「遅いな……」 陽は職員室の窓越しに廊下を見ていた。勝也が教室に行くと言ったまま、戻ってこない。下校の挨拶はしたのだから、わざわざ職員室に寄るとは限らなかったが、生徒玄関にカバンを置いていたので、職員室の前を通るはずなのだ。 「忘れ物、取ろうとしているのか?」 鍵は既に返されている。まさかこじ開けるようなことはないだろうが、それにしては遅いと思った。 陽は教室の鍵を取り、職員室を出た。鍵さえ開けてやれば、忘れ物が残っているのかどうかすぐにわかると思ったからだ。 それに……。 二人きりで話したかった。最近ずいぶん態度が柔和になった勝也だが、時折見せる孤独感は今もまだあった。何かしてやりたい。そう思うのは驕りだろうか。 教師と生徒としてではなく、身近な人間として勝也の心の中に存在する闇を溶かしたいと思うようになっていた。 直感でしかなかったが、勝也と接する時に、教師として彼の前に立ったならば、心を開いてはもらえないのだと、漠然と感じていた。 三階まで昇ると、すぐ近くの教室から、なにやら叫び声が聞こえた。 確か一つだけまだ鍵の返されていない教室があったはず。陽は慌てて走った。男子校であるため、暴力事件と無縁というわけにはいかない。まだこの高校では少ない方だが、一応の対処方法もマニュアル化されていた。 教室の扉は開いていた。 その中に四人の生徒がいた。 二人はただ茫然と立っているだけだが、もう二人は床に倒れ、縺れあっていた。 「何をしている!」 今にも振り下ろそうとして拳をぴたりと止め、上になっていたほうがゆっくり身体を起こした。 陽は信じられない人物を目にし、目を見開いた。 「三池……」 勝也は目を逸らし、手を握り締めたまま、斜め下を見ていた。 「…………うそ、だろ……」 陽が呟いた時、見ていただけの二人の生徒はバタバタと教室から走り出ていった。本当なら残して事情を聞かなければいけないと思いながら、陽は一歩も動けなかった。 「ひぃぃーー」 か細い泣くような声がした。川添が床に座り込み、顎を押さえて、呻き声をもらしていた。 「あご……、あごあ……。ゆる……、ゆるはない……」 押さえた手から血が滲み出していた。 「いたー、いたいー。ひぃぃー」 「大丈夫か?」 陽は震えだしそうな足をなだめて、川添に歩み寄り、助け起こす。 「らいりょうぶりゃないー!」 ぼとぼとと血の雫を落としながら、川添は首を振り、喚く。 「三池、君も来なさい」 「はい」 勝也は今までの激情をかけらも見せず、静かに陽のあとをついてきた……。 それからは大騒ぎになった。 川添は担任に付き添われ、救急病院へと向かった。 勝也は、陽の問いにも、指導主任の説得にも、自分が殴ったことを認めたものの、その理由などは一切口を噤み、何も語ろうとはしなかった。 そうしているうちに、病院から連絡が入り、川添の顎の骨にひびが入っていたこと、親が過激な反応を見せていることなどが伝えられてきた。 いくらでも謝ります。どのような処分も受けます。 それでもなお、勝也はそう繰り返すだけだった。 仕方なく、勝也の両親が呼ばれることになった。 喧嘩は両成敗、の精神がここにはあったが、勝也は自分の非だけを認め、言い訳をしようともしなかった。それぞれに事情を聞き、勝也を担任が家まで送り届け、両親を交えて話し合い、処分が決まるまでは自宅謹慎、というのが通常の対応策だったが、勝也の態度が頑ななために、両親を呼び出すしか方法はないと判断された。 自分が若く未熟なために……。陽は悔しさを隠しきれず、項垂れた。自分さえもっと教師の間で力があれば、無理にでも本来の方法をとったのに。親を呼び出す場合、最悪、退学さえありえるのだ。 陽は勝也の背中を見詰め、自分の力のなさを心の中で詫びた。 ほどなくして、勝也の母親と兄が学校へやってきた。父親は出張中で、今日は来れないということだった。 陽はその人をはじめて見た。……勝也の兄。 なるほど良く似ている。勝也よりは幾分背が高く、母親に付き添う様に、会議室へと入ってきた。 「三池君、君が来てくれたのかね」 指導主任はこんな場というのに、満面の笑みで兄を迎え入れた。 「ご迷惑をおかけしました」 「いやぁ、彼も常にトップの成績でいてくれてね。さすが君の弟さんだと思っていたが、まさかこんなことをしてくれるとは……。まあ、事情を説明してくれれば、君も知っているように、わが校では喧嘩両成敗の精神を取っているんだがね。とにかく彼が何も言ってくれないもんだから。君からも説得してくれないか。こちらだって、トップの成績の者を処分なんて真似は、したくないんだよ」 ついポロリと出てしまう本音を混ぜて、指導主任は、まるで揉み手でもするように、勝也の兄の腕を叩いた。 「事情を説明させればいいんでしょうか?」 「頼むよ。君やお母さんの言うことなら、彼も聞くんじゃないかと思ってねぇ」 勝也の兄はここへ来てから、まるで表情を崩すこともなく、陽の目から見れば、弟が大変なことになっているというのに、冷たいと思った。 これでは勝也は救われない……。 陽は暗い気持ちで勝也の寂しそうな背中を見た。 「勝也、何故相手を殴ったりした」 その問い方も冷たい様に思う。 「理由は言えない」 勝也の声は力なく響いた。 「言えば、処分はずいぶん軽くなるんだぞ」 「どんな処分でも受ける」 それでも勝也は、きっぱりと言い切った。 「秋良にも、言えないか?」 その時、勝也の背中がぴくりと動いた。 「……来てるの?」 