学園祭が終わり、学内が落ち着きを見せ始めると、校内では生徒会選挙が行われる。それを機に、三年生は受験一色になり、登校日数も減ってくる。
 中庭の樹木も散り始め、もしくは秋の色に染まり始めた放課後、職員室に勝也がやってきた。
「ヨウ先生、印鑑をお願いします」
 勝也から話しかけてくることは、最近では滅多になく、陽からも話しかけることは躊躇われていて、話の内容はこうした事務連絡ばかりになっている。
 机の抽斗から印鑑を取り出しながら、その用紙を眺めていた陽は、書類の題を見て、思わず腰を浮かした。
「三池、これ……」
 振り返った先には、勝也の端整だが感情の見えない顔が、静かに陽を見返していた。
「生徒会選挙って……」
「一年生が出てはいけないという規定はありませんでしたけれど?」
 冷静に返され、陽の方が困ったようにその書類を見直してしまう。
「本気なのか?」
「冗談ではできません」
 無機質な答え、硬質な声に、陽の胸が痛む。笑顔は見れなくても、せめてもう少し柔らかい話し方をしてくれないだろうかと願ってしまう。
 以前のように……。
「賛成はできないな」
 思わず本音を漏らしていた。
 勝也ならできるだろうし、それを応援してやらねばとわかっているのに、そんな教師らしい言葉は出てこなかった。
 漏れてしまった本音に自分でも迂闊だったと悔やんで勝也を見ると、勝也は久しぶりに感情の欠片を、その面に見せていた。
「あ……、すまない」
 勝也の少し驚いたような微妙な変かに戸惑い、俯いて謝罪を口にした。
 教師らしくしなければいけないと、言い聞かせていると、その場の空気が和らいだように思えた。
「先生に……、ご迷惑はかけませんから」
 俯いた頭に降りてきたのは、優しい声だった。
 これがせめてもの、勝也なりの思いやりなのだろうと思った。あの日から、行き違ってしまった二人に、勝也が生徒として歩み寄ってくれたのだと気づき、陽は唇に淡い笑みを浮かべた。
 それが悲しみに変わる前に、陽は勝也が持ってきた用紙に印鑑を押した。
「頑張れ……」
 それを手渡すと、本当に久しぶりに勝也が笑顔を見せた。それは以前のように全開の笑顔というわけにはいかず、微笑を浮かべただけに過ぎないのだが、陽にとっては、これがけじめの笑顔なのだろうと思われた。
「ありがとうございます」
 くるりと背を向ける勝也を見送り、陽はずるずると椅子に座り込んだ。
 もっとちゃんと話を聞いてやりたいのに。
 どんな気持ちで生徒会に出るつもりになったのか。
 どうしていきなり生徒会長なのか。
 その心境を聞いて、できれば相談に乗ってやりたい。
 もちろん、教師として話しかければ、勝也は答えてくれるだろう。一人の生徒として、勝也はその義務を果たしてくれるだろう。
 だから……。
 聞きたくなかった。
 そんな話、聞きたくないのだ。
 賛成できないと言ったのは、陽の剥き出しの感情だった。
 勝也に苦労などして欲しくない。学園祭の時のように、上級生たちの妬みでしかない軋轢を味わって欲しくないのだ。
 あんなに苦労したくせに、どうしてまた。
 それを問えば、きっと優等生としての答えが返ってくる。
 そんな答えは……、聞きたくなかった。
 勝也の本音を聞きたい。
 けれど、もう陽には勝也の前で、この気持ちを隠して立つ自信がなかった。
 きっと……、きっと言ってしまう。感情に任せて、本音を漏らしてしまう。
 それは勝也や、勝也が愛する人を困らせるだけだ。
 朝比奈陽という厄介な相手からようやく気持ちを逸らすことができたのだから、勝也を遠ざけたのは自分なのだから、もう追ってはいけないのだ。
 あとは陽が自分で自分の気持ちを処理していけばいいのだから……。
 どんなに胸が苦しくても。
 勝也が生徒会長に立候補したという話は、あっという間に広がった。その日のうちにといってもいいだろう。
 二年生にも立候補した生徒がいたが、その人物の名前が話題に上がることはなかった。
 陽は主に一年生の数学を教えていたが、二・三年生の選択授業も受け持っている。専門分野に属するその数学の授業は、理系国立を狙う生徒が選択しているのだが、その時間にわずかな変化が現われ始めた。
 何がと不審を感じていると、別の教師から、そのクラスに生徒会に立候補した生徒がいるのだと教えられた。
 つまり、陽が担任するクラスの、しかも一年生が立候補したことで、軽い反発が出ているのだろう。
 その話を聞いて、陽はあまりのくだらなさに笑った。
 いかに優秀な生徒であるとは言っても、まだ十七であると思い直し、その子供じみた反抗心に溜め息をついた。
 それではこれから先、一年間の生徒会長職は難しいだろうとも。
 陽にとっては、その二年生の候補が生徒会長に選ばれた方が安心できる。勝也が余計な苦労を背負わなくていいのだから。
 けれど、そんな相手に勝也が負けるのかと思うと、教師という立場を忘れて、単純に悔しいと思ってしまう。
 そんな複雑な陽の胸中を知ってか知らずか、もちろん勝也は知らないだろうが、勝也の選挙活動はあまりにも地味だった。
 何もしていないのではないか? と思うほどに。
 相変わらず、勝也は表情に乏しく、陽が見かけるときは特に難しい顔をしていることが多かった。
 そして、陽が意識するようになったからなのか、勝也は京と一緒にいることが多くなったように思う。
 この前は、陽が早めに帰ろうと駐車場へ向かっていると、勝也と京が二人で歩いているのを見かけた。そのまま行けば出会ってしまうタイミングだと気づき、陽は足を止め、建物の陰に隠れてしまった。
 二人は陽に気づかないまま、何かを楽しそうに話しながら、遠ざかっていく。
 うまくいっているのだと思うと、胸が痛んだ。悲しむ権利などないのに、辛くなってしまう。
 自分に勇気さえあれば、あの笑顔を向けられるのは自分だったはずなのにと、ないものねだりをしてしまう。
 早く帰るのが嫌になり、校舎へと引き返してしまう。
 どうせ早く帰っても、することなどないのだ。弟も隣に入り浸り、陽は一人になる事が多い。のんびりしているようで、何もすることがないだけだ。
 勝也から連絡が来ることもない。
 そうしてぼんやりしていると、両親が帰ってきて、済んだ話を蒸し返される。
 騙されるようにしてホテルへ連れていかれ、会いたくもない人に会わされた。
 内心イライラしながら、逃げ出せもできずに、話を合わせたのは社会人としてのマナーのつもりだったが、それを勝也に見られるくらいなら、非常識な奴と罵られてもいいから毅然として席を立つべきだった。
 いくら悔やんでも、後の祭だが。
 あれ以来、勝也は誰よりも遠い生徒だし、両親ともうまくいっていない。
 もともと、レストランを継いで欲しいという願いを両親が持っているのは知っていたが、陽は教師の道を選んだ。
「あの時に家を出ればよかった……」
 弟がまだ小さいから。夜に一人にするのは可哀想だから。
 自分が味わった心細さを冬芽には味わわせたくなくて家に残った。両親もそのことは感謝してくれていた。
「何もかもうまくいかないな」
 いっそ…………。
 その考えを陽は無理にも笑って押し込んだ。
 いくら考えても、自分は教師以外になれそうもない。
 教師であることは捨てられない……。
『停学経験者を生徒会長にしてもいいのか』
 陽は同僚の教師から差し出されたその紙切れを、呆然と見詰めるしかできなかった。