生徒会の引き継ぎが一段落つくまでには2週間近くを要した。その期間、勝也はもちろん引き継ぎ優先した。
 陽とは微妙な距離を保ったままで、それでも以前のような緊迫した関係ではなくなった。
 勝也は自分に対する陽の態度に、どこかしら一歩引かれたみたいな雰囲気を感じながらも、それが何に起因するのか掴めずにいた。
 このまま何も手を打たないでいると陽はすぐにも結婚するのではないか。そんな焦りはあったが、自分が動くことで陽を傷つけてしまうかもしれないと思うと、見守るしかないのではないかと、苦しくてたまらないのに、他にどうしようもないと自棄になってもいた。
 ただ一時期のような、勝也のすべてを拒絶するような壁が消えて、生徒と教師でいる限りは、陽も親切な大人の態度で勝也に接してくれた。
 それが不満でもあり、ただ一つの救いでもあった。
 諦める事ができたら。
 何度も自分に言い聞かせようとした。
 もう、諦めろ。
 もう、無理だ。
 けれど、自分の気持ちを変えることはできず、そのたびに、陽を愛していると、再確認する日々だった。
 無心になりたい。
 ただひたすらに自分の無我と向き合いたい。
 勝也は期末試験一週間前の、クラブ活動最終日に久しぶりに剣道部に顔を出した。陽は試験の準備に忙しいのか、顔を出していない。
 胴衣を着け、面を被る。竹刀を持ち、道場に入ると自然と気持ちが引き締まっていった。
 篭手を通して伝わる竹刀の打ち合う響き。打ち合う相手との無言の駆け引きは、勝也の頭の中を洗うように、無垢に戻してくれる。
 兄達が空手を選び、自分も惰性で習っていたが、いつしか空手は自分に合わないと感じ始めていた。その時に空手の師範に勧められたのが剣道だった。
 剣道を勧めてくれた師範は、勝也の目が剣士の目だと言ったのだが、はじめて竹刀を掴んだ時に、勝也も「これだ」と感じた。
 シュッと音を切る一本の剣に、精神が研ぎ澄まされていく。
 あの人を忘れたい。自分の気持ちを消してしまいたい。
 そのために選んだ剣は今、一人の人を諦めないため、向き合う強さを得るためのものに変わっている。
「ありがとうございました」
 心地好い汗を流し、部員達は部室へと引き上げる。一年生は床にモップをかけ終えて部室へ戻ると、丁度上級生達が引き上げる頃合いになり、着替えやすくなる。
「なー、春。今夜も泊まりに行っていい?」
 汗を拭き、着替えていると、冬芽が春に向かって頼みこんでいる。
「またかよ。最近ずっとだろ。いい加減にしないとおふくろさん達、心配するだろ? いくら隣って言ってもさ」
 勝也は聞いていないふりをしながら、春の気持ちもわからないではないなと、内心苦笑していた。
 春は冬芽を好き。けれど、まだ恋人同士ではない。
 勝也はなんとなくそう気づいていた。
 好きな相手が無邪気に泊まりに来ると言って、「どうぞどうぞ」と言えるなら、聖人君子と言えるだろうなと、勝也は少し気の毒になる。
 けれど同情はしない。なぜなら、冬芽も春が好きだから。ただ、自分の気持ちに冬芽は気づいていない。だから春も強く押せないでいるのだろう。
 何度か泊めろ、だめだと会話をしていたかと思うと、冬芽はいきなりターゲットを勝也に向けてきた。
「じゃあさ、三池ん家泊めて」
「えっ?」
「冬芽!」
 春に睨まれているなと感じながら、勝也は返事に困った。泊めるのは全然かまわないが、睨みつけている春や、陽がどう思うかが問題である。
「三池のトコって、友達泊めるの、ダメって言う?」
「いや、どちらかと言うと大歓迎するタイプだけど」
 まして冬芽のような可愛い、本人に言えば蹴りの一発や二発は覚悟しないと行けないので言えないが、可愛いタイプは母も大好きである。
「じゃ、泊めてくれよ。俺、頑張っておとなしくするしさ」
 ますます睨みつけてくる春に気づかないふりをしながら、勝也は断りの文句を考えていた。ここで他を当たれと言えば、本当に冬芽は当たりかまわず、「泊めて」と言って探しそうなのだ。その前に春が折れるだろうが。
「泊めてもいいけど、冬芽の家の人に許可を貰う事。それと、ヨウ先生にも」
「ええー!」
 いからも面倒だとばかりに冬芽は唇を尖らせた。
「だってさ、その親とヨウちゃんが険悪だから、泊めてほしいのにさー」
「冬芽、余計なことを言うなよ」
 春が軽く窘めるのにかまわず、勝也は冬芽に尋ねた。
「ヨウ先生とご両親が喧嘩してる?」
 あの穏やかな陽が、弟が嫌がるほどに、親と何かで喧嘩するような事をするだろうか?
