ベッドにごろりと寝転んで、部屋の天井の模様を数えながら、勝也は細く長い息を吐いた。
「どうしてよりによって……」
 アキラという名前なんだと思う。この世に名前なんて、腐るほどあるのに……。
 模様を数えるのに飽きて、勝也は寝返りをうつ。目を閉じると、陽が書いた「AKIRA」という文字がまぶたの裏に浮かび上がってくる。
 しかも、嘘をついてしまった。知り合いにアキラという人はいないと。
 諦めたくない。この気持ちだけは諦めたくない。
 もう、自分の想いを殺したくない。
 けれど……。
 起きあがって、勝也は首を振った。
 いつしか、陽への想いがこんなにも強くなっている。
 昔、幼い頃、簡単に諦めた恋心。あのとき、自分は何も考えずに言った。アキちゃんを助けて、と。そう言える自分をまるで偉いように思っていた。
 今ならわかる。
 そんなこと、今の自分には口が裂けても言えない。
 陽を誰かに頼むとか、もう諦めるとか……。
 陽を好きになってはじめてわかる。秋良を好きだったのは事実だ。全身全霊をかけて守りたいと思った。その気持ちに偽りはない。けれど、どうしても手放したくないというほどの、エゴイズムはなかった。
 苦しい……。
 兄の執着を見せられて、醜いとさえ思っていた。自分ならもっと相手の自由を認めて、優しい恋愛が出来ると思っていた。その考えの愚かさに笑ってしまう。
 そんな恋は贋物だと。
 苦しいほど相手が欲しい。
 もう……、教師と生徒だということに、拘っていられないほどに、陽が欲しかった。
 
「勝也、電話よ」
 深い我欲の境地から勝也を呼び戻したのは、母親のそんな声とノックだった。
「あー、うん」
 ドアを開けると、母親が子機を持って立っている。
「京君からよ」
 母親はニッコリ笑って電話を渡すと、階段を下りていく。
「もしもし……」
『ちょっと深刻なんだけど……』
「ん? 何かあったのか?」
 無口な京は、周りから誤解されることも多く、容姿の綺麗さもあいまってか、中傷や妬みや……、その他のトラブルに巻き込まれることがある。今回もその件だと思ったのだが……。
『今日、廊下で話しただろ? カンニングした奴のこと』
「ああ……」
『そいつ、川添耕太郎っていうんだけど、二日間の停学になったらしいんだ。それを……、かなり恨んでる』
「だけど、どうしようもないだろ。カンニングしたのは事実なんだし。それに、むしろ二日程度じゃ軽いくらいじゃないのか?」
 勝也が言うと、京はそれはそうなんだけどと言って口篭もる。
「何か他に?」
『実は……、ネットでさ、気になる書き込み見つけて……』
「ネットで?」
『URLをメールで送ったから、一度見てくれよ』
「わかった。とりあえずこの電話いったん切るな。お前、Q繋いでる?」
『ああ、見たら呼びかけて』
 勝也はPCを立ち上げながら、電話を切った。メーラーを開いて、送受信をする。何件かのメールの中に、京からのメールもあった。
 その中のURLにカーソルを合わせ、問題のホームページを開いた。
 そこは、世の中への不満を綴るという、いささかマニアックなページだった。
「こんなもの……、見るなよ、京……」
 いくつもの掲示板から成り立っているらしく、その中から、勝也は『学校・教師への提言』という項目をクリックした。
 提言といえば聞こえはいいが、それはただの不平不満の捌け口だった。
 自分が特別な人間であるとくだらぬ勘違いをして、それを認めようとしない教師や学校への不満が並んでいた。
 その中の、最新から三つ目のログの中に、それらしい記事を見つける。
 投稿者は「K2」。多分、イニシャルからの連想だろうと思えた。だから京は、川添の名前をわざわざ勝也に告げたのだろう。
『僕はカンニングをしていない。なのに朝比奈という教師は、成績優秀な僕を陥れるために、カンニングをでっちあげた。自分のクラスの委員長に校内で一番を取らせ続けるために、僕を罠にはめたのだ。僕は朝比奈に粛清の鉄拳を下してやる。許さない。許さない。朝比奈を教壇に立たせなくしてやる。それとも男として立ち直れないほどの屈辱を与えてやろうか。僕の目からはひ弱にしか見えないが、世間では綺麗で優しいという間違った評判を得ているのも腹立たしい』
 そして、異常とも思えるほど、『許さない』という文字がそのスレッドの中に並んでいた。数えようと思ったが、横のラインに5列、縦のラインは10を数えた所で諦めた。
 そんな異常心理にはさらさら付き合うつもりはないが、勝也が燃えるほど腹を立てたのは、陽の実名が堂々と書かれていることだ。しかも……。
 陽のクラス委員とは、自分のことではないか。画面を睨み付けたが、そんなことで相手に伝わるはずもない。わかってはいるが、ギリギリ歯を軋ませながら、その文字列を見ていた。
 更に、その記事の返信機能を使って、いくつかの書きこみがあった。
『教師としての屈辱と、男としての屈辱と、両方の鉄拳を……』
『襲うなら、俺も呼んで下さい』
『そんな馬鹿教師、辞めさせろ!』
 などの過激な記事が並んでいる。
「これだけで気が済むだろうか……」
 呟いた時、京からQが入った。
≫≫≫ 見たか?
