三月末、新学年のクラス編成と、自分が受け持つクラスの名簿を見て、陽は息を詰めた。
 出席番号33番、三池勝也。
 その名前が真っ先に目に飛び込んでくるあたり、ちょっと重症かもしれない。
 首を振って気を取り直し、1番から順番に名前を見ていく。
「うそだろ……」
 出席番号26番、月乃京。
 偶然か? 必然か? それを疑いたくなるクラス編成に、陽はこれから始まる1年の憂鬱を早くも感じていた。
 職員会議を終え、新学年の担任団会議を済ませて帰宅すると、冬芽が自分の部屋から顔を出した。
「ヨウちゃん、三池から電話あったよ。ヨウちゃん、携帯の電源切ったままだろ」
「あ。……忘れてた」
 陽は鞄から携帯を取りだし、電源を入れる。留守番メッセージが出たので、先にそれを聞くことにした。
『三池です。また電話します』
 短いメッセージはそれだけで切れていた。
 かけなおそうか、いや、それは良くない。はっきりしない思いを抱えたまま夕食の準備をしていると、自宅の電話が鳴った。
 電話の音にドキッとして、相手が勝也と決まった訳でもないのにと、苦笑しながら電話を取る。
『先生? 俺』
 低く響く勝也の声に、再び鼓動が早くなる。
「電話貰ったそうだな。悪かった。何か用か?」
 少しも気にした風もなく、勝也は話し始める。
『別に。声を聞きたかっただけです』
 それに対しては何も言えない。黙り込んだままの陽に、勝也は勝手にしゃべり出す。
『今日の職員会議って、クラス編成でしょ。俺、先生のクラス?』
 生徒会長の勝也は、学校の予定も細かく把握しているようだった。重要な会議の時は、生徒の登校が禁止されるので、この時期の重要な会議の内容が何かは察しがつくのだろう。
「さあな。始業式まではわからない」
『……ふーん』
「な、なんだよ」
『わかった。俺、先生のクラスだ』
「え!」
 何かわからせてしまうような言い方をしただろうかと陽が焦っていると、電話の向こうで笑う気配がした。
『ダメだなあ、引っかけなのに』
「っ、三池!」
『でも、ラッキー。また1年、よろしく』
 本当に楽しそうな声に、陽はちくりと胸が痛む。そんなに嬉しい事なのか?とむっとしてしまう。
「お前、嬉しいの?」
『嬉しいですよ。先生は、嫌なんだ?』
「そ、そんな事じゃなくて」
 仮にも教師が、自分の受け持つクラスの生徒に、担任にはなりたくなかったなどと、言えるはずもないし、そんな気持ちは欠片でも見せてはいけない。
『ま、先生が複雑な気持ちになってくれるなら、俺はそれも嬉しいけど?』
「どうして」
『わからないの?』
 真剣な声が耳に直接響いてくる。陽は答えに詰まってしまった。
『わからないならいいよ。でも、俺は嬉しいってことだけはわかってて。いいクラスにしようよね』
 お前がいるなら大丈夫だろ? そう言いかけて口篭もる。
 このところ、いつも勝也には言いたいことを言えないでいる。
 大切な一言が言えないために、些細な事さえ言い澱む結果になっている。普通なら、相手も嫌な気持ちになるのではないかと、心配してしまう。
 けれど勝也はそんな陽に対しても、変わらぬ態度で接してくれている。
 それに甘え、自分の気持ちに素直になれず、立ち止まったまま。
 いつまでも今のままでいたいという気持ちと、このままでいいはずかないという気持ちの間で揺れ動く陽を、勝也は温かく見守ってくれているような気がして、どちらが年上なのかと少し落ち込んだりもする。
『また電話しますから』
 陽の気持ちが不安定になると優しく声をかけ、もう嫌だと思う前に勝也が引いてくれる。
 それで陽は安心すると同時に、不安定な気持ちになる。
 そして、この不安定な気持ちを支えて欲しいと……。
 新学年はスムーズに始まった。少なくとも、陽のクラスは。
 クラス委員は生徒会長の勝也は掛け持ちはできないので、別の生徒がすることになったが、勝也がうまくサポートしながら、早くもまとまりつつあった。陽のすることは何もないくらいに。
 勝也と京を一緒の教室で見ることにも、最初は不安だったが、それにもすぐ慣れた。
 仲が良すぎるように見える時もあったが、苛立つより前に、勝也が陽に話しかけてくれる。
 それでささくれ立った気持ちが治まるのを認めながらも、勝也を好きだと言う気持ちはまだ自分で否定している。
 ダメだという抑制ばかりが、陽を引き戻す。
