月曜日、学校に着いた陽は、いつもと変わらない風景に妙な安心感を覚えた。 昨日、ホテルで会った勝也のことを考えると、どうしようもなく気が重かった。 何度か電話をかけようとしたが、できなかった。そして、……当然なのだろうが、勝也からの電話はなかった。 職員室へ向かう廊下を歩いていくと、向こうから勝也がやってくるのが見えた。クラス委員や学園祭実行委員長をしているので、何かと用事は多い。 陽はなんと声をかけようかと迷っていた。昨日の事を説明しようとして、それは昨日から電話をかけようとした目的でもあったのだが、昨日の電話と同じように説明しようのない事に思い至る。 説明したとして、だからどうなるのだろう。勝也の気持ちを受け入れられるはずもないのに……と。 勝也は少し俯き加減で陽に気づくことなく、こちらに向かっている。その表情が見えるくらいまで近づいて、陽は息を呑んだ。 …………これが……、勝也なのか……? 無表情と言えばいいのだろうか。それとも、無感情と言い表せばいいのか。陽は勝也を見て足を止めてしまった。 すらりと伸びた背筋、しっかりした足取り。どこもおかしいところはない。だが、固く結んだ唇、伏目がちの目。それらは自分に向かってくる視線や思いを拒んでいる。 一切の柔らかさや穏やかさ、人間らしい感情を捨てた勝也がそこにいた。 一歩、一歩と確実に近づいてくる勝也は、陽の姿を認識していないように思えた。自分に気づいて欲しくないと思いながら、勝也が自分を見ないことに小さな苛立ちを感じた。 言い訳などできない。だが、昨日のことを何も気にしていないという態度をとられることもまた苦しかった。 自分勝手な言い分だ。矛盾に満ちている。自覚してもいるし、そんな理屈が通らない事もわかっている。だが、陽自身にも揺れる気持ちの収めようがなかった。 もうすぐ擦れ違う。けれど勝也は一向に陽に気づいた様子がない。 陽は早くなる鼓動を堪え、逃げ出したくなる足に踏み出せと命令を出すが、それは思い通りにいかない。 「おはようございます」 低い声がかけられる。軽く下がる頭。そしてすっと、勝也は陽の前を通り過ぎた。 「…………」 挨拶を返そうとして、陽は声を出せなかった。口の中が渇き、声が喉に貼りついた。 それよりもショックの方が大きかった。 勝也は一度も陽の方を見なかった。陽に気づいていないかと思ったほどに。 気づいていたのに、勝也は陽を見なかった。ごく普通の会話を、しかたなしにかけて、陽の前を通り過ぎた。 勝也を知ってから、はじめての態度だった。 「そんなに……」 そんなに俺はひどい事をしたのか? 追いかけて、問い詰めたい衝動に駆られた。 何故、そんな風にされなくてはならないんだ! 理不尽な思いに胸を焼かれる。 けれど陽はできなかった。できるはずがなかった。 自分は教師であり、勝也は生徒である。何度も勝也にそう言ったし、そうでなければならないと自分を戒めていた。 「でも……」 それでも、こんな風にされるなんて。 勝也に冷たくされるということのなかった陽は、その変化に自分がついていけない。 仕方のないことだと思おうとして、振り返った。 勝也……。 はじめて勝也を名前で呼んだ。口には出さなかったが。 勝也の背中は未練も見せず、遠ざかって行く。その背中の孤独を見て、陽は目を逸らした。 あの背中に孤独を背負わせたのは、今は自分なのだろうか。 それが苦しく、同時に歓喜でもあった。 お前から、……あの人を消せるのか……。 例えそれが、孤独であっても。 その醜いエゴが恋であると、陽は認めなくてはならないと……、勝也の気持ちを失ってから気づいた……。 勝也は変わったと、それを意識しないわけにはいかなかった。 以前のように、優しい表情で陽に話しかけてくる事もなければ、笑顔すら見なくなった。 周りの者にはその変化は「何か機嫌が悪いのか?」という程度のものでしかないようだったし、教師たちにはその変化すら気づかない者も多かった。 ただ一人、陽だけがその冷たい表情と向き合わなくてはならなかった。 自業自得とは言え、それはかなり苦しかった。 学園祭は勝也の努力もあって大成功をおさめた。準備の最初の頃は上級生と噛み合わなくて苦労していたが、終わる頃にはその上級生達でさえ、勝也を頼りにしているようだった。 