勝也と陽の二人は、表面上は生徒と教師で何も変わらないように見えた。
 陽にとっての学校での勝也は、打ち解けた優等生で、クラスの良いまとめ役で、陽を助けてくれる。
 それに頼っている訳ではなかったが、勝也の自然な態度に流されている自分も感じていた。
 気づけば勝也を探している。視線が勝也を追っている。
 その度に憂鬱を感じた。
 勝也には太陽が似合う。明るい光の中の輝く笑顔を見ていると、自分の立場を思い知らされる。
 そしてこのまま月日が流れていく事をいつしか願う自分がいた。
 勝也の事は好き。勝也が好きと言ってくれるのも嬉しい。
 けれど、それを受け入れる事はできない。
 だから、若い勝也の時間が過ぎ、自分から離れて行くのを待っていればいい。そう思うようになっていた。
 けれど、家にいると、勝也からの電話を待つ自分がいた。
 毎日のように電話をかけてくる勝也は、学校での優等生の態度が嘘のように、親しい口調で話す。聞いている陽の耳には、電話を通した勝也の声は学校で聞くより低く、優しく響く。
 つい教師であることを忘れ、笑みを浮かべて話す自分に慄く事もあった。
 駄目だ……。
 そう思うのに、学校では勝也が別人のように節度ある態度で接してくるため、優等生の勝也、電話での大人びた勝也、どちらも拒めないでいた。
「どうしよう……」
 怖かった。
 この気持ちに正直になればと想像して、それを想像する自分自身が怖くなった。
 そう思う度に勝也に対する態度は冷たくなったが、勝也の方はまったく意に介していないようで、まるで空気を相手にしているような虚しささえ覚えてしまう。
 どうすればいいのか。いい加減自棄になったような気持ちでいる陽だが、それでもある一つの事に時折悲しい痛みを感じていた。
『京は友人だ』
 そう言い切った勝也だが、学校で二人の姿を認める事は多かった。
 確かに友人だと思えば、ごく仲の良い友人に見えた。
 けれど、二人を恋人同士と見れば、これほど似合いの二人もいないように見えるのだった。
 なにより、年が同じという、それだけで陽にとっては立ち入れない雰囲気さえ感じてしまうのだった。
 そんなあやふやなまま、三学期を迎えた。
 勝也はことあるごとに陽を「デートしよう」と冗談めかして誘うが、それに対してNOの返事をするのにも慣れてきている。
 うまく勝也に誘導されるように、いつのまにかでかけてしまう羽目になった事もあったが、だからといって勝也がそれで馴れ馴れしくなってしまうことはなく、それで陽は自分に対する言い訳をせずに済んでいた。
 自分の気持ちを隠し、勝也の気持ちに気付かない振りをした、居心地のいい場所。それに満足をしている自分がいた。それでいいと思っていた。
 このまま勝也が一年生を終え、担任を離れれば、接触する時間もごく少なくなり、自分の気持ちをセーブできるだけの余裕も持てると思っていた。
「京、忘れ物。ほら」
 陽が階段を登っていた時、廊下の向こうから勝也の声が聞こえた。
「え?」
「洗濯してあるから」
「あぁ、ありがと」
 思わず足を止めた陽は二人の会話に聞き入ってしまい、逃げ出すのが遅れた。いや、そのまま二人が向こうへ行くと思っていたのだ。
 それがなぜか、二人とも階段の方へ向かっていた。
 角を曲がった二人と陽の視線が合った。正確には勝也と陽と。
 勝也の言葉を疑っていたわけではない。けれど、信じていたわけでもない。
 いつもどこかで、自分の気持ちを認められなかっただけだ。それを責めてもいいのは勝也だけだとわかってもいた。
 けれど……。
 陽のそんな瞳に気付いたのか、勝也も表情から笑みをすっと消した。
「先に行ってて」
 京は心配そうに勝也を見たが、勝也が早口で何かを言うと、陽に軽く頭を下げて階段を降りて行った。
「何を忘れたって?」
 考えるより先に言葉が出ていた。しまったと思ったけれど、言ってしまって、しかも勝也も聞いてしまっては、取り消せるはずもなかった。
「体操服」
 勝也はあっさりと答えた。
「……そうか」
 幾分の後悔と共に通り過ぎようとした陽の腕を勝也が掴んだ。
「昨日借りて返すのを忘れたって言ったら信じる?」
 そんな風に聞かれて陽は言葉に詰まった。
「信じるも何も……」
 それなら『忘れ物』という言葉の説明がつかない。そう思ったが口にはしなかった。
「さっき、月乃に何を言った?」
「あ? あぁ……。そうだな、あれは先生にもぴったりの言葉かも」
 勝也は小さく笑って陽の耳元で囁いた。
“You don‘t need to worried about it”