 陽のクラスは問題もなくスタートしたが、家では荒れている少年がいた。
 毎日、毎日、不満ばかりを聞かされる。
 それも、ただ単に、春と一緒のクラスになれなかったというつまらない不満に行き着くだけの。
 適当に生返事していれば拗ねられるし、親身になって聞いてやれば、ついつい説教したくなる。そうすると相手は逆切れする。
 これで本当に勝也と同じ年か! そう思うと、わが弟ながら、情けなくなってくる。
 そんな冬芽が珍しく楽しそうに誰かと電話で話をしていた。
 相手が春でないことは、その口調でわかった。冬芽は最近、春を見れば嫌味しか言わなくなっていたので。
「陽ちゃん、三池から」
 突然電話を渡されて、陽は『誰だって?』と聞き返した。
「三池」
 冬芽が楽しそうに話していた相手が、勝也だと知って、陽は驚いていた。
 確かに同じ剣道部だし、陽にかかってくる電話を取り次いでくれたりして、二人の間に接点がないわけではない。
 けれど今まで、陽より先に勝也と冬芽が楽しく会話していたことはなかった。
 冬芽の久しぶりに見るような楽しい笑顔に、何故だかむかついた。
「もしもし」
 電話に出る声もついぶっきらぼうになってしまう。
『どうかした?』
 勝也の第一声は、少し驚いたような声だった。
「どうかって、何が?」
『何か嫌な事でもあった?』
「別に。なにもない」
 そんな声を出す自分が嫌になってきた。
『……そう。俺、明日冬芽と出かけるんだけど、いい?』
「冬芽と?」
 それで楽しそうに話していたのかと、また苛立ちが増す。
『ほんとうはさ、明日、秋良さんと出かけるんだ。それを言っておくつもりだったんだけど、成り行きで冬芽とも出かけることになってしまって』
「忙しいんだな」
 嫌だ、こんな言い方。
 わかっているのに、その名前を聞くだけで、胸が痛くなる。
 逐一報告するなと思う。そんな必要もないじゃないかと腹が立ってくる。
『…………ごめん』
 電話から静かな謝罪が聞こえてくる。
「お前が謝る必要なんか、……ないだろ」
『う……ん、秋良さんはさ、アメリカに行くのに、ビザと飛行機の手配行くのに心配でさ。ついてきてくれって頼まれて。先生が嫌なら、他の誰かに頼むから』
「嫌だなんて言ってない」
 先回りされて気持ちを読まれるのがたまらなくなった。
『冬芽のは、伊堂寺に対する当てつけみたいなものだったけれどね』
 冬芽の最近の荒れようは、勝也にもわかっているのだろう。
「それは……悪いと思ってる」
 純粋に冬芽の兄として陽が謝ると、勝也は小さく笑った。
『先生も来る?』
 行くと言いかけた言葉を陽は飲み込んだ。
「行かない」
 楽しそうに待ち合わせの電話をしていた冬芽。それなのに、断わらなければならない自分。その違いに悲しくなってくる。
『…………そう。また……誘うよ。ヨウ先生と二人で出かけたいから』
「もういいよ。そんなふうに言うな」
『……俺は先生が好き。言い続けないと、先生は忘れちゃうんだね』
「聞きたくない」
 忘れているわけじゃない。その気持ちを疑いそうになる自分が嫌で、信じようとする自分も認められなくて、どうしようもなくなるのだ。
 あの人の影や、親友という名前や、そして弟までも妬む自分が苦しくなるのだ。
 勝也の気持ちを拒めば、……楽になれると思うのに、それはしたくないのだ。
『好きだよ。陽が好き』
 アキラと呼ばれて胸が痛くなる。
 その名前で呼んで欲しい。今では本当の名前で呼ばれることは少ない。
 友人も、教え子たちも、弟も『ヨウ』と発音する。両親もずっと『お兄ちゃん』と呼ぶ。
 こうして勝也に呼ばれるのは、心の奥では嬉しい。
 けれど……。同時にあの人を思い出してしまう。
 それは辛い……。
「聞きたくない」
『聞きたくないなら、忘れないで』
 勝也の言葉に、陽は首を振る。電話の相手に見えるはずもなかったが。
「冬芽、明日三池と出かけるんだって?」
 少し気まずいまま電話を終えて、リビングに戻ると冬芽がのんびりとテレビを見ていた。
「陽ちゃん、もしかして三池と何か約束があったりした?」
「違う、僕じゃないよ」
 勝也の出かける相手を思い出して、陽は淋しそうに笑う。弟に言われて、ようやく、出かける相手が自分だったらよかったのにと思った。
「オレ、別にそんなに行きたいってわけじゃないから、陽ちゃんと代わろうか?」
