『停学経験者を生徒会長にしてもいいのか』 陽は同僚の教師から差し出されたその紙切れを、呆然と見詰めるしかできなかった。 生徒会選挙まであと一週間となった今朝、各教室にばらまかれていたものだという。 いく人かの生徒が驚いて、職員室に届けに来て、校内は大騒ぎになっていた。 「朝比奈先生、ちょっと」 中傷のビラを見詰めていた陽は、校長に呼ばれて慌ててそれから視線を逸らした。 教師たちが見送る中、陽は職員室の隣の校長室へと招かれる。 「これはどういうことだね?」 校長は机の上に例のビラを置き、指先でこつこつと叩いた。 「どういうことと言われましても……」 犯人はあきらかに勝也ではないだろうし、陽には心当たりもない。 「君は三池の立候補願に判を押したのだろう?」 言われて、陽は慎重に頷く。 「それを止めるのが担任としての努めだろう。やはり停学経験者というのはだね」 「ちょっとお待ち下さい」 陽は焦って身を乗り出した。 どうして勝也が責められなくてはならない。どうして勝也が身を慎んで生活しなくてはならない。 あの時、不当な停学を言い渡したのは誰だ。 このビラに関しても、勝也は被害者ではないのか。 「この文書の犯人を突き止めるのが先なのではありませんか。三池は被害者です」 「もちろんそうだとも」 校長はしらけたような顔で、陽の言葉を肯定し、けれどバカにするように笑った。 「けれども、この文書の言い分にも一理ある。こういう不満が出てくることが問題だというんだ。君も、三池も、そう思う生徒がいることを謙虚に受け止めるべきではないかね?」 陽は頭に血が上り、肩で大きく息をした。そうして感情を押し殺さなければ、叫んでしまいそうだった。 勝也は何も悪くないと。 「まさか、犯人探しをするつもりではないだろうね?」 「ならば、このままにしておけと仰るのでしょうか」 怒りに目の前が染まりそうだった。 「早く事態を収集したければ、立候補を取り下げさせることだね。このような文書が出たからには、普通に選挙をしても当選は不可能だろうし。落選させるより、辞退させるほうが、本人のためになるだろう?」 早く事態を収拾させたいのは誰だ。 喉まで出てきた言葉を懸命に飲み込んだ。 生徒の自主性を重んじ、文武両道を謳い、質実剛健な男子の育成。それがこの学園の理想ではなかったのか。 あの時、喧嘩両成敗の掟を破り、勝也だけを厳しく処罰した。それで全てが済んでいるのではないのか。 今もそうしてレッテルを教師側から貼り、生徒にもそう見させることを黙認するのか。 怒りで握り締めた拳が震えた。 「本人とよく話し合います」 「そうしたまえ」 陽が苦労して答えると、当然とばかりに校長は言い捨て、それで話は済んだとばかりに、机の上に置いていた紙を握り潰し、ごみ箱に捨てた。 それを横目で見て、陽は校長室を出た。 職員室に戻れば、視線が突き刺さる。 これが県下でも最高といわれる高校の実態なのか。 陽は出席簿を乱暴に掴むと、職員室を後にした。 教室の中は、想像していたよりも落ち着いていた。 もしかすると、まだ知らないのではないかと思ったが、犯人がこのクラスを標的にしないわけはなかった。 ただ、このクラスには勝也がいた。 本人が登校してきた時はさすがに緊張が走ったが、勝也はその紙を見て、一笑いで済ませた。怒るでもなく、悔しがるわけでもなく、本人が笑って済ませたことで、クラスは落ち着いた。 一人、陽だけがカリカリとしている状態だった。 どうして怒らないのかと、勝也に対しても、クラスメイトに対しても腹が立ってならなかった。 「三池、昼休みに小会議室だ」 「はい」 だから、こっそり呼び出そうとか、本人が傷つかないようにしようとか、気を遣うのがバカらしくなって、イライラしながら呼び出した。 勝也の飄々とした態度が情けないとすら感じた。 