「嫌だー! 助けて、助けて! 春!」
 冬芽の叫び声、胸の痛み、立ち竦んで動けない陽の前を何かが駆け抜けていった。
「この野郎!」
 ガツンという鈍い音がして、勝也が横にふっ飛んだ。勝也が顔をあげると、唇の端が切れているのか、血が滲んでいるのが見えた。
 陽は自分が痛むように、口元を手で覆う。
「絶対許さない!」
 更に勝也にのしかかろうとする春を、冬芽が慌てて引き止めている。
「やめて! 嘘なんだ。全部、三池の作り話。オレが頼んだんだ。こうしてくれって!」
「冬芽!」
 わけがわからずにじっと冬芽を見つめる春に代わって、勝也が言うなと止めた。
「いいよ。三池が殴られることない。オレが悪いんだ。三池は人の気持ちを試すなって言ってくれたのに。殴られるべきなのは、オレなんだ、春」
「どういうことだ?」
 春は掴んでいた勝也の肩を離した。
「お前の気持ち、全然わからなくて、お前がオレのことどう思っているか知りたくて、それで……、こんなこと仕組んだんだ」
「冬芽」
「お前、クラスが離れても平気だし、その方がいいなんて言うし。オレ、もうどうしていいかわからなくて」
 冬芽の告白に、春は驚いているようだった。
 そんな春とは反対に、陽はほっとしていた。
 そして、もう、隠せないと気づいた。
 弟にさえ嫉妬した。吹き出すような熱い塊は、ジェラシー以外のなにものでもない。
 それを隠すことのほうが無理があるとわかった。
「俺はもう行くから。二人でごゆっくり」
 勝也が口の端を手の甲でグイッと拭いて立ち上がった。
 その目は冬芽や春ではなく、陽を見ていた。
 まっすぐにこちらに向かってくる。
 ドキドキと鼓動がたかなる。
 逃げ出したくなる気持ちを支え、自分を見つめる勝也を見つめ返した。
「春が行かなければ、僕が行ったよ」
 弟を助けるためではなく、勝也を詰りに。
「ちょっとノリすぎたかな」
 すべてばれてしまった後味の悪さに、勝也が苦笑に気まずさを紛らわせる。陽は俯く。
 自分が言おうとしていることの罪深さ。もしかすると、勝也の将来さえ奪いかねないという恐怖。それでも、もう、隠せない想い。
「すごく、ショックだった」
 陽は俯いたまま、言葉を震わせた。
「ごめん」
 勝也の謝罪に陽は勝也を見上げた。
 陽の態度の変化に、勝也が少し驚いてるのがわかった。
「痛そう……」
 陽は勝也の唇に指先で触れる。指先が燃えるように熱くなった。
「すまなかった。冬芽のために」
 きっと避けることもできたはずだ。それでも、春の拳を受けてくれた。
 あれは陽に対する償いもあったのだと、自分の気持ちを認めた陽にはわかった。
「これでチャラにする」
 勝也の手が頬に触れる。そこから熱が広がっていく。
 そっと勝也の唇が、自分のそれに重なる。
 陽は目を閉じ、その熱くて、思っていたより柔らかなその口接けを受ける。幽かに血の味がする。それすらも甘く感じた。
 優しく触れ、重なり、名残を惜しむようにそれは離れていった。
「馬鹿」
 唇が離れた時、陽は勝也の首に両手を回して抱きついた。
 勝也の手が背中に回る。力強く抱き締められると、もう何も考えられなくなった。
 この腕をどうして今まで拒めたのか、それの方が不思議な気がする。
 逞しい腕の中で、囁くような声が響いた。
「やっと、手に入れた」
「まだ時間あるよね」
 勝也に言われ、どこへ行くのかと聞けぬまま、勝也が停めたタクシーに乗り込んだ。
 勝也が告げた行き先に思い当たることもなく、食事でもするのだろうかと軽く考えていた。
 運転手からは見えないように、そっと手を重ねられる。その暖かさに、ほっと落ちつく自分がいる。
「手当てしなくていいのか?」
 唇の端が赤く滲んでいる。血は止まっているが、まだ痛々しく見えた。
「こんなの、何ともないって。小さい頃は空手もしてたから、慣れてるし」
 そう言って微笑まれれば、何も言い返せなくなってしまう。
 今更なのだが、勝也の笑顔に緊張しているのだ。
 勝也の気持ちを受け入れた。それだけなのに、勝也が眩しく感じる。
 もう、勝也を生徒としては見れなくなっているのだと、あらためて気がついた。
