学園祭の準備で学園内がざわめく頃、陽は心配していた噂を耳にした。それは教師の口から口へと伝わり、陽の元へ届いた。
「朝比奈先生、学園祭の実行委員会がもめているって聞かれましたか?」
 同じ数学担当の教師が心配そうに聞いてきたので、陽は知らないと首を振るしかなかった。つい先日も、勝也に尋ねたが、勝也は返事を曖昧に濁した。
 その時に気づくべきだったのだろう。うまくいっていれば、陽を心配させる奴ではないと。
「いや、……なにも聞いていないですが」
「どうもね、二年生、三年生が、下級生の言う事ばかりは聞けないと、反発しているようなんです。それで、何を決めるのにもぎりぎりでないと決まらないとか」
 だから……大丈夫なのかと、聞いたのに。
 はぐらかすばかりの勝也にイライラする。
「ぎりぎりでも決まって、動いてはいるようですが、その分、みんなの負担は増えるようでね。実行委員長は何をしているんだと、そんな声が高くなっているようですよ」
「そう……ですか。一度、きちんと話を聞いてみます」
「まぁ、今更、委員長を変えられるわけではなし、このままで行くしかないんですがね」
 同僚の教師はそう言って、部屋を出て行く。研究室に取り残された陽は、誰に遠慮もなく、深いため息をつく。
 校舎の内外から、生徒たちの声が聞こえてくる。
 クラブ活動と同時に学園祭の準備にも忙しいのだろう。
 剣道部は模擬演技と、ヨーヨーすくいを出す予定だった。近隣の小中学生や住人、生徒たちの家族もやってくるので、そんな出し物が人気があったりした。
 クラブの人数自体が少ないので、店番が1人でも大丈夫というそんなものしか用意が出来ないのだ。
 模擬演技は竹刀での試合と、木刀での型を見せる事になっている。
 剣道の試合を実際に目にした人は少なく、間近で見る迫力に、はじめて見る人達は唖然とする。
 勝也は竹刀よりも木刀の扱いに秀でていた。
 木刀での試合はないが、すっと刀を下ろされると、木で出来ているとわかっているのに、白刃が見えるような気がした。
 勝也が実行委員長になってしまったので、木刀の演技は陽がする事になった。それでなくてもクラブ員は少なく、竹刀での試合をさせるだけで手一杯である。
 この学園の生徒の偏差値は高い。三年生は事実上、実行委員になったとしても、名前だけで、実際に活動をする事は少ない。受験の為である。
 クラスで活動するのも、1、2年生が主体となる。1年生は勝也を主体としてまとまりつつあるようだが、上級生はプライドが邪魔をして、下級生の言うことを素直に聞くことが出来ないのだろう。
 それでも学園祭を潰すつもりはなく、ぎりぎりまで粘って、委員長を困らせてやろうという事だろうか。
 幼稚なプライドだが、予想できた事態でもあり、陽は「だから」と言いたくなる。
 委員長をするなら、2年生になってからでもいいものを。そう言いたい。
 自分ばかりが悩んでいても仕方ないので、陽は勝也を探すために部屋を出た。
 校舎の中にも、グランドにも残っている者はまばらになっていた。
 文化祭実行委員会の委員会室に割り当てられた第二視聴覚室を訪ねると、既にみんな帰った後らしく、鍵がかけられていた。
「もう帰ったんだろうか」
 一人呟いて、陽は体育館を目指した。
 他に勝也を探す場所に思い至らない自分が情けなかった。
 体育館はがらんとしていた。誰も使用していない体育館の階段を上がり、剣道部の部室を覗く。
「あれー、ヨウちゃん、どうしたの?」
 暢気に聞いてくる冬芽の頭をはたく。
「いてーな。何すんだよ」
「学校では、ちゃんと先生って呼べって言ってあるだろ」
「いいじゃん、俺と春だけなんだし」
 冬芽と幼なじみで、二人の家の隣に住む春が、苦笑いを浮かべる。
「良くないの。気持ちの問題」
「ふーん。で、何か用?」
 二人は既に着替えて、帰るだけになっていた。
「三池を知らないか?」
「あ、三池なら、道場にいる。ちょっと残りたいんだって。鍵はちゃんとするって言ってたし」
「そうか……、じゃあ、二人は気をつけて帰れよ」
「んじゃーね。バイバイ、ヨウちゃん」
 こいつっと思った時には、冬芽はもう扉近くまで走って逃げていた。
 春が笑いながら、陽に頭を下げて出て行く。冬芽も春くらいけじめをつけてくれればいいのにと思いながら、陽は道場へ行く為に部室を出た。
「帰ったら叱られるぞ」
「大丈夫だって、謝ったら許してもらえるしー」
 階段を降りていく二人の声が聞こえてくる。冬芽の甘えた考えに頭を抱えたくなるが、実際に謝られると許してしまうのである。
 甘いとはわかっているのだが、けじめをつけなければいけない場所では、ちゃんと一人の生徒として陽に接してくるので、二人を兄弟と知る人は少ない。
 兄と弟は、本来そういうものではないのか?
 甘え、甘えられる存在。特に、自分たちのように、年が離れていれば尚更。
 だから勝也と兄の関係には理解しがたいものがあるのだった。
 とりあえず、帰ったら冬芽を叱るのだと決めて、陽は道場の扉を開けた。
 道場を見て、どきんとした。
 西日の差し込む広い板張りの床、勝也はその中央に正座していた。
 陽からはやはり背中しか見えない。
 紺色の胴着と袴。ぴんと伸びた背筋。
 右脇に置かれているのは、竹刀ではなく木刀だった。
 勝也一人、なのに、道場の空気は凛と張り詰めていた。
 声をかけられなかった。
 かける言葉を見つけられなかった。
 言いたいことは山ほどあった。
 勝也がこうする事で何もかもを飲みこもうとしているのはわかった。そうすることもできるのだろう、勝也なら。
 だけど、何故、と思う。
 何故、何もかも一人で飲みこもうとするんだ。
 いつもそうじゃないか。
 いつも一人でいようとするじゃないか。
 一人で解決しようとするなよ。
 どうして……、頼ってくれない。
 ここに、俺がいるのに。
 そう考えて、陽は自分の気持ちが急に恐ろしくなった。
 ……駄目だ。
 ……駄目。
 ここにいると気持ちが引きずられる。
 勝也へ。
 …………勝也へ……。
 けれど、逃げ出せなかった。
 足がはりついたように動かなかった。
 怖いのに、恐ろしいのに。
 勝也が、自分が怖いのに、動けなかった。
 その時、勝也がゆっくりと振り返った。