「車で待っている」 「……言えない」 「じゃあ、聞き方を変える。秋良の顔を見れるのか?」 「見れる。殴ったことは悪かったけど、理由は言えないけど、アキちゃんの顔も見られないようなことだけは何があってもしないよ」 その時だけ、勝也はしっかりと兄を見た。 「……わかった。それでいいんだな?」 兄が問うと、勝也はしっかり頷いた。勝也の態度を見て、兄は指導主任に向き直った。 「ということですので、処分はいかようにもお決め下さい」 「そんな!」 つい、抗議の言葉が口に出た。せっかくここまで来ておきながら、どうして助けてやらないのかと思った。教師たちにあれだけ信頼されておきながら、それを利用しようともしないなんて。 陽の声に兄は振り返ったが、何も言わなかった。すぐにまた指導主任に向き直る。 「相手の生徒さんの所へはこれから一緒に謝らせに伺います」 「三池君。何もそんなに性急に事を決めなくても。もう少し説得して……」 「唯一打ち明けるかもしれない人物を連れて来ていますが、その人にも勝也は話さないといいました。ならばいくら時間をかけても無理です」 「しかし、君。相手さんは訴えるとまで言っているんだぞ」 「そうですか。ならば弟はその責任も負うつもりなのでしょう。治療代や慰謝料でしたら、十分なことをさせて頂きます。学校には迷惑をかけませんのでご安心下さい」 淡々と話す兄に、陽は眩暈さえ覚えた。何故……。そんなにも冷静でいられるのだ。 指導主任もどう対応していいのかわからず、唸り声を上げる。 「まったく、君の再来だと言って調子に乗せたのがいけなかったようだな。こんなことをしでかしてくれるなんて、情けない……」 指導主任の、教師とも思えぬ言葉にさすがに陽も黙っていられなくなった。 「弟を馬鹿にしないでいただけませんか」 陽より先に口を開いた人物がいた。 兄は真っ直ぐに指導主任にきつい視線を向けていた。 「僕がこの学校にどれだけの事をしたというのです。僕は自分のためにだけ勉強しただけのことです。だが勝也は違う。あなたたちは勝也の何を見てくれているのですか。これが暴力をふるうのはよほどのことがあったからです。それを言わないというのは、とても重要なことがあるからです。それを自分たちで聞き出せもしないで、相手の被害だけにおろおろして。勝也の話を聞かなくても、ことの真相を知りたいなら、他にも方法はあるはずだ。それをしたくないから弟を責めているだけだ。やめてくれませんか」 「み、三池君、君……」 かつての優秀な、おそらくは自慢の種だった生徒に反抗されて、指導主任は真っ青になっていた。 「どのような処分も受けると、その覚悟はあると言っているのです。あなた方にとっては、それが一番楽なのではありませんか? 自分たちの都合で、勝也と僕を比べないで下さい。あなた方の判断は常に、成績上に見える数字だけだ。それだから僕よりも勝也の方が優秀だということに気づかないのです」 誰も、何も言い返せなかった。 「勝也を連れて相手方へ謝罪に行ってきます。どなたかついてこられなくてはまずいんじゃないですか?」 「あ……、ああ、私が行く」 指導主任は慌てて用意を始める。 「では駐車場でお待ちしています。……行くぞ」 あとの言葉を弟にかけて、兄はさっさと廊下に出た。勝也の腕をとり、母親がその後を追う。 「待ってください。本当にいいんですか?」 陽は我慢できずに、廊下を歩いていく兄弟に声をかけた。 兄は歩きながらも、陽の歩調に合わせるように、速度を緩めた。 「いいよ、先生」 勝也が陽に答える。 「だけど、三池……」 「本当にいいんだ。殴ったらだめだって……、わかってて、俺は殴った。俺が悪いんだ」 「だけどな。なんの理由も無しにお前がそんなこと……」 「いい。本当にいいんだ」 勝也は笑おうとさえする。 「先生、あとで責められるのではありませんか? 先生の指導方法が悪いのではないかと」 兄の指摘に陽は詰まる。実は、勝也がしゃべらないことでいらついていた指導主任や他の教師から、ちくりと言われていたのだ。 「ごめん、先生……」 「大丈夫だよ」 ここで謝るということは、それでも尚、勝也は理由を話すつもりはないのだろう……。だから、せめて安心させてやりたかった。いつのまにか、もう勝也がわけを話さないほうが良いのだと思い始めている。 「守るつもりならば、守られた事にも気づかせないで、事を起こせ」 「……うん」 兄の意味不明の台詞に、勝也は微かに頷いた。 駐車場につくと、端に停めた銀色の車の横に、細い人影があった。 「アキちゃん……」 勝也の微かな呟きが聞こえた。 「それでは先生、ここで」 兄に頭を下げられて、陽は足を止めた。この先に行くのが、何故だかわからないけれど嫌だった。 母親と勝也が頭を下げるのに、『しっかりな』と声をかけて、陽も母親と兄に頭を下げた。 三人は車に歩み寄った。 勝也がその人物の前で頭を下げる。 兄と何かを話し、その人は下げたままの勝也の頭に手を乗せた。 そのまま勝也を抱き寄せた。 勝也より小さなその人は勝也の頭を抱える様に抱きしめ、何かを耳元で話しているようだった。 『アキラにも言えないか?』 その言葉が甦ってくる。 バタバタと陽の横を指導主任が走り過ぎて行った。 指導主任の車に勝也と母親が乗り込み、その後を兄とその人が乗った車がついていった。 夜は……、夜はテールランプの灯りを吸い込んでいく。 勝也がどこか遠くへ行ってしまうようで、陽は灯りの消えた闇を、見ている事しかできなかった。 |