきなり6年生は難しいだろうと思った。
 高校で言えば、いきなり3年の担任を持たせるようなものだろうか。そんなことはほとんどありえない。
「ちょっと大変なクラスだったんです。その中で、勝也にはとても助けられました。あいつがいなかったら、辞めてたかもしれません。勝也もかなり……」
 そこで秋良は言葉を切った。陽が不思議そうに見詰め返すと、秋良は何かを思い出したのか、クスクス笑い出す。
「勝也もかなり手を焼かせる奴だったんですけれどね」
 その笑顔を見ながら、陽は苦い思いを噛み締める。
 …………そんなに前から勝也はこの人を好きだった。苦味は陽の全身に広がっていくみたいに思えた。
「今でも三池と付き合いが……」
「はい。勝也の兄と、……仲がいいですから、それで」
 その言葉の含みに陽は混乱する。
 確かに勝也の兄である洋也が、あの時、この人を連れてきた。
 そして言ったのだ。『秋良になら話せるのか』と。
 その時に『アキラ』という人物が勝也の身近にいると知ったのだから、間違いがない。
 ならば、勝也と洋也、どちらと先に出会ったのか? その疑問が陽の心に浮かび上がる。
「お兄さんと先に知り合われた……?」
 できればそうであって欲しいという思いが聞かなくてもいいことを聞いてしまう。
「……いいえ、勝也を通して、です」
 身体が震えるのがわかった。
 聞かなければ良かったのだ。後悔だけが陽を支配する。
「あなたは、三池の気持ちに気がつかなかったんですか?」
 こらえきれず口を出た言葉は、目の前の人を責めていた。
 きっと気づかなかった。知っていながら利用した。そんなことなんじゃないかと叫びたかった。それと同じ意味を言ってしまったが。
 そして秋良の悲しそうに変わっていく表情を見て、少しも胸のつかえが取れないことを知る。
 知っている……。知っているのだ、この人は。
 それでも、その手を取れなかったのは……。あの冷たい兄のためなのか?
 そして、兄と弟のあの確執に、この人の存在があるのだと理解できて、陽は絶望さえ感じた。
 勝也が痛々しくて……。
「勝也は……、弟のような存在ですから」
 嘘だ……。その言葉が口をついて出そうになる。
「いつでも、僕を兄のように慕ってくれましたから。僕もそれに甘えていました。それでうまくいっていると、……信じようとしていた。あいつが高校生になるまで」
 高校生になるまで……?
「あいつ、高校に入って、僕の前では今までと同じように、子供の振りをして見せてくれていて、でも、なんだか変わったなって思うようになりました」
「どんな……ふうに?」
「…………それまでは、あいつの考えていることって、僕には良く見えたんですよね。良くも悪くも僕はそれに安心していて、勝也に甘えていたんです。二人の間で、兄のように、弟のようにという、確認みたいなものがとれていて……」
 そこで秋良は寂しそうに笑った。陽には笑ったように見えた。
「それが、高校生になったら、まったくわからなくなって、あの……停学騒ぎが起きて」
「あぁ……」
「原因はわかりましたか?」
 反対に聞かれ、陽は静かに首を横に振った。秋良はそれを見て溜め息をつく。
「学校から電話を受けたお母さんはとても驚かれて、洋也に電話をかけたんです。お父さんが出張で留守で」
「ええ、そう……でしたね」
「で、僕はその時、良くわからなかったんですが、とにかく勝也に話をするように説得してくれとそんな風に言われたとか?」
「はい。三池は訳を話そうとしませんでした。それでは一方的に三池が悪くなってしまいそうだったので」
「それで洋也は僕を学校まで迎えに来たんです」
「…………」
 陽は何と言っていいものかわからずに、ただ秋良を見つめる。
「僕も最初は、簡単に説き伏せられると思っていました。勝也に喧嘩の原因を聞くくらいは……と」
 秋良の声は穏やかで、聞いていると優しい気持ちになれるような気がした。きっとこんな先生に教えられれば、子供達も幸せだろうと思う。
「けれど、駄目でした。絶対に話せない。頑としてそれだけは譲ろうとしませんでした。それが僕にはショックだったんですけど、同時に、なんだか、手の中で温めていたものが飛び立って行ったような気がして、とても寒くなった気がしました。勝也は目の前にいるのに」
 そう言って実際に秋良は膝の上に両手を広げて見つめていた。
「あいつにはもう大人の翼が生えていたのに、僕はそれを見たくないと、小さくたたませていたんですね。それを勝也は自分の意思で広げ、飛び立って行ったんです」
 秋良は今もそこに羽のぬくもりが残っているように掌を見つめて微笑む。
「この夏、勝也は16歳になりました。その日、一緒に出かけて、…………言われたんです。好きな人ができたと。その人が一番大切だと」
 陽は身体をぴくりと震わせた。
「その時に言ったんです。勝也の想いが通じたら、会わせてくれって」
 陽は何も言えずに唇を噛み締めていた。
 誰が誰を好きなのか、それすらもわからなくなりそうだった。
