家に帰りついてから、電話を持ってはかけられずに、眠れぬ夜を過ごした。
 本心では勝也の声を聞きたいと思っていた。けれど、何を話していいのかわからない。
 学校の連絡以外で、勝也に個人的に電話をかけたことがないと、今更ながら気がついた。いつも勝也からかかってくる電話に出て、問われるままに話し相手をしていたという事だろう。
 ならば、どんな思いで勝也がかけてきてくれていたのか。
 電話を見つめて溜め息をついた。
 うつらうつらと眠ったような気もするが、朝を迎える時には起きて窓の外を見ていた。
 寝不足でだるい身体を引き摺って、一階に降りると、母親が朝食の仕度をして待っていてくれた。
「冬芽はもう出かけたわよ」
 顔色の悪い陽を心配するように、母親が声をかけてくれる。
「今日は車で行くよ」
 荷物の多い時や用事のある時以外は電車で行くようにしていたが、この重い気分で電車に乗る気にはなれなかった。
「大丈夫なの?」
 心配そうな母親の声に笑って答える。
「ちょっと寝不足なだけだから」
「そう?」
 陽の答に母親は手を止めて、もの言いたげにじっと見つめてきた。
「何?」
 何か母親を心配させるようなことをしただろうかと、陽は食事をやめて見つめ返した。
「本当はね、朝から話すことじゃないんだけれど……。私たちは夜が遅いし、陽とも休みが合わないでしょう?」
 思いの他、重大な話をされるのではと陽は身構えた。
「あなた、お付き合いしている人とか、いないの?」
 突然問われて、ドキッとした。息を呑む。
「どう……?」
 ドキドキする心臓を宥めるように、陽はコーヒーを飲みこんだ。
「……いないよ。…………どうして」
 大人びた笑顔が心に浮かぶ。そしてそれを意識するなと、自分に言い聞かせる。
「先週のことなんだけれど、Tホテルの支配人さんが来られたの」
 Tホテルには朝比奈家が経営するレストランの支店がテナントとして入っている。その関係で、支配人が来る事があるらしい。
「それで、支配人のお嬢さんが今年大学を卒業されるのですって。私たちもお会いしたんだけれど……」
「ちょっと待って」
 堪らずに陽は母親の言葉を遮った。それ以上を聞くのは躊躇われた。
「悪い話じゃないと思うのよ」
 それはそうだろう。だが……。
「ごめん。会うつもりはないから」
 何かを言われる前に断わってしまう。そうしなければ、ずるずると話をまとめてしまわれそうだった。
「付き合っている人がいないんでしょう?」
「……いないけれど、まだそんな気持ちになれないよ」
「それは、会ってみないと……」
「……ごめん。……もう行くから。その話、もうしないで」
 陽は食事も途中に、逃げ出すように家を出た。
 車にエンジンをかけて、通いなれた道へとハンドルを切る。
 友人達の中には既に結婚しているものも何人かいた。子供がいる友人もいる。それくらいの年齢だというのもわかっていた。
 だが、まだ自分にとっては現実味の薄い問題だった。
 真剣に交際している女性がいないせいで、結婚そのものを意識した事もなかった。
 そして、その話を出されてからずっと、考えるのは……、あの精悍な笑顔だった。
 この頃、勝也の事を思い出すと、いつもそれは笑顔に結びついた。
 最初の頃は気難しい顔や、寂しげな背中ばかりだった。その変化に陽自身が戸惑ってしまう。
 こんなにも……、こんなにも、勝也が自分の心の中にいると認めなくてはならなくなって。
「先生、連絡事項はありますか?」
 昼休みに突然声をかけられて、陽は飛びあがるほど驚いた。
 今朝の母親との会話を思い返しては、胸に浮かぶ勝也の面影を消すのに必死だったから、背中から声をかけられて、実際大きな音をたてて椅子から立ち上がった。
「…………どうかしましたか?」
 切れ長な目がすっと細められて、訝しげに陽を見た。
「……何も……ない。驚かせてすまない」
 陽はどぎまぎしながら腰を下ろして、隣に経つ勝也を見上げた。
「連絡事項は……、ない。学園祭に向けての注意事項くらいだな。……うまくいってるのか?」
 周囲との軋轢を心配して陽が尋ねると、勝也は微笑んで、それを否定も肯定もしなかった。
 はぐらかされたような気がして、内心むっとしたが、それを押し隠す。
「大丈夫ですよ」
 それでも陽の様子を汲み取って、勝也は何でもないように返事した。
「……それならいいけれど」
 今日、はじめてじっくりと顔を見て、陽はつい昨日の柔らかな笑顔を思い出していた。
 小学生の……勝也。
「どうかした?」
「別に……。お前にも……小さな頃はあったんだろうなと思って」
 誤魔化すように言うと、勝也はくすくす笑った。
「多分、今と変わりありませんよ。優等生だったんです」
 嘘をつけ。そう思ったが、かろうじてその言葉を飲みこんだ。それは言えないし、言いたくなかった。
「僕は、手を焼かされたけどな」
 冗談混じりに言うと、勝也は肩を竦める。
「俺は、嫌いな先生の前では、優等生なんです。余計な事で、嫌いな教師とは喋りたくないから」
 うかつな奴。陽はその答を聞いて、苦々しく笑う。
『勝也もかなり手を焼かせる奴だったんですけれどね』
 笑いながら言った人。それが全然負担ではなさそうに。
「じゃあ、せいぜい優等生になってもらいたいものだな」
 つい皮肉を交えて言ってしまうと、勝也の表情はすっと消えた。そうしていると、あの兄の冷たい表情と重なる。
「もちろん、……いい子にしますけどね。先生が望むのなら」
 声まで低くなり、視線がきつくなる。
「……たの………むよ……」
 陽は掠れる声でそれだけを言った。
 勝也はふっと口角を上げて笑った。年に似合わない大人びた笑顔だった。
 軽く礼をして出て行く勝也の背中を見送って、陽は心の中で呟いた。
『お前は……、もう……、寂しくないのか?』
 もちろん、勝也がそれに答える事はなかった。