<<<<< お前、こんなページ見てるなよ。
 ついそんな返信をしてしまう。
≫≫≫ 中には真面目な投稿もあるんだよ。ちょっと知り合いに頼まれて、ログ消しとか手伝ったんだ。
 それってハッキング……。という危ない言葉は飲みこんだ。誰がログを読みこむのかわからないから。
<<<<< 気をつけるさ。あれ、消せるか?
≫≫≫ 時間かかる。前の時から、パスワード変わってて、かなり注意深くなってるんだ。
<<<<< じゃあいいや。このままで。
≫≫≫ いいのか?
<<<<< どうせすぐにログ流れてくだろ?
≫≫≫ まあな。
<<<<< こんな奴、たいしたこと出来ないって。
≫≫≫ わかった。何か出来る事があったら言えよ。
<<<<< Thank You.
 それだけを打ちこんで、勝也は接続を切った。
 京にはそう返事したものの、はたして、本当に書き込んだだけで諦めてくれるだろうかと、勝也も心配にならないわけではなかった。
 陽にそのまま告げて、注意するように言おうかと考えて、それは出来ないとすぐに否定した。
 とりあえず、勝也の言うことは信じてくれるだろう。書き込みを見せれば、何よりの証拠にはなる。
 けれど、それで犯人を特定することは出来ないのだ。
 しかも、陽ならば……、相手を説得に向かう可能性すらあった。真っ直ぐな正義感……。それは勝也にはとても好ましいのだが、相手によっては煩わしいものでしかない。
 陽が出て来ることを相手がどこかで期待していたならば……。罠に飛びこませるようなものだ。危険過ぎる。
 幸い、陽はパソコンは苦手だと言っていた。ならが、気づくこともないだろう……。それに期待するしかない。
 陽が気づく前に……。
 そして川添が何か行動を起こす前に……。
 勝也はこれから出来ることのすべてをシミュレーションしていった。
 
 
 気になるような動きもないまま、川添の二日間の停学は終了した。登校してきた川添は、周りの見る限りでは淡々と過ごしているらしい。
 その二日の間に、勝也は陽と少しだけ話をした。相手のカンニングの件については陽は口を閉ざしたままだったが、勝也が報復を心配するようなことを言ったときは、あっけらかんと笑っていた。
「どうして二日間の謹慎で済んだかわかるか? とても反省していたからだよ」
 頭を抱えたくなるほど、生徒のことを信頼しているらしい。反省して帰った奴が、あんな投稿をするだろうか。それで、川添がかなり根に持つタイプで、巧みに外面を装うということがわかった。
 あの投稿の書き込みの後、ログの流れを見ていたが、K2からの書き込みはもうなかった。一度の書き込みで気が済んだのか、それとも更に憎しみを募らせていったのか……。それを推し量るだけの材料がなかった。
 陽に張りついて、監視をすればいいのだろうが、あまり不審な態度を見せるわけにもいかなかった。すべては陽に気づかれぬうちに終わらせたいのだ。
 陽との約束で剣道部に顔を出し、現部員と顔合わせをしたが、途中入部予定の勝也にも、部員達は友好的な態度を示してくれた。部員の中には陽の弟、冬芽もいて、その冬芽から、兄弟二人とも、幼い頃から剣道を続けていたことを聞いた。
 まさかとは思うが、暴力的なことを仕掛けられても、それなら心配ないかもしれないと思いつつ、教師として暴力は絶対ふるえないのではないかという心配も同時にでてくる。
 とりあえず、1週間程度の仮入部の後、正式に入部を決めるということで、その日の練習にも参加した。高校生になってから道場に通っていなかった勝也は勘を取り戻すのに苦労したが、それでも久しぶりにいい汗を流した。
「かなりやってたんだな」
