「ヨウちゃーん」
 全く、と思う。これで本当に勝也と同じ年なのだろうかと疑ってしまう。
 陽の弟、冬芽(とうが)はスポーツバッグに着替えなどの荷物を詰めこみながら、鼻歌混じりに、兄を呼ぶ。
「何だよ」
 荷造りを始めてからひっきりなしなので、いい加減うんざりしていた陽は、つい、ぶっきらぼうな返事をしてしまった。
 頬を膨らませて、冬芽が振り向く。
 冬芽は帰宅してからずっと、食事と入浴以外、その荷造りをしている。週明けに一年生の宿泊登山がある。親交を兼ねて、信州の山に登る。登山といっても、特に難攻な山ではなく、ハイキングコースにもなっているような所だ。
 その荷造りに取りかかっていた冬芽は、何か疑問を見つけるたびに、陽を呼ぶ。それもごくつまらない事で。
「ヨウちゃんは荷造りしなくていいのかよ」
 どうやら、冬芽の荷造りは終わったらしいと、陽は苦笑を読んでいた雑誌に隠した。それで陽の荷造りに感心が沸いたのだ。
「僕のはもう済んでます」
 冬芽に手伝われては、始まるものも始まらないと、陽は丁重にお断りする。
「なーんだ」
 案の定、冬芽はつまらなさそうに、自分のバッグをぽんぽんと叩いた。
「それより、藤岡先生に迷惑をかけるなよ」
「わかってるよ」
「まあ、春(はる)君がいるから大丈夫だろうけどな」
 陽は、冬芽の幼馴染を思い浮かべた。冬芽よりはずっと大人で、いつも冬