「どんな用件ですか? って、一つしかありませんね」 昼休みに陽が小会議室に入ると、既に勝也が来ていた。椅子に座ったまま、入ってきた陽を凪いだ目で見返してきた。 「ヨウ先生も俺に辞退しろって言います?」 「他に誰かに言われたのか?」 今も落ち着いている勝也に、陽はイライラする。 「ここに書いてありますよ。辞退しろってね」 勝也はポケットから用紙を取り出した。 陽はそれを汚いもののように顔を顰めて見た。 「どうするつもりなんだ?」 「どうもしません。辞退もしません」 「犯人は……」 お前は犯人に心当たりがあるのではないか? そう聞こうとして、口を閉じる。 「捕まえても仕方ないでしょ。まぁ、今これをばら撒くなら、当然、ライバル候補者が疑われるわけだけど、さすがにそれはしないだろうな。原さんは、そこんなことするくらいなら、俺に直接言うタイプだし」 勝也はもう一人の立候補者である原をそう評価した。 陽も単純に原が犯人だとは思えなかった。原が犯人であったのなら、あの時の事件の関係者であることを告白していることになる。 中傷文書には、勝也が川添を殴った場所にいなければわからないような描写があった。 だからこそ陽は、犯人を探したいと思ったし、これを黙殺しようとした学校側に怒りを覚えた。 「原が、あの時逃げ出した中に……」 「いませんでした」 即答する勝也にかっとなった。 「三池、あの時、逃げた人物は覚えていないと言ったよな」 勝也は途端に表情を消し、冷めた視線を陽に向けた。 「覚えていません」 「どうして原じゃないと断言できるんだ」 勝也は視線を逸らし、呟くように言葉を漏らした。 「今更蒸し返してどうするつもりなんですか?」 問い返され、陽は息を詰まらせた。 「もう処分は済んでいる。いつまでも停学者と言われるのも覚悟の上です」 「だけどな」 「先生が立候補を取り消せと言うなら、取り消します」 尚も言い募ろうとした陽に、勝也はあっさりと取り消してもいいのだと言った。 「お前……」 「誰かに責められたんでしょう? どうして立候補を許したのかと。だから、取り消してもいいと……」 ぱちんと乾いた音が二人きりの室内に響いた。 勝也の頬を叩いた手を陽は自分でも信じられずに見詰めた。 勝也も驚いて、陽を見詰め返している。 「あの時……、あの時、確かに俺はお前に賛成できないと言ったけどなっ。お前に立候補する資格がないからだとか、教師として勧められないからだとかで言ったんじゃない。お前が……、お前が……」 何を言おうとしているだろう。口が勝手に言葉を作り出してしまう。 取り消せないことを言う前に、止めなくてはならない。わかっているのに、ずっと抑えていた気持ちが、陽の理性を乗り越えてしまいそうになる。 「前に約束したでしょう?」 逃げ出したい。そう思ったときに、震える手を握り締められた。 勝也の頬を打った手が、暖かい手で包み込まれる。 「誰にも、貴方を批難させない。そのために、俺はできることはなんでもする」 強く握り締められ、陽は涙を零した。 「言う相手を間違えてる……」 こんなこと……、違う……、お前の想う相手は……、もう俺じゃない……。 「守ってみせるよ。……俺に、どうして欲しい?」 今だけ。今だけ、あの頃の勝也を下さい。 陽は心の中で深く詫び、その願いを口にしていた。 「生徒会長になって欲しい」 やめて欲しい。……生徒会長になんかなるな。 ずっとそう思ってきたはずなのに、口を開くと、反対の言葉が出ていた。 「任せてよ」 涙を浮かべる陽の目の前で、勝也は優しい笑顔を見せた。 椅子から立ちあがり、握り締めた手を引き、陽を抱きしめる。 「貴方のためなら……」 勝也の胸の中でその言葉を聞いた。 駄目……。 言い直そうとした陽を許さぬように、勝也は唐突に陽を離し、振り返らずに部屋を出ていった。 微かなコロンの残り香に、陽は勝也の好みが変わったことを知ったのだった。 |