学園祭の成功を一緒に喜ぶ事ができない。 それはもう陽の中では納得したことなのに、全校生徒の前で祭の終わりを宣言する勝也が久しぶりに見せた笑顔に、それが自分に向けられない事に、言いようのない淋しさを感じた。 失ったものは、あまりに大きく。喪失感を持て余した。 祭のあとの興奮や、気の抜けた状態を脱しても、勝也の陽に対する態度は変わらなかった。 それほど、陽が許せないのだろう。 何か言おうとする陽を勝也は見事に避けた。 いや、避けたのではなかった。避ける必要もないくらい、勝也は陽を近づけなかったのだ。 このまま時が過ぎて行くのかと、諦めにも似た気持ちで心がいっぱいになる。それすらも慣れた。 「三池も変だけど、ヨウちゃんはもっと変だ」 冬芽に言われ、陽は苦笑いする。 「どうして、僕と三池を対比するかな」 「だってさ、わりと仲良かったじゃん。そう言えば、電話かかってこないね、最近」 無邪気といえば言いのだろうが、無邪気さが時には残酷にもなる。抉られたような痛みを胸に感じ、陽は笑いで誤魔化す。 「教師と生徒は電話で話さないもんだよ」 自分で言って、自分で傷つく。 その言葉がどれだけ勝也を傷つけてきたのだろうか。傷つくようになってからわかる。 もう二度と以前のようには戻れない。 痛みが淋しさに変わり始めた頃、陽は放課後になって、自分の教室へと足を向けた。書類を一枚、教室に忘れたためだ。教室の鍵を探したが、まだ戻っていなかったので、返し忘れか、残っているものがいるのだろう。 殆どの生徒が、帰宅したか、クラブへと向かったか、校舎に残っている者は少ないようだった。 陽の学級は電気は消されていたが、中からかすかな話し声が聞こえてきた。 その声に陽は立ち止まった。 駄目だと思うのに、足音を忍ばせ、ゆっくりと教室に近づいた。 声の主は勝也だった。相手は誰だかわからないが、見当はついた。勝也が親しげな声で話すなら、彼しかいないだろうとわかっていた。 「すごく……びっくりした」 「……ごめん」 勝也の親友、月乃京の声だった。陽は予想通りの相手に、心臓を早くする。 「どうして黙ってたんだよ。もっと早く言ってくれたら、……俺だって……なんとかしたのに」 聞こえる勝也の声は、今の陽にとっては懐かしい声だった。こんなに優しい勝也の声を聞くのは、本当に久しぶりだったから。 「……打ち明けるつもりなんて、なかったから」 「諦めようとか、思わなかった?」 「それは……ない。見ているだけで……良かった」 「辛く……なかったか?」 話の内容に陽は愕然として、逃げ出したいのに、その場を動けずにいた。意に反して陽は教室の中を覗い見る。辛くなかったかの勝也の問いに対する答えが返らなかったからだ。 「だいじょうぶ……」 二人は並んだ机に座っていた。窓の外を向くようにしているのでこちらからは表情までは見えない。そして、顔を向き合うようにして、勝也が労わるように俯く京を見ていた。 「バカだなぁ、苦しかっただろ」 「……そんなでもなかった」 京が告白して、……勝也がそれを受け入れた? そんな風にしか聞こえなかった。 「気づいてやれなくて、ごめんな?」 「…………」 優しい勝也の声に、陽は飛び出しそうになる。 息をするのにも苦労した。それほど辛かった。 勝也が誰かに優しくするということが。 気づいてやれなくてごめんと言う勝也に、京がなんと答えたのは聞き取れなかった。 ふっと勝也の笑う気配がした。 「泣くなよ。今は嬉しいはずだろ?」 「え? あれ? どうしてだろ?」 勝也が手を伸ばして京の涙を拭いた。 「あ……、ごめん……」 「気にするなって」 ぽんぽんと勝也が京の頭を撫でるように叩いた。 そこまでが限界だった。そっと近づいた時と同じように、足音を殺して離れた。 心臓は早鐘のように打ちつけていた。 階段まで辿りつくと、陽はそれを駆け下りた。 駆け下り、走って、走って、近くの部屋に飛びこんだ。 そこが小会議室と知って、陽はドアを背に座りこむ。 「勝也が悪いんだ」 あの時、ここで、「アキラという知り合いはいない」そう言ったから。 普通に言ってくれれば良かったんだ。俺の小学校の先生もアキラだよと。 そう思って、自分を笑った。 これではまるで子供の駄々だ。 涙が一粒零れた。それを拭いてくれる手は、……陽には差し伸べられなかった。 |