勝也が兄の洋也と同じ高校を選んだのは、ただ一つの理由からだった。それを誰にも言うつもりはなかった。大きな壁に出会ったとき、迂回するか、乗り越えるかは、その人物の選択でしかない。
 勝也は乗り越える道を選んだ。いつまでも、兄の背中を見詰め、寄り添う人に、成長できない自分を見せるのが堪えられなかっただけだ。
 離れよう。このがんじがらめの自分の想いから……。
 離れたい。あの人への執着から。
 だから勝也は、自分を乗り越えるために、この高校へ入学した。
 そこである人物に出会った。
 まだ若い教師は兄の事を知らなかった。ただ『勝也』という人間を、ニュートラルに判断してくれた。一切の先入観も無しに。
 教師という人間に、実は勝也は何も期待してはいなかった。幼い頃、教師たちは、勝也を手のかかる子供と決めつけた。
 生意気、聡いだけに扱いづらい。勝也の何も見ようとはしないで、子供らしくないと言われ続けて来た。だから反対に、教師なんてみんな馬鹿だと思ってきた。偉そうに物を教えているが、勝也の納得する答えをくれた人など誰もいなかった。
 だから、いつしか子供であることを演じるようになり、内心では馬鹿にしていた。
 6年生になったとき、新任の教師がやってきた。大人しそうで気の弱い奴。第一印象はそうだった。
 出来のいい子のふりをして近付いてやった。信頼してくれたら、裏切って泣かせてやる。そんなふうに思っていた。
 それが……。
 出来のいい子のふりは、まったく通用しなかった。
『なんか、三池って無理してるよな。本当は何か企んでるだろ。悪戯したいなら、遠慮しなくてもいいぞ』
 曇りのない瞳で言われた。その瞳の真っ直ぐさに気圧された自分に腹を立て、悪戯をしてもいいと言うご希望に応えてやった。
 なのにそのお馬鹿な先生は三池を庇い、笑いながら手加減しろよなと、悪戯なら僕だけにしておけよと、勝也を見た。その瞳はあの日とまったく変わらなかった。
 少しでも嫌悪や、困惑が見て取れたなら、蔑んでやるのに。そう思っていた勝也は白旗を上げた。
『センセー、大好き』
 不貞腐れてそう言うと、彼はクスクス笑って答えてくれた。
『僕も三池、大好きだよ』
 素直になれなかった。困らせるような事ばかりをした。それでも笑って、けれど本当に悪い事をしてしまったときは、泣きそうになりながら、勝也を叱ってくれた。2度と叱られるようなことはしないと決めて、けれどどうしても素直になれなかった。
 大切な、大切な人になった。
 けれど……。
 教師というものを見直しかけたけれど、勝也はまたも教師によって、自分の生き方を見失うような事が重なった。
 あんな教師こそが珍しいのだと思い、けれど、以前の様に自分を押し通す事はしなくなった。完全に自分を隠す事を覚えた。
 真面目な生徒であれば、生意気な事を言っても、『良く出来る子』ですんでしまった。
 それでいいと思っていた勝也に聞こえてくる言葉は、『お兄さんにそっくりね』に変わっていった。
 屈辱的なその言葉に、勝也は己をのみこみ、ひたすら耐えた。ならば越えてやる。そうして自分を支えようとした。
 兄を乗り越え、あの人への執着からも解放されたい。
 だから、わざと兄と同じ道を選んだ。
 そして……、『三池勝也』という人間を真っ直ぐ見てくれる人に出会った。
『クラス委員をしてくれないか?』
 そう言って笑った担任教師の目に、あの日の彼が重なった。
 期待してはいけない、そう思いながら、イエスの返事をした。
 期待しているのではないと自分に言い聞かせながら、それでも陽と交わす会話は楽しかった。
 ただ、時折、どうしても苛立つことがあった。
 何が原因かわからずに、そんな風に自分の気持ちを持て余すことなど、最近はまったくなかったのにと、勝也は冷静になろうと努める。