「そうなんだー。今夜はさー、おふくろが早く帰ってくる日なの。そしたら絶対ヨウちゃんと喧嘩するんだよ。俺はヨウちゃんの味方につきたいんだけど、子供は黙ってろってさー」
「何が原因で?」
「冬芽、喋りすぎだぞ」
 冬芽の頭上で勝也は春と睨み合いになったが、陽のことで春に譲るつもりはなかった。
 頭上の駆け引きも知らず、何とか気まずい家を脱出したい冬芽は春の諌めも聞かずに喋り続けた。
「俺はおふくろ達が悪いと思うんだよ。ヨウちゃんのこと騙して見合いに連れて行ったりしてさ。それでヨウちゃんが断ったもんだから、付き合っている人がいないんなら、お付き合いだけしてみろとか、しつこいってーの。なんだか向こうに気に入られちゃったんだよねー、ヨウちゃん。俺からしてみれば、ヨウちゃんのほうがよっぽど美人だと思っちゃったんだけど、あの女の家、鏡ねーの?って感じ」
「冬芽……」
 あまりの暴言にとうとう春は頭を抱えたが、勝也は途中から上の空になっていた。
 ……騙して見合いに連れて行った?
 ……もう断っている?
「それ、本当か?」
 けれど、陽はあのあとも何も言わなかった。
 ……いや、勝也が陽を避けていた。
「本当だよー、だから、二人が顔を合わせるとそればっかで、俺居辛いんだって。だから、三池、泊めてくれよー」
「悪いな、冬芽。伊堂寺に頼んで」
「えええっ、三池!」
 勝也は呆気にとられた冬芽と春を残し、鞄を引っ掴むと部室を出た。
 薄暗くなった校内を走り、勝也は駐車場へと向かった。
 街灯の中で一台の車を探す。
 まだ残っているだろうか。それとも、車で来ていなければ今夜はもう捕まえられない。
 一台一台を確かめながら、勝也は駐車場の隅に停められた、目的の車を見つけた。
「陽……」
 ほっとしながら呟いて呼んだ名前に、胸が痛くなる。
 どうして言ってくれなかったのか責めてしまいそうになる気持ちを宥めるように深呼吸を繰り返す。
 陽が結婚するかもしれないという不安が晴れた喜びと同時に駆け上ってくるのは、だから自分との関係がどうかわるものではないという現実の苦しみだった。
 この気持ちが受け入れてもらえるわけではない。
 けれど、陽の気持ちを確かめたい。
 まだ望みが完全に消えたのではないと知りたい。
 それくらいは許されてもいいように思えた。
 数人の教師が車で帰って行くのを、勝也は陽の車の影に隠れて見送った。
 まばらになった駐車場で、勝也は待ち続けた。
 部活で流した汗が乾き、12月の夜の冷気が身体に染みてくる。
 吐く息も白くなる頃、校舎の中から細い影が出てきた。
 一目で陽だとわかった。
 俯きがちにゆっくりとした歩調で、陽は勝也へと歩いてくる。もちろん、陽は勝也がここにいることなど知らないだろう。
 その姿を見つめて、勝也は陽への気持ちが少しも揺るいでいないことを再確認する。
 愛しい。
 抱きしめたい。
 その気持ちは日毎に強くなっていくばかりだ。陽を諦めなくてはいけないと思っていた時でさえ、想いは募っていった。
 やがて足音も聞こえるようになって、声も聞こえるかと思うほどに近づいた時、陽は自分の車の傍らに佇む影に気がついた。
 …………勝也。
 背の高い逞しい身体つきは、勝也以外の誰でもないと陽はわかっていた。
 けれど、その名前を口にする事はできなかった。
「誰だ? こんな時間に」
 陽の声に、影は少し笑ったように感じた。そして、数歩近づいてきた。その時にはもう、勝也の顔もはっきりと見えた。
「三池か、どうした? 早く帰らないと、門が閉まるぞ」
 わざとらしく腕時計を見ると、その腕を勝也に掴まれた。
「三池?」
 いつにない真剣な眼差しの勝也に、陽は微かな恐怖を感じた。
