『生徒会長になって欲しい』
 その言葉を聞いて、勝也は思わず陽を抱きしめていた。
 柔らかく温かい身体を腕の中に抱きしめ、心が痛みに震えていた。
 どうしてこの人が自分のものにならないのだろうか……と。
 欲しい、欲しいと、駄々っ子のように言えたあの頃、勝也は兄と大好きだった人を引き離した。結果は自分の想いの通りにはならなかったけれど。
 そして今、大人になってしまった分、身を引く事しかできないでいる。あの頃の、兄のように。
 自分が身を引いて、一人の生徒に戻れば、陽は安堵の表情を見せる。
 この苦しみは、自分が昔、兄に与えたもの。
 そう思うと、苦笑いしか出てこない。
 柔らかな身体。あれを忘れる事ができるだろうか。
 こんなに苦しいのに。
 何もかも投げ出せればいいのにと思う。そうすれば、楽になれる。それはわかっている。けれど、そのあとの後悔の重さを想像すれば、どうしても捨てられない。
 自分が選んだものは、何一つ捨てられない。
 彼の望むように生徒会長になったからといって、何かが変わるはずもないことは、勝也自身が一番よくわかっていた。
 けれど、その声を聞いてしまえば、それに応えたいと思うのだ。
 何を賭けても守りたいのは、陽のすべて。
 自分のことで、また自分のできる範囲で、陽に何一つ、辛い想いをさせたくない。
 この気持ちが陽に伝わらなくても……。
 中傷の紙は、素材を調べるまではできなかったけれども、学校が使っているコピー用紙とは、あきらかに違っているのがわかった。
 学校のものは若干厚手で、ビラの方はどこのコンビニでも使われている少し薄手のコピー用紙だった。追跡のしようもなかった。
 勝也にとっては、誰が犯人でもかまわなかった。
 川添あたりが主犯だろうと想像できたが、川添ともう一戦構えようとは思わない。
 勝也が動揺しなかった事、ビラの効果がなかったことが、犯人にとっての一番の打撃であろうと思われた。だから勝也はあくまでも沈黙を貫いた。
 かろうじて、相手は効果のない中傷を繰り返さないだけの判断力はあったらしく、その後、小さな噂は飛び交ったけれども、勝也はそれらすべてを黙殺した。
 選挙活動は、勝也はかなり控えめに行った。
 陽を除く教師達の反感を買わないよう、『どうせ当選しないさ』と思わせる程度の活動だった。
 だが、水面下で勝也はそれなりの行動をとっていた。
 生徒主導と言いながら、実はかなりの部分を教師陣が把握している校内活動を、生徒の手に取り戻すのだという勝也の発案に賛同してくれる生徒は多かった。
 学園祭で見せた勝也の指導力に、それが不可能ではないと実感させる部分も多く、短い選挙活動期間中にも、かなりの手応えも感じていた。
「三池、犯人に心当たりがあるんだろう?」
 選挙まであと二日という時、対立候補の原が放課後、勝也に話しかけてきた。
「ありませんよ。探すつもりもありませんし」
 原は勝也の答えを聞き、にやりと笑う。
「俺はお前が『どういうつもりだー』って怒鳴り込んできてくるのを楽しみにしていたのにな」
「原さんだったんですか?」
 勝也は原の冗談に笑って付き合った。勝也の笑顔に原も苦笑を返した。
「沼と井本」
 原が言った二人の名前に、勝也はすっと笑いを消した。
「やっぱりな。俺が知らないとでも思った?」
 原が指し示した二人は、川添が陽襲撃を依頼していた二人だ。二人とも二年生である。
「原さんが二人と知り合いだとは思えませんけど?」
 そんな影のある人物と知り合いだとは、勝也には思えなかった。
「知り合いじゃないけれど、裏も把握してないと色々困る事もあるんだ」
 原の言い分に勝也はふっと笑みをこぼす。
「どうして奴らを絞めない? 今後も妨害してくる事は考えられるだろう?」
「それを答える前にお聞きしたいんですけど」
「なんだ?」
 原はじっと勝也を見返してきた。
「どうして俺にそれをお聞きになるんですか? むしろ、放っておけば原さんに有利でしょう」
「うーん。それを聞かれるとはなぁ」
 原は明るく笑って、頭をぽりぽりと掻いた。
「俺は甘いって言われるかもしれないけれどさ、三池が嫌いじゃないんだよな。だから、ちょっと心配になった。お前、どうしてそんなに綺麗に戦おうとする? 誰のためだ?」