 そして、あるときその原因に、不意に気づいてしまった。一年生全体で行われるオリエンテーションの登山道で。
『いいよ、三池。疲れてるだろ。もうほとんど終わったから。休んでいなさい』
 教師として自分に向けられたその言葉に、勝也はちくりと胸が痛み、つい、顔を背けてしまった。
 きっと陽は戸惑っているだろう。そう思いながらも、勝也は自分の内心の変化に戸惑っていた。
『センセー、大好き』
 同じ言葉を言えるほど子供ではない。けれど、同じではいけないのだろうか。きっと、陽だって同じように言うだろうと思う。
『僕も三池が大好きだよ』
 それでは嫌なのだと、気づいてしまった。
 陽の弟と同じ年の自分に焦りまで感じてしまう。結局、いくら信頼されてはいても、自分は生徒でしかないのだろう。そして、それを少し越えたとしても、『弟』のように思われるかもしれない。
「どうしてこう、同じタイプを好きになっちゃうかな」
 高原の岩場の上で汗を拭きながらの独り言のつもりだった。
「珍しいな。弱音か?」
 背後からの透き通るような声に声にふり返ると、中学からの親友、京が苦笑を押し隠せないという表情で立っていた。
「びっくりした」
「まあ、頑張れば?」
 少しも励ましになっていない言葉を残して、京はすたすたと行ってしまう。
「相変わらずだな」
 勝也は失笑して、その細い背中を見送る。
 京が詮索好きでないことを感謝する。
 秘密。誰にも言えない。いや、言いたくない。
 陽への想いを自覚したことは、いわば、勝也の1歩なのだ。あの人から離れるための。この、苦しい長い想いから抜け出すための。
 下り道、陽はこともなげに言った。『いい兄弟なんだな』と。
 それだけで嬉しかった。やはりこの人は、自分という人間を、全体的に見てくれるのだとわかった。優しい風の似合う人だと思った。
 けれど……。『好き』だと、言えないこともわかっていた。
 相手は……、教師なのだから……。
 
 
 学校生活は通常に戻り、試験期間に入った。そして、その問題は起こった。
「俺のクラスでカンニングがあってさ」
 京が試験最終日、職員室へ向かう勝也に耳打ちしてきた。
「ふうん……」
 勝也は馬鹿なことをする奴がいるなと思うだけで、特に感慨もなかったが、いつもクールな京には珍しく、勝也の腕を掴んで引きとめた。
「なんだよ」
「試験監督をしていたのが朝比奈先生でさ」
「うん、それが?」
「気をつけた方がいい。そいつ、切れやすいタイプだから、自分の悪い事を棚に上げて、何をするのかわからないところがあるから」
 勝也は不思議な思いで京を見た。どうして、そんなことを俺に言うんだと思って。
「お前さ、案外、単純なんだよ。気づくって」
 京は綺麗な顔をことさら強調する様ににっこり笑って、勝也の肩をぽんぽんと叩いた。
「何か動きがあったら、また教えるから」
 片手を上げて去っていく京に礼を言いながら、勝也は自分が取れるだけのフォローの手を思い浮かべる。
 協力を頼める面々の名前をリストアップしながら、勝也は職員室のドアを開けた。教室の鍵を返すためだったが、ドアのすぐ傍に陽がいた。
「三池、もう帰るのか?」
「何かあるのなら手伝いますよ」
 勝也は笑って答えた。
「テストの採点は頼めないしなぁ」
 陽も笑いながら、けれど実は手伝って欲しいと、手招きされた。二人になれるのが嬉しいなんて、そんな風に思える自分が、勝也はおかしくなる。
 些細なことに喜べる感覚が、まだ自分の中に残っていることが嬉しい。何もかも、自分の想いを殺すことしか考えていなかった日々から抜け出せるかも。
 あの日、「ふっきれる」と思った。それを口に出して、本当にそう思えた。教師と生徒であるということは、確かに重い現実として胸に残るけれど、いつか乗り越えて見せるとさえ、思えるようになっていた。
 小会議室へ連れていかれると、陽はプリントの束を取り出した。