 それは自分の気持ちを認めてしまうという恐怖かもしれなかった。
「話があるんだけど」
「相談なら、また明日にでも聞く。今日はもう遅いから帰りなさい」
「相談なんかじゃない」
「三池!」
 掴まれた腕を力強く引かれ、陽はよろめいて勝也の胸に倒れこみそうになった。すんでのところで足を踏みしめ、掴まれた手首を引き寄せた。
「先生、あの見合いは、断ったって本当ですか?」
 真っ直ぐに見つめてくる瞳に吸い寄せられそうになる。
「お前には関係ない」
 そう、勝也には何も関係ない。勝也にたとえ僅かでも責任を負わせるような事はしたくなかった。
「断ったのか、断らなかったのか、聞くだけでもだめですか?」
「俺の個人的な事だ」
「でも、俺にとっては重要な事なんですよ。先生が好きだ。どうしようもなく。この気持ちは止められない。先生にも」
「ダメだ……」
 陽は勝也を無視するように、車へ向かった。ロックを外しドアを開けようとした。
 その手を再び掴まれる。
「三池、いい加減に……」
 語尾は勝也の胸に吸い込まれてしまった。
 陽は温かく強い腕の中で、一瞬息を止めた。身動きできないほどの感情に呑み込まれそうになり、慌てて腕を突っ張り、暴れるようにして逃げ出した。
「言う相手を間違ってるだろ。お前が抱きしめる人は他にいる」
「そんな人、いない。秋良さんの事を言ってるなら、それはもう過去の事だ」
 勝也の言葉に陽は悲しそうに笑った。
「違うだろう、三池。お前には……、いや、いい」
「何が。俺には先生以外に大切な人はいない。どうして俺の気持ちを否定するんだよ」
 陽は微笑みながら、言い募る勝也の胸を押した。
「月乃の事はどうする? 俺が知らないとでも思ったか? 大切にしてやれよ」
「何……言って」
 わけがわからないと勝也は首を振る。
「京は違う。俺と京は親友だよ。どうしてそんな風に……」
「二人はお似合いだよ。俺といるより、三池には月乃といるほうが似合いだよ」
 突然、勝也は陽の肩を掴んだ。
「いたっ……!」
 あまりの強さに陽は顔を顰める。
「先生は俺がそんな男に見えたわけ?」
「離せ……」
「先生に好きだと言いながら京と付き合って、京とできているのに先生に好きだって言うような男に見えた?」
 燃えるような強い瞳に、陽はかえって目が離せなくなった。
「京とは友達以外のなんでもない。俺は前も、今も、先生だけが好きなんだ。そして、これからも……」
 噛み付かれるような視線にたじろぐと、唐突に勝也は陽の肩を突き放した。
「何が誤解をさせたのか知らないけれど、先生は俺と京が付き合ってると思っても、……平気だったんだ?」
 ……平気じゃなかった。
 けれど、それを口にできなかった。言ってはならないとわかっていた。
 このまま、……このまま、離れていくのがいいんだ。
 できれば、……勝也から離れていって欲しい。そうでなければ、いつまで拒み続けられるのか自信がないから。
「ちょっとショックかな」
 勝也が小さく笑った。
「先生がお見合いを断ったって知って嬉しかったけれど、それは俺とは全然関係なかったんだよね。思い上がってたな、俺」
 ゴメンと呟いて、勝也は足元に置きっぱなしになっていた鞄を拾った。
「三池……」
 呼びとめてはいけないと思いながら、口は勝手に勝也の名前を呼んでいた。
「頭冷やします。けれど、先生を諦めるってことじゃないから」
 勝也は陽に背中を向けたまま宣言すると、そのまま振り返らずに歩いて行く。
 諦めてくれ、……お前から。でないと俺はもう拒めない。
 陽は拳を握り締め、必死で祈った。
 このまま、……このまま、離れていくのがいいんだ。
 陽は勝也の姿が見えなくなっても、その場から動けずにいた。