手の中に残る温もりを握り締め、勝也はドアを背に座り込んだ。
 陽の気持ちがどこにあるのか。考えれば考えるほどわからなくなる。
 好きだと言えば拒絶され、なにも言わなければ今のように勝也を心配し、声をかけてくれる。
 気持ちを受け入れてもらえるような気さえしてくる。
 そんなふうに考えて、勝也は自分を笑った。
 抱きしめた腕の中、あんなにも身体を固くして。震えさえ伝わってくるような気がした。
 それで少しは気持ちを受け入れてもらえたかもなどと、可笑しくて仕方がない。
 笑おうとして失敗し、膝の上で両手を組み、顔を埋めた。
「陽……」
 名前を呼びたい。呼んで抱きしめたい。そう願えば願うだけ、相手は逃げて行く。
 生徒としてだけ存在すれば、陽は自分を気にかけてくれる。それだけでいいと思いながら、渇望が身体を焼く。
「あと2年か。……長いよな」
 陽の生徒でなくなるまで。一人の男として陽の前に立つには、あと2年が必要なのだ。
 本当は長くない。そう思いたいし、何度も言い聞かせてきた。
 自分の想いを諦めた日から、陽に出会うまで。
 その日々と同じだけこの想いを閉じ込めればいいのだ。
 理屈ではわかっていても、こうして想いが溢れてしまう。
 そして陽を遠ざけてしまう。
 膝を支えに立ち上がった。窓の外は既に真っ暗で、部室の電気を消し、鍵をかけて体育館を出た。
 校舎へ戻る途中、駐車場を見たが、そこに陽の車は既になかった。
 空を見上げて、校舎へと戻った。
 学園祭の準備はそれでも勝也の予定通りに進んでいた。多少の問題は常にあったが、3年生を掌握してからは、スムーズに動き始めた。
 その分忙しくなったが、余計な事を考えずに済む事だけは助かった。
 あの部室の出来事以来、陽との距離は微妙になっていた。
 警戒されているのだ。
 生徒として勝也を大切にしてくれる。心配もしてくれる。けれど、必要以上に近づけば顔が強張り、一歩、二歩とさがる。
 避けられていないだけでも良しとするべきなのだろうかと、気弱な事を考える。
 進むべなのか、退くべきなのか、わからない。
 広い荒野の真ん中に立ったような気分。方角さえわからなくて、一歩を踏み出せない。
 最初に出す一歩が間違っていれば、永遠にゴールに辿りつけない。そんな気持ちになって憂鬱を味わっていた。
 諦めたくない。
 そう思うたび、諦めそうになっている自分を感じていた。
 そして、勝也は悲しいほどの現実を目撃することになってしまった。
 学園祭の準備が忙しくて、ずっと顔を出せなくなっていたアルバイト先に出かけた。
 勝也はある企業が開発しようとしている、コンピューター制御のロボットのプログラム制作を手伝っていた。
 ロボットが直立歩行するようになり、階段を上り下りする。卵のような脆い球体を掴むこともできるようになった。
 だが、実用性を追求するなら、それらはまだまだ赤ん坊のようなものだ。
 知識と知能を与える。人間と変わらぬ仕事をする。
 課題はいくらでもあった。
 勝也が作った紐を結ぶと言う小さなロボットが、その企業のコンテストで賞を取った。それが縁になり、勝也は開発を手伝うようになったのだ。
 仕事は必然的に学校が終ってからの時間になり、帰る時間は夜中になることが多かった。週末はほぼ泊まりになる。
 会社がタクシー代を出してくれるが、それよりも勝也は寝る時間を選んだ。会社の近くに系列のホテルがあり、帰れない日はその部屋を利用した。制服の替えや身の回り品は会社にも用意してあった。
 金曜日、土曜日と泊まり込み、日曜日にようやく帰る目途がついた。
 チェックアウトぎりぎりで勝也は部屋を出た。
 ロビーに降りて行き、清算を会社に回す。何度もしてきた手続きであり、フロントとも顔見知りになり、慣れた作業だった。
 笑顔で見送るフロントマンに、同じように笑顔で別れを告げ、コーヒーを飲んでから電車に乗ろうと、2階の喫茶店に入ったところで、勝也は凍りついた。
 陽がいた。
 スーツを着て、隣に母親らしき人がいる。
 陽の前には、若い女性と、彼女の母親らしき人。
 それはどう見ても、お見合いにしか見えなかった。
 ……何故?
