振り返った勝也は眩しそうに目を細めて陽を見た。
 木刀を持って、片膝を立てて立ちあがる。流れるような所作だった。
「先生?」
 立ちあがったその位置で、勝也は話しかけて来た。
「何かありましたか?」
 気遣うような台詞に、陽はさっと頬に朱を刷いた。
 勝也を心配してやってきたのに、反対に心配されているらしい自分に恥じて。
「何かあったのは、三池の方じゃないのか?」
「どういうことです?」
 勝也は大股で歩み寄ってきた。どんどん縮まる距離に、陽は怖気づいて、数歩下がってしまう。身体が完全に道場から出てしまう。
「お前、礼!」
 陽に続いてそのまま、道場を出ようとした勝也に、思わず怒鳴ってしまった。身に染みついた習慣というものだろうか。
 勝也は肩を竦めて、身体を反転させ、深く身を折った。すぐにまた陽を振り返る。
「俺を探してここに来てくれたんですか?」
 にっこり笑うその顔から、陽は視線を逸らせた。
「学園祭、てこずっているんだって?」
 陽が訊くと、勝也は苦笑した。
「なんだ、そんな事だったのか」
 勝也はそれだけを言うと、壁にかかっている剣道場の鍵を取り、扉を閉めた。
「そんな事って、大変な事だろう? もうあまり時間も残っていないんだし」
「大丈夫ですよ」
 勝也はあっさり答え、道場の鍵を閉めた。
「大丈夫って、……お前……」
「先生、今日は車?」
「は?」
 唐突な話題の転換に、陽は虚を突かれ、ぽかんとなってしまった。
「そんな無防備な顔をしないで下さい。思わず抱きしめたくなりそう」
「み、三池っ!」
 陽は焦って、後ろに下がった。と、背中に階段の手摺りが当たる。
「危ないですよ」
 ぐいっと腕を掴まれて引き戻された。
「そこまで逃げなくても、先生が嫌がることはしません」
 勝也は苦笑混じりに陽の腕を離した。まだ掴まれた部分がじんじんとしていた。
「で、車ですか?」
「あ、ああ。車で来たが」
「残念、車じゃなければ、一緒に帰ろうと思ったのに」
 勝也は微笑みかけてから、部室へと足を向けた。
「なぁ、学園祭……」
「先生、きっと説明しても心配なんでしょう? そりゃ、心配してもらえるのは嬉しいけれど、信用して見ててくれないかなぁ」
 部室までついて入り、陽は壁にもたれて立った。勝也は陽の目も気にせず、着替え始める。
 もちろん、剣道部の誰もが、同じ男の目など気にするはずもなく、人目もはばからずに着替えるのだが……。
 陽は思わず横を向いて、勝也を視界から消した。
 広い肩幅、日に焼けた肌、陽が望んで得られなかった体格が目の前にあった。
 最初は羨ましいと思い、次第に怖くなった。
 剣道は体格だけがすべてではない。柔道のように体重で級を分けてもいない。自分の身体と竹刀一本。それだけが勝敗を決する。
 だからこそ欲しかった。相手を威圧するだけの身体が。
 努力しても伸びなかった身長を補うには、敏捷さと奇襲しかなかった。それでも限界はすぐにわかった。
 だから余計に勝也が羨ましく、憎くもあった。
「二年、三年の実行委員にちゃんとするように、先生方から根回しをした方がいいんじゃないのか」
 勝也の笑う気配がした。
「そんなの、必要ないです」
「だけどな、三池。実際苦労しているんだろう?」
「もう、着替えましたよ」
「え?」
 声につられて振り返ると、なるほど勝也は学生服に着替えていた。そして目が合う。真剣な瞳が陽を見ていた。
「三年生は特に問題じゃないです。どちらかというと、僕が二年生を掌握できれば、こちらについてくれそうな雰囲気はあるかな」
「だから、その二年生が」
「そうですよね。結局、こちらの提案が一番いいとわかっているのに、ぎりぎりまでそれを認めようとしない。その繰り返しです。でも、ぎりぎりまで何しないでいるほど、俺も間抜けじゃないんで」
「どういう……?」
「こちらは最善の方法を最初から提案している。議決を待つだけの状態でいい。なのに、その議決を渋る。一年生は賛成、二年生は反対、三年生は保留というのが、いつものパターンですね。でも、他の方法をといえば、役に立たない案ばかりを出してくるから、それは認められない。その間に、議決を得られればすぐに動き出せるだけのことはしてあります。どうせ、期限を破ってまで反論する勇気のない人ばかりです」
 陽は言葉をなくして、勝也の説明を聞いていた。こいつ、本当に15才なのか? その慧眼が恐ろしくもあった。
「学園祭が失敗してもいいと思われたら?」
「もちろん手は打ってあります。三年生が半分以上落ちてますので、これからはずいぶん楽になりますよ」
 何も心配することなどはなかったんだ……。
 自分が助けてやれることなどなかったんだ……。
 急に寂しさを感じて、陽は壁から身体を起こした。
「そうか……、悪かったな、変なことを聞いて」
 陽はドアノブに手をかけた。
 ふわりと身体を包まれた。ノブに置いた手に大きな手がかぶさる。
 背中から抱きしめられていると気がついたのは、二呼吸ほどしてからだろうか。
「三池……」
「言ったでしょう? 誰からもヨウ先生が責められないようにして見せると。俺は二度と先生を、他の教師からも、生徒からも、批難などさせない」
 腰に回された手が熱い……。
 勝也の声が耳元で響く。
「好きなんだ……。忘れないで。そのためなら、なんでもする」
 勝也の汗の匂いをわずかに感じた時、身体の奥で何かが疼いた。
 好きなんだと囁かれ、それは胸の辺りから広がっていくように感じられた。
「先生が、好きだよ。誰よりもね」
 陽の手を包んでいた手が、ノブを回す。
 ドアが軽い軋みを立てて向こう側に開いた。
「行って。これ以上は……抑えられない」
 抱きしめられていた身体が唐突に押し出されるように放された。
 振り返った時には、もうドアは閉じていた。