 タクシーは細かい道を、勝也の指示通りに進んだ。到着したのはマンションの前だった。
「ここは……?」
 勝也の家からも遠い場所に、不審を感じる。
「こっち」
 そっと手を引かれ、マンションのエントランスを潜る。
 あまり人のいないマンションなのか、夕飯時で忙しい時間なのに、辺りは静まり返っていた。
 1階の一番奥の部屋に、勝也は慣れた手つきでキーを差し込んだ。
 ドアを開き、陽の肩を抱いて招き入れる。
 玄関を入るとセンサーがあるのか、灯りがつく。玄関の向かいのドアを開けると、ワンルームタイプの部屋が見えた。
 部屋の窓際にはベッドが置かれ、パーティションで区切られた反対の壁際には簡易キッチンがあった。
「どうしたんだ、ここ」
「陽、教師の口になってる」
 勝也は笑い、陽を抱き寄せる。
「だって、お前……」
 アキラと呼ぶ声が、勝也の腕の中で聞くと、こうも心地好いのかと不思議な気がした。
「アルバイトで泊まりこむ時、ここに帰ることにしたんだ」
 勝也のクスクス笑う振動が、陽の身体に響く。
「話が見えないんだけど」
「帰れない時は去年まではホテルを取ってくれたんだけどね。そこで嫌なものを見ちゃったからねー」
 勝也の少し自嘲気味な声に陽もあの日の事を思い出した。
「ビジネスマンの出張中の滞在場所として、企業が何部屋かまとめて借り出してるみたいで、静かで落ちついてて好きなんだ」
 ベッドと小さなキッチン、あとは小さなテーブルと、いくつかの電気製品だけの部屋はいかにも淋しそうに見えた。
「淋しくないのか?」
「んー、でも、ほんとに眠るだけだから」
「アルバイトは禁止されているんだけれどな……」
「もう、ヨウ、黙って。教師になるなって」
 笑いを含んだ声に顔を上げると、勝也の真剣な目に見つめられていた。
「黙って……」
 囁きと共に唇がおりてきた。
 そっと触れ、すぐに離れる。
「愛してる……」
 頬に触れるように囁かれ、きつく抱き締められた。
 頭を引き寄せられ、再びキスされる。それは今までになく、深く陽を侵した。
 熱い舌が差し込まれ、抱き締められ、喉に勝也の手かがかかる。
 舌先が触れ合い、歯の裏を舐められると、膝が震えた。
「ヨウ……、……陽」
 耳朶を噛まれ、耳の裏に口接けられると、両腕を勝也に回して縋っていた。
 顎にキスされたと思うと、抱き上げられた。
「み、三池……」
 驚いてしがみつくと、勝也はクスッと笑った。
「色気ないなぁ。名前で呼んで。陽」
 頬が火照るのがわかった。
「それは……」
「陽」
 ベッドの上に降ろされる。そのまま勝也が口接けてくるので、陽は両手で勝也を抱き締めたまま、その逞しい身体を受け止める事になった。
「……勝也」
 名前を呼ぶと、勝也は嬉しそうに笑い、『陽』と名前を呼び返してきた。
 もう、あの嫌な感覚は、胸に押し寄せてこなくなっている。
 勝也の呼ぶアキラという名前が、自分の事だとわかるから。
 深いキスを交わすと、それだけで落ちつくことができた。
 けれど、勝也の指が自分のネクタイを解いた時、陽は慌てた。
「ちょ、ちょっと……」
「待てないよ」
 待てという言葉を先に取り上げられ、陽は困ったように勝也を見上げた。
「その目は反則。……っていうか、逆効果だと思うけど」
 勝也はふっと笑って、それでも陽のネクタイを引きぬいた。
「勝也……」
「だから、その声も煽ってるだけだよ。わかってやってる?」
 勝也は苦笑して、陽に触れるだけのキスをした。
 それで少し安心した陽の油断をぬって、勝也はワイシャツのボタンを外していく。
 それを止めようと勝也の手を掴んでみるが、勝也は意に介さずに、キスをしたまま、器用に外してしまう。
 抵抗する気持ちはないのだが、どこかで踏み止まろうとしている自分を陽は感じていた。
 勝也の着ている制服が、そんな気持ちにさせているのかもしれないと思う。
 でも、もう、離れたくない。この腕をなくしたくない。
 ごくりと息を飲み、陽は勝也の学生服のボタンに指をかけた。
 勝也は少し驚いたようだったが、すぐに嬉しそうな顔をして、まるで褒美のように陽にキスをした。