 問いかける権利は勝也にはなかった。
 時が止まるほど、穴が開くほど、勝也は陽を見つめた。
 ……何故。
 女性が何かを言い、陽がそれに答えるように口を動かす。女性が微笑む。
 身体が動かない。逃げ出したいのに、足が縫いとめられたように、動かない。
「三池様?」
 メニューを持ったウェィターが勝也に声をかけた。
 その声は静かな店内に、予想以上に響いた。
 陽が会話を止めて、首を動かした。
 入り口に勝也を認めて、驚きに目を見開く。
 そこまでしか耐えられなかった。
 踵を返し、早足で店を後にした。エスカレーターを駆け下り、自動ドアにぶつかるように外に出た。
 地下鉄の駅まで走った。
 何も考えられなかった。考えたくなかった。
 地下鉄に乗り込んだ時には、乾いた笑いが喉をついて出た。
 不審な目で見られても、勝也はドアに額を押しつけ、こみ上げる笑いに唇を歪めた。
 壊してやれば良かった。
 それは自分の降りる駅に着いてから思いついたことだった。
 もちろん、引き返す気分にはなれなかった。引き返したとしても、ぶち壊すことはできなかっただろう。
 放浪するように気の向くまま足を動かし、気づいた時には洋也の家の前にいた。
 どうして自宅へと向かわなかったのか。それは勝也にもわからなかった。
 インターホンを押そうと手を伸ばした時、玄関が開いた。
「やっぱり勝也か」
 秋良の顔がドアの向こうに見えた。
 胸に込み上げてくるものを無理矢理に飲みこみ、勝也は笑った。
「どうしてわかったの?」
 自分でも不思議なほど、自然に声が出た。
「2階から下りようとしたら、門の所に人影が見えたんだよ。どうした? 入って来いよ」
 ドアが大きく開かれる。
 勝也は笑って、家の中へと入った。
「ヒロちゃんは?」
 家の中を覗き込むようにすると、秋良は声を出さずに笑って、仕事部屋を指差した。
「俺、あがってもいいの?」
 勝也が確かめると、秋良は吹き出すように笑った。
「今更何言ってるんだよ。いつも平気で上がりこむくせに」
 こつんと額を叩かれ、勝也は手を当てる。
「何か飲むか?」
 リビングに入り、そう訊かれて、何も食べていないことを思い出した。食欲はないが、喉は渇いていた。
「コーヒー飲もうかな」
 カウンターテーブル越しに秋良が動く様子を見ていた。
 今頃は……。
 今頃はきっと、二人で出かけることになっているのだろうか。
 それを考えると胸が痛んだ。
 2年なんて……、そんなのは無意味だ。
 それを思い知った。
 あと2年。その間に、陽の身辺に変化がないなどと、どうして思えたのだろう。
「勝也? どうした?」
 呼ばれて顔を上げると、目の前にコーヒーが出されていた。
「アキちゃん……」
 いつもと変わらぬ秋良の優しい笑顔。
 勝也がまだ子供だった頃から、変わらぬその存在。
 涙が零れそうになって俯いた。
 そっと頭に手を乗せられた。
「泣けないほど大人になっちゃったのか?」
 目元を掌で覆い、勝也は涙を隠した。
 なくしたことで泣きたくはない。
 勝也の想いは、まだ胸の中にあるのだから……。