 陽が嬉しそうに話しかけてくる。即戦力になる部員が出来て、よほど嬉しいのだろう。
「まだまだですよ。久しぶりなので息が上がりました」
 道場での練習もかなりきつかったが、高校生の部活動ともなると、運動量は半端ではなかった。
「中学では陸上部に入っていたんだろう?」
 家庭調査票を見て、勝也の今までの経歴はわかっているのだろう。陸上部の顧問にも誘われたが、勝也はそれらを断っていた。学業に専念する。そう言えば、ここの教師はむしろ褒めてくれた。
「俺は……」
 続けなくなった理由を、うまく説明できなかった。ただ、走ることに疲れただけなのかもしれない。自分の記録との闘い、トラック上の相手との駆け引き、それらは精神的に勝也を助けてはくれなかった。
「剣道は、続けてくれるんだろ?」
 それはもちろん続けたい。静かに自分を見つめることが出来たのは剣道だった。自分の醜さや、弱さ、そして意外なほどのしぶとさを見つめることが出来た。
 だから、剣道は辞めるつもりはないが、それをどのようにして続けていけばいいのか、勝也にもまだわからなかった。
「また、相談にも乗るから」
 陽の言葉に胸がチリリと痛む。
 生徒として扱われるのは嫌だと、それでもまだ思ってしまう。
「お願いします」
 けれど、どんなにそれが嫌だと思っても、苦笑と共にそんなことを言えるようになってしまった。
 それでいいのかと自問してみるが、他に方法のないことも知っている。
 ふと視線が合い、勝也は微笑んで目を逸らした。
 心の中に『好き』という想いが浮かぶ。
 それは暖かく、また、悲しい色をしていた。
 
 
 剣道部の活動が終わり、職員室に鍵を返しに行くと、廊下の角の向こうに隠れた影に気がついた。
 制服……?
 勝也は鍵を返し、職員室を出た。また、ちらりと動く影に向かって歩いていった。バタバタと走り去る足音。
「三池、何か忘れ物か?」
 玄関とは反対の方向へ向かう勝也に、あとからやってきた陽が声をかけた。
「……ちょっと」
「教室ももう閉まってるぞ?」
「ええ、見てくるだけですから。じゃあ先生、失礼します。今日はありがとうございました」
 勝也が挨拶をすると、陽は鍵が必要ならまた取りに来いよと言って、職員室へ入っていった。
 それを見届けて勝也は、廊下を進む。途中で階段を上り、3階の廊下に出る。一年生なら、この階にいる可能性が高い。鍵を返す時に、1年5組、京のクラスの鍵がまだ返されていないことは確かめていた。
 上靴を脱ぎ、裸足になって、足音を殺しながら、5組の後ろのドアまでそっと忍び寄った。
 
「まったく、嫌になる。なかなか隙を見せやがらねー」
 くぐもった声が聞こえて来た。
「どうするよ? 呼び出すか?」
「それじゃばれちまう。せめて、相手が俺らだって証拠は残らないようにしたい」
「そりゃそうだ。こんなことばれたら、停学くらいじゃ済まないぞ」
「今はけっこう、学校の教師でも警察呼ぶからなぁ」
「どうでもいいけど。いつにするんだよ」
「朝比奈が管理当番の日にしようぜ。嫌でも見回りに来るんだろ? そこを襲えばいっぱつだぜ」
 やっぱり……。
 勝也は唇を噛む。相手は声の様子からだと三人。陽を襲う計画を立てていることは間違いがない。
 しくじったな……。
 何かの為にと思って用意してきた小型のテープレコーダーはカバンの中で、そのカバンは迂闊にも生徒玄関に残してきてしまった。鍵を返すくらいはすぐだからと思って……。
 だが、今乗り込まなければ、相手はもう行動に移す用意が出来ている。どうやら、手段は選ばないつもりらしいともわかる。
 陽の管理当番、放課後の見回りが割り当てられているのは……、明後日だ。それまでに、こんな都合のいい機会には恵まれないだろう。