 真っ直ぐに問われ、勝也はぐっと押し黙った。
「世の中、綺麗なだけじゃ通じない相手もいるぞ」
「わかってます」
「それでも、裏の手は使わないのか?」
「使いません」
 相手を潰すのは簡単かもしれなかった。相手の弱みをお互いに握っているのだ。あの暴力事件の真相を、取引の材料にだってできただろう。勝也の強さは二人が良く知っている。
 けれど、その手だけは使えない。決して。
「もう一度奴らが動く気配があるとしても?」
「勝手にやらせます」
 勝也の答えを聞いて原はむっと押し黙った。そのまま勝也を見詰める。
「原さんにとっては願ってもない事でしょう?」
「嫌味な奴。それを黙って見過ごせる俺じゃない事、知ってるだろう」
 実力がありながら、少しお人好し。実際に生徒会長となるなら、自分よりも原。勝也はその事をわきまえてもいた。けれど……。
「あくまでも俺は、正々堂々と勝負したいだけです」
 勝也の答えを聞いて原はほがらかに笑った。
「わかったよ。二人は何とかしてやる」
「お願いはしませんよ」
 それにもわかったと笑いながら答えて、原は去って行く。
 そして投票日前日、原は立候補を下り、勝也を推薦すると宣言した。
「俺はお前の事嫌いじゃないくらいじゃなくて、お前みたいな奴、好きなんだよな」
 さすがに驚いた勝也にそう言って、原は屈託なく笑った。
「お前、不器用過ぎるよ。俺はどっちかって言うと、サポートする方が好きだから、これからは任せてくれ」
 勝也は呆気にとられながらも、感動して何も言えず、静かに頭を下げたのだった。
 そして、勝也は信任投票を得て、生徒会長となった。
「おめでとう」
 陽から任命証を手渡され、勝也はありがとうございますと言って受け取った。
「これで剣道部の方は、正部員じゃなくなるけどな」
 生徒会執行部に所属する者は、クラブ活動においては補助部員として扱われる。正式な部員が足りない時のみ、郊外試合に出ても良いとされる。
「まぁ、剣道部は部員が足りないから、今までと変わりないかも」
 陽の言い分に、勝也は小さく笑った。
「なるべく顔を出しますから」
「本当になっちゃったな」
 生徒会長に。陽の寂しそうな言い方に、勝也は黙って視線を反らせた。
「これからも、……俺は、なんでもやるんだ」
「俺のために?」
 陽に聞き返されて、勝也は少し驚いて陽を見た。陽の口からそんな発言が出るとは思わなかったのだ。
「そうです」
 勝也の決意を聞いて、陽は力なく微笑んだ。
「もう……無理をするな。お前にはもっと、高校生活を楽しんで欲しい」
「どうして? それは、ヨウ先生は、自分のために何かをされるのは、迷惑だってことですか?」
「そうじゃない。……そうじゃないんだ」
「俺ね、……昔先生にも言われたでしょ、不器用だって」
 勝也の声を陽は懐かしい思いで聞いた。確かに以前、勝也の事を不器用だと言った。
「……言ったな」
「原さんにも不器用だって言われた。自分じゃ、とても器用なつもりだったんだけど」
 勝也は任命書を見詰めて苦笑する。
「確かに不器用かもしれない。こんな風にしてしか、自分の気持ちを確かめられない。ヨウ先生、忘れてるかもしれないし、忘れようとしているのかもしれないけれど、俺はヨウ先生が好きなんだよ。それは、こんな風にしてしか、あなたに証明できない。あなたに信じてもらう方法を、他に知らないんだ」
 任命書を勝也は陽に差し出した。
「お前には……」
 他に好きな人がいるだろ。そう続く言葉は言えなかった。
 言ってしまえば、今の勝也の言葉が嘘になる。勝也に嘘を言わせた事になる。
「受け取って。あなたが好きなんだ」
 陽はゆるゆると首を横に振った。それは遺品のように思えた。
 勝也が以前自分を好きだったことの古い証明。
 過去の事にしたくない。最後の陽の意地が首を横に振らせた。
「いいよ、それでも。でも、……俺はね、諦めないって決めたんだ。俺の気持ちは、ずっと俺の中にあるから」
 勝也は穏やかに言って、教室を出ていった。
「いつだって、教室に残るのは教師なんだ。生徒は巣立っていくんだ。羽ばたいていった生徒が、戻ってくる事はないんだ」
 陽は自分に言い聞かせる。
 勝也は生徒で……。自分は教師で……。
 勝也にはもう隣に立つ人が……、似合いの人がいるんだからと。