 陽は弟の頭をポンポンと軽く手を置いて、微笑んだ。同情されているのかもしれないが、珍しくしおらしい冬芽に、陽こそ同情してしまう。
「いいよ。行っといで。春に構ってもらえなくて、拗ねてるんだろ」
「な! 違うぞ! ぜんっぜん、違うっ!」
 むきになって否定する冬芽がおかしくて、陽はしばらく冬芽をからかって、自分の淋しい気持ちを忘れようとした。
 土曜日に勝也と冬芽が出かけ、陽は一人、苛立ちを苦労して抑えながら、二人が帰ってくるのを待った。
 陽は勝也が迎えに来たので、帰りも一緒になると思っていたのだが、冬芽は一人で帰宅した。
 肩透かしを食ったようで、気が抜けてしまった。
 その夜も勝也から電話はあったが、やっぱり素直になれず、教師という自分にもなれず、ちぐはぐな返事をして、勝也にどこか具合が悪いのかと心配された。
 そして休みが明けて、昼休みも終わり頃、冬芽が陽のところへやってきた。
「また何か忘れたんじゃないだろうな」
 陽が睨むと、何かを言いかけてはやめ、言えずにイライラすると言っては、癇癪を起こした。
「お前なあ、落ちつけって」
 宥めているうちにとうとう昼休みが終わる。
「お願いヨウちゃん、三池に聞いて。ねっ?」
「あ! こら」
 呼び止める間もなく、冬芽はそう言って教室に戻るべく飛び出して行った。捕まえる間もないくらい素早かった。
「三池に何を聞けって?」
 わけのわからないまま、午後の授業を終えてホームルームに行く。連絡事項を伝えて教室を出ると、勝也がついてきた。
「何時ごろ行けばいいことになった?」
「……冬芽のことか?」
「そう」
 勝也と並んで歩きながら、職員室へ向かう。
「それ、何も聞いていないんだけど」
 勝也は足を止めた。
「三池?」
 陽が振りかえると、勝也は何かを考え込んでいるようだった。
「一体、二人で何をしようと……。おい!」
 陽が問い詰めようとすると、勝也は陽を人気のない渡り廊下へと引っ張った。
「何も聞いてない?」
 勝也の目に見つめられて、陽は頷いた。
「三池に聞いてくれって言われたけれどな」
 勝也の視線に刺すような強い光がこもるのがわかった。
「じゃあ、放課後、迎えに行きますから」
「放課後?」
「放課後、俺と冬芽で聞いてほしいことがあるんだ。だから」
 何かまた揉めていることがあるのだろうかと、心配しながらも、放課後の約束をした。
 二人で相談したいことがあるのだろうとたかをくくっていた陽は、迎えに来た勝也に、疑いもなくついていった。
 道場では冬芽が待っているらしい。
「ここで見てて。伊堂寺が戻ってきたら、合図して」
 言われるままに頷いて、剣道部が解散するのを、扉の外の物陰から見ていた。
 剣道部員達は引き上げていくが、勝也と冬芽は道場に残っている。
 二人の話し声は、小さくて聞き取れなかった。
 明かり取りの窓から見える二人の距離に、小さな痛みを感じる。
 と、階段の隅に、袴の裾が見えた。
 こつんと、音を送る。
 聞こえただろうかと心配になったが、二人が声のボリュームを上げたので、届いたのだとほっとする。
 が、その安心は1秒と続かなかった。
 二人の会話に陽は目を見張る。
「冬芽。きみが好きなんだ。付き合ってほしい」
 心臓がどきんと大きく脈打つのがわかった。
「三池、そんなこと、突然言われても」
 答える冬芽の声は、戸惑いを隠せないようだが、嫌がっているようには思えなかった。
「突然じゃないだろ? 土曜日、映画館で手を握ったら、きみは握り返してくれたじゃないか。肩を抱けば頭をもたれさせてきた。頬に唇を寄せれば、僕の首に腕を回してくれた」
 勝也の言葉に、目の前が暗くなる。いや、胸に熱い炎が燃えているようだった。
 ……苦しい。
「きみのその愛らしい唇が僕に答えてくれた。きみの舌は甘くって」
「み! 三池っ!」
 聞いていられない。逃げ出したい。
 そう思うのに、足が固まってしまったように動けなかった。
「答えられないなんて言わせない。もう待てない。ここできみを完全に俺のものにする」
 ばたんと勝也が冬芽を押し倒すのが見えた。
「嫌だ!」
 止めろと呟いていた。声にならない声は、二人に聞こえるはずもなく。
「嫌だなんて言わせない。そんなのは、土曜日のうちに言うべきだった」
「嫌だー! 助けて、助けて! 春!」
 冬芽の悲鳴にも、陽は助けようとは思わなかった。
 弟の危機よりも、勝也の裏切りが痛かった。