陽の見合い現場を目撃して、勝也の足はいつのまにか秋良の家に向いていた。 そこでどうして欲しかった訳でもない。期待もしていなかった。 ただ、自然に足が向いた。 そこで変わらぬ笑顔を見たかったのかもしれない。 何も知らない、あの頃の自分に戻りたいと、ただそう願っていた。 いっそこの人を好きなままでいれば、楽だったかもしれないなどと思ってしまう。 洋也が仕事中だとかで、秋良が食事の用意をしていた。そこへ突然押しかけても、秋良は食べて行くんだろう? と聞いてくれた。 仕事が一区切りついたのか、洋也が部屋から出てくると、勝也を認め、来てたのかという顔をした。 二人で食事の準備をしているのを何気なく眺めていると、この風景すら見るのが辛かった日々があったのを思い出した。 「いたっ!」 「指?」 「なっ! 汚いって」 秋良が左手の人差し指を包丁で切ったらしく、それを洋也が口に咥えている。秋良が顔を赤くして怒っているのを見て、勝也は声を出して笑ってしまった。 まだ笑える。 「勝也」 恨めしそうに秋良に見られて、勝也は笑って涙が零れたのだというように、目尻を拭った。 それでいい。いつかこうして、忘れられる日が来る。 その時間が長くても、いずれその日が来る。 その事を自分は知っている。だからそれでいいのだと、勝也は言い聞かせた。 三人で食事を取ると、自然と秋良と勝也の会話が中心となる。洋也は元々家にいても会話は少なく、喋る人がいれば、黙って聞いていることが多い。 秋良が勝也に何かあったのだと気遣ってくれて、それでテーブルでは、勝也の話しやすいことが話題に上る。 無理に高校から会話が外されているのは、学園祭が近い今、むしろ不自然だったが、勝也はその優しさに甘えた。 送って行こうかという秋良に、勝也は大丈夫だと笑った。 「また、……来てもいいかな」 送ってもらうかわりに、秋良が駄目だという筈のない願いを口にする。 「いいよ。もちろん」 秋良の笑顔を見て、勝也はほっとする。 「ねぇ、アキちゃん、何があっても、生徒は生徒だよね」 どんな返事が欲しいのか、自分でもわからぬまま、その問いを思わず口にしていた。 「勝也がそうしている限りは……ね」 秋良の答えに、勝也ははっとする。 いつだって、生徒でいようとした。この人の前では。 この人を安心させるために、この人の知っている小学6年の勝也でいようとした。 この優しい関係を壊さないために。 ならば……、まだ自分にもできる。 「ありがと、……アキちゃん」 勝也は小さく手を振って、秋良の家を後にした。 生徒でいよう。生徒で。 それがきっと、陽を苦しめない最良の方法なのだ。 「愛してる。でも、それでも、駄目なんだよな」 勝也は呟き、夜空を見上げた。 これが最後。そう決めた涙が、小さな星々を滲ませた。 生徒でいようときめても、陽の前では悲しいほど自分を保てなかった。 だから、つい最低限の事しか話せなくなり、陽の表情を曇らせた。 あれから見合いがどうなったのかも聞き出せないまま、また、聞き出せたとしても、それが勝也にとって悪い報告だったなら、立ち直れないと、勝也はあえてあの日の偶然の出会いを口にしなかった。 同級生達の前ではごく普通にしているつもりだったが、ぴりぴりとした空気は伝わるらしく、それらを相手が勝手に、学園祭前の緊張と受けとめてくれた。それでかえって、委員会もうまく運んで、辛い中にも手応えは感じていた。 学園祭が終わり、学校の中にも祭後の倦怠感が漂う頃、勝也の身の回りで劇的な変化があった。 それは親友と自分の兄が恋人同士になったということだ。 親友の月乃京が、双子の兄の一人、拓也を好きだと言うことに、勝也自身、まったく気づかなかった。それらしい兆候もなかった。 ただ、京もまた、誰か秘めた人に片想いしていることだけはなんとなく気づいていた。 それが拓也に結びつかなかったのだ。 小さな告白劇の後、拓也と京が抜け出して、呆然とした。 「お前、気づかないなんて、迂闊な奴」 正也に言われて、勝也自身、京に悪い事をしていたなと思った。 多分、出会いは京が自分の家に遊びに来た、その中でだろう。それから会った日数はわずか数えるほどだろう。 拓也の何が京の気持ちを惹きつけたのかまではわからないが、お互いの想いが通じ合ったのなら、それ以上嬉しい事はない。 どちらかというと、京が幸せになってくれるなら、それが一番嬉しいのだ。 何かをいつも背負っているような京を助けてやりたいと思いつつも、自分の気持ちの整理で精一杯だった、幼い頃の自分。 だから、これからは京の良き理解者でありたいと願った。 拓也と京が消えて翌日の放課後、京を教室で捕まえた。 最初、照れているのか、恥ずかしがっているのか、逃げようとする京を、勝也は笑いながら、自分の教室まで引っ張ってきたのだ。 そして、今、一番聞きたかった言葉を、自分でも驚くほど素直に訊いていた。 「諦めようとか、思わなかった?」 酷い事を訊いているのはわかっていた。 想いが通じ合った今、それは京にとっても過酷な質問だろう。 まして、恋人の弟に聞かれるのは。 「それは……ない。見ているだけで……良かった」 けれど京はむしろ淡々と答えてくれた。 ……見ているだけで良かった。 その想いを自分は忘れていたのかもしれない。 何かが欲しくて、必死で手に入れようとしていた。 無理にも掴もうとして焦っていた。 けれど、……もう遅い。 いつも逃げ出したい素振りを見せていた陽を、追いつめたのは勝也自身だ。 だから、見ているだけでいい。 そんな恋をもう一度始めたい。 たとえ……、あの人が家庭を持つ人になったとしても……。 |