「本当に襲っていいのか? まあ、俺はけっこう好みだったんだけどさ」
「俺は参加はいいよ。押さえといてやる」
 吐きたくなるような下卑た笑い声と、その内容に、勝也は耐え切れず、教室のドアを勢い良く開けてしまった。
 はっと緊張する三人の生徒たち。その真ん中に、川添耕太郎がいた。
「な、なんだよ」
 上擦った声に、勝也は教室に足を踏み入れる。
「全部聞いた。悪いけど、録音もした。けれど、今の計画を白紙撤回するなら黙っててやる。だから、やめとけよ。また停学になんて、なりたくないだろ? K2」
 勝也の冷静な声に、川添は真っ青になった。どうしてハンドルネームがばれているんだろうという表情だ。勝也は右手をポケットの中に入れて、また1歩近づいた。その中に、テープレコーダーが入っていると思わせるためだ。
「さあ、その二人にもう止めるって言えよ」
「朝比奈の犬のくせにっ!」
 勝也が近づくと、川添は悲鳴のような叫び声を上げた。ドアが開いているというのに、迂闊な奴だと思う。誰が通りかかるかもわからないというのに。
 自分のことをどんな風に言われても、勝也は腹が立たなかった。相手と同じ低レベルに下がってまで、感情を逆立てるのはエネルギーの無駄遣いだと思っているから。
「それで?」
 うっすらと酷薄に笑ってやる。
「あさ、朝比奈が、僕を陥れたんだっ!」
「まだそんなことを言ってるのか?」
 憎しみが、川添の中で、自分は悪くないのだということを真実だと思いこませているらしい。精神的な歪みが訪れているのだろうかと思う。
「お前だ、お前の為に、僕は嵌められたんだ。お前のせいだ」
「いい加減、諦めろよ。カンニングを認めた後でいくら吠えても無駄だ」
 視線を逸らさずに、相手を睨みつける。
「こ、こいつから血祭りに上げてやる。朝比奈の悲惨な顔を拝んでやる」
 いっぱしの悪党気取りの台詞に、勝也は吐き気がした。川添はひゃっひゃっと妙な笑い声をたて、「やれよ」と、両脇の二人に命令する。
「やめておけ。いくら貰ったのかわからないが、自分たちの素性がばれたら困るんだろ?」
 勝也が睨むと、あきらかに二人は動揺した。
「手を引くなら、さっきも言ったように、黙っててやる」
 二人は顔を見合わせて、一歩ずつ後退する。
「な、なんだよ、お前ら。こんな奴、どうせ朝比奈に泣きつかれたんだぜ。なんとかしてくれって。え、そうだろ! ベッドででも頼まれたのかよ。あのなよなよしい顔で!」
 ポケットの中で拳を握る。ふつふつと胸の中に炎がともる。どうしてここまで陽が馬鹿にされなければならないのだろう。
「図星かよ。そうだよな。あいつに泣いて頼まれたんだぁ。三池くぅん、僕、あの子に仕返しされるかもしれなぁい、ってさ」
 大きな口を開けて笑っている川添を、燃えるような目で睨みつけるが、自分の台詞に酔いしれている相手には通用しない。
「ねぇ、助けてぇ。僕のためなら何でもしてくれるでしょうっ、てかぁ?」
 ぎゃはははという不快な笑い声に、勝也はなんとか自分を抑えようとする。……けれど…………。握りしめた拳は、力をこめすぎたため、震えている。
「お礼にぃ、僕の身体、好きにしていいからぁ」
 ――― 限界だった。
 ――――― 勝也、絶対暴力だけはだめ。
       昔、喧嘩をして相手を殴った事がある。
       その時、泣きながらあの人は言った。
       二度と力で解決したりしない。
       そう約束した。
 ――― ごめん……、アキちゃん。
 心の中で詫びて、勝也は拳を振り上げた。
 自分の目の前で、笑っていた顔が、恐怖に歪んだその瞬間だけは、覚えていた。