 陽には勝也が好きなのは、やはりこの人のように思えてならない。そして、この人も本当のところ、好きなのは勝也なのではないかと。
「その時に、『はじめまして』ってご挨拶したいです。あなたと」
 陽ははっとして秋良を見た。
「大切にしてやって欲しいです。勝也は自分の羽であなたを見つけたから」
「でも……」
 声が喉に貼りつくような気がした。
 目の前ですっかり冷めていたコーヒーを飲む。
「僕はあなたの代わりなんだ。同じ名前を持つから、……だから、三池は僕を選ぼうとしているだけだ」
 ずっと抱えていた想いを陽はその当事者にぶつけてしまった。それで自覚してしまう。もう、……隠せないと。
 認めるしかない、勝也への気持ちを。
 言ってしまってから、陽は目の前の人を見つめた。
 秋良は驚いたように陽を見ていた。そして微笑む。とても悲しそうに。
「それだけは……、勝也はしません」
 ゆっくりと噛み締めるように秋良は言った。
「そんなこと……」
 わからないじゃないか。陽は叫びそうになる。
「しないというより、できないでしょうね」
「あなただから、そんな風に言い切れるんだ」
 陽が震える声で告げると、秋良は変わらぬ微笑みを浮かべ、首を振った。
「僕は少し前に……精神的に混乱をきたしたことがあって、…………そのときにどうやら勝也と洋也を見間違えたみたいなんです」
「え…………」
 思わぬ告白に、陽は驚いて秋良を凝視する。その柔らかな微笑みに圧倒される。
 そんな大変なことを微笑んで話せることに驚く。
「実際には、みんなが僕を気遣って詳しくは話してくれないので、僕には想像することしかできないのですけど、洋也がいなくなって、僕はおかしくなってしまったみたいで……」
「覚えていないのですか?」
 他人のことを話すような口ぶりに、陽は尋ねてしまった。秋良は微かに顎を引いた。
「覚えていません。今でも思い出せないのです。その時に、僕は洋也と勝也を間違えて……、勝也は……、洋也になろうとしてくれたそうです。どんな気持ちでそうしたのか、想像するしかできませんが、とても苦しかっただろうことだけはわかるつもりです。勝也は今も僕たちを許してはいませんから」
「僕たち……」
「洋也と僕です」
「でも、三池はあなたのことを……」
「気持ちの上で許すのと、兄弟としてつきあっていくのは別なのでしょうね。いつも勝也と僕の間では、無言の取引があるようなものです。このままでいようという……」
 陽は何も言えなくなっていた。
 勝也の淋しそうな背中を思い出す。
 何故そんなにも孤独なのかと、わからなかった。
 これだけのものを抱えていたのかと愕然とする。
「だから、人を身代わりにするなんて、あいつは絶対しません」
 三池の言葉が蘇る。
『あなたをあんなに辛い立場に立たせたりしない』
 あの言葉には、そんな意味があったのだ。
「信じてやって……くれませんか?」
「あなたは三池のことを……、どのように?」
「僕にとって、『三池』と聞かれれば、真っ先に思い浮かぶのは、洋也という名前です。勝也は……、その弟です」
 勝也が聞けば尚も傷つくような言葉だろう。それでもこれだけ言ってくれるのは、自分のためなのだろう。
「勝也が好きになるなら、アキラという名前でない方が……楽でしょうね。それでも勝也は諦められなかった。それがあいつの気持ちのすべてです」
 同じ名前と知ってから、勝也が告白してくるまでに流れた時間を、勝也はどのように過ごしたのだろうか。陽は自分と勝也の間に流れた今までの時間を思い返す。
 秋良は勝也に甘えていたと言ったが、自分だってどれほど勝也に甘えていただろうか。
「もう一度……あなたに会いたいです。今度は、勝也の大切な人として」
 こうして向かい合わせに座ってから、ずっと変わらぬ笑顔。その笑顔の中から陽は大切な何かを受け渡されたように感じた。
「……約束は……できません」
 まだ気持ちの整理がつかないから。……卑怯だけれど、もう一度、勝也の気持ちを聞きたいから。
 それでも秋良は微笑んでくれた。
 喫茶店を出ると、秋良の携帯が鳴った。
「鳥羽が電話したの? ……心配性だなぁ、二人とも。……以前研修会で会った先生なんだって。……何も心配しなくていいって。……今から帰るところだから。迎えに来なくていいよ」
 秋良は何やら文句を言っているようだったが、その横顔は先ほどまでの微笑とは全然違って、幸せそうな笑顔をしていた。
「いいってば、もう……。まっすぐ帰るから。じゃあね」
 電話を切り、ポケットに入れてから秋良は陽にすみませんと謝った。
「お兄さんの……ほうですか?」
 はにかんだような笑顔が陽の質問を肯定していた。陽にしてみれば、とても冷たいという印象しかないが、きっとこの人には違うのだろう。
「今日会ったことは内緒にしましょう。僕たちだけの」
 秘密を分け合って、駅前で別れた。
 また……会うことがあるだろうか。
 自分の中に芽生えた自覚を、陽はどう扱っていいのかわからず、その人の細い影を見送った。