 綺麗な発音の英語は、先程よりもゆっくりで、聞き取りやすかった。
「信じさせるから」
 勝也は陽の耳元で続けた。
「あいつと俺は親友。その事でヨウ先生にもあいつの恋人にも疑われるのは、たまらないでしょ。放課後、楽しみにしてて」
 不敵な笑みを浮かべると、勝也は片手で素早く陽を抱き締め、あっと思う間もなく離れていった。
「み、三池っ!」
 勝也は階段を降りて行くのに、振り向きもせず片手を軽く振って踊り場から姿を消した。
 放課後、数学研究室に勝也が訪ねて来た。
「質問か?」
 わかっていながら嫌味な聞き方をしてしまう。
 勝也はそんな陽の強がりさえわかっているというように、楽しそうに笑って、陽を手招きした。
「?」
 不審に思いながらもついて行くと、勝也は廊下の窓の向こうを指差した。
 勝也の指差す方向には、学校の裏門が見えた。駅とは反対方向になるため、その門を利用する生徒はほとんどいない。業者が配達に利用するというくらいだった。
「あれは?」
「月乃でしょ」
 門にもたれるようにぽつんと一人で京が立っていた。
「時間に遅れるような人じゃないから、もう来るよ」
 勝也は腕時計を眺め、そして『ほら』と呟いた。
 佇む京の横に黒いスポーツカーが横付けされた。その車から一人の青年が下りてくる。
 京と親しげに短い会話をしてから、肩を抱くように京を助手席に座らせる。
 青年が運転席に乗り込むと、車はスムーズに走りだし、すぐに見えなくなった。
「俺の兄貴」
「お兄さんだって?」
 思いもかけない答えに、驚いて聞き返した。
「そう、俺のすぐ上の……じゃなくて、上から2番目の兄貴。一番上があれでしょ。で、2番目が今の。3番目も今のと同じだけどね」
「で、……月乃の?」
「先生にばらした事は京には秘密にしておいて」
 でも……。
 陽はそれを聞いてますます不安が膨らんでいくのを感じた。
「そんなの、お前達三人で打ち合わせたかもしれないし」
 なんだか話がうますぎる。そんな気持ちになった。
 親友を通り越して、その兄を好きになるなんて……。そんな事がありえるだろうか。
 そう、例えば、春が冬芽ではなく、自分を好きになるというような……。それは陽にとってとても不思議な感じがするのだ。
 けれどそれが勝也の気持ちを逆撫でた。
「俺って、ヨウ先生に誤解させるような事、何かした?」
「誤解って……」
 真剣とも怒りとも決めかねる炎が勝也の中にともる。
「どうして信じてもらえないかな。俺はあなたが好きなんだよ。それだけが事実だって。それとも、信じたくない?」
 陽は答えるべき言葉を見つけられず、押し黙った。できれば逃げ出したいと思いながら。
「あなたが好きだ。……答えてよ」
「……三池」
 薄暗い廊下で勝也の視線が強さを増した。きらりとひかる。
「拒むなら、俺を嫌いだとはっきり言って」
 言葉を失い、陽はただ勝也の視線に耐えていた。
 嫌いだと言えばすべてを失う。それはわかっていた。
 あの時、勝也にすべて拒絶された日々がまた繰り返される。
 そう思うと、『嫌いだ』というのが勝也のためだとわかっていながら、言えなかった。それだけは言いたくなかった。
「お前は生徒で……、俺は教師だから」
 陽の言葉に勝也はふと笑った。
「それは理由にならない」
 その言葉を受け入れれば多分楽になる。甘い誘惑が陽を襲う。
 どんなリスクがあろうと、勝也となら分け合える。
 その時、廊下の電灯が一斉に瞬いた。
 凛々しい少年が目の前にいた。
 眩しさに目を眇める。
「それ以外に、理由なんてない」
 意思の力をすべて使い切って、陽は勝也に背中を向けた。
 教師と生徒だから。
 勝也の前には、限りない未来があるから。
「教師と生徒だから? そんなの、いつでも取り消せる」
「三池、お前!」
 勝也の言葉に陽は目を見張って振り向いた。驚く陽とは対照的に、勝也は柔らかい笑みを浮かべていた。
「辞めたりしないよ。言ったでしょう、あなたを困らせたりしない。他の教師たちに、酷い事を言わせない。…………あなたを諦めたりしない。だから、答えがないなら、それで俺は嬉しいから」
 拒むならすべて拒め。それができないのは、勝也が好きだから。
 けれど一歩を踏み出せない自分を、勝也は待ってくれている。
 教師だから、生徒だからと甘えを言う自分を。
「生徒会に行ってきます」
 陽とすれ違うように勝也は歩き出す。
 その背中を見送る。いつしかあの孤独が消え、そのかわりに逞しくなった勝也の背中を……。