「この前の身体検査の表じゃないですか」
 生徒一人一人の、身体検査表がクラスの人数分だけあるようだった。
「そうなんだ。実はさ、それの平均と、一人一人の痩肥値を出さなければならいんだけど……」
 言いにくそうに言って、陽は勝也を見た。
「いいですよ。でも、これって担任の仕事なんですか?」
「うちでは、代々そういうことになっているらしい。別にそれはいいんだが、今剣道部が少し忙しくてな。出来れば手伝って欲しいんだ」
「先生、剣道部の顧問なんですか?」
 勝也はパラパラとプリントを捲りながら尋ねた。
「ああ、部員が足りなくて、対外試合が出来ないような弱小部だけどな」
 陽は勝也の隣に座り、自分は自分で何やらプリントを取り出した。
「入部しましょうか? 経験ならありますよ」
「えっ、本当か!」
 陽が叫んだ拍子に、プリントが崩れて、数枚が床に落ちた。
「ええ、人数合わせにしかならないですけれど。昇段試験も受けていませんし。必要なら、師範に頼んで受けて来ますけど」
 少しでも役に立てるなら、それで嬉しいと思えた。自分の精神力を鍛えるためだけに始めた剣道だったが、それが意外なところで役に立つとは思ってもいなかった。師範も、昇段試験を受けるというと、喜んでくれるだろうと思う。
「いや、それは別に特に決まりはないんだけど。そうか、じゃあ、試合に出られるな」
 嬉しそうに陽は言って、プリントを拾う。
「あ、これが計算式な。少数第2位を四捨五入なんだ。ボールペンは持ってるか?」
 勝也はカバンから筆箱を出したが、ボールペンは青のインクのものしか入っていなかった。
「青じゃ駄目なんですよね」
「ああ、じゃあ、これ使うといいよ」
 陽はそう言いながら、自分の胸ポケットにつけていたボールペンを取り、拾ったばかりのプリントの裏に、「AKIRA」と試し書きをした。
「大丈夫だ、出るな。……三池?」
 勝也がじっとその文字を見詰めるものだから、陽は不思議そうに勝也を見た。
「どうした?」
「先生の名前、ヨウじゃないんですか?」
「あ? ああ、みんなそう思っているみたいだなぁ。冬芽もヨウって呼ぶし」
「上級生達は、ヨウ先生って……」
 勝也は驚いた様に目の前の人物を見た。
「ずっと小さい頃からヨウちゃんとか呼ばれるからな。どうしてもそう呼ばれるのが普通になっちゃってて。冗談でヨウって読むんだと教えたら、そのまま訂正も出来なくて」
 陽はあっけらかんと笑う。どうして勝也がそんなことに拘るのかがわからなくて。
「本当は、アキラと読むんですか?」
 思いつきもしなかった。そう読める可能性について、なんて。だいたい、弟が冬芽なら、陽だまりのような名前が似合うと、勝手にヨウだと思いこんでいた。
「? ……ああ、アキラって読むんだ。別に、ヨウって呼んで全然不都合じゃないぞ?」
 勝也は唇をかんで、プリントに綴られたアルファベットを眺めた。そんな偶然、あってもいいのだろうか。
「知り合いにアキラっていう人がいるのか?」
 勝也は咄嗟に首を横に振ってしまった。そのことを後々、どれほど後悔するかもわからずに……。
「このプリント、持って帰っては駄目ですよね」
「ああ……、いいぞ。僕がやっておくから。試験明けで疲れてるのに、悪かったな」
 勝也の変化を体調不良と思ってか、陽は優しい声をかけてくる。
「いえ、パソコンに入力すれば、一度で計算してくれるから。平均値もグラフもすぐに出来ますよ」
「パソコンかぁ……。ちょっと苦手なんだよなぁ。学校のじゃ出来ないか?」
「ええ……、プログラムを弄らないといけないんで……。じゃあ、地道にやりましょうか」
 勝也は無理にも笑って、プリントの束を広げた。
「悪いな。でも本当に体調が悪くなったら言うんだぞ」
 その笑顔にオーバーラップする笑顔がある。勝也は溜め息を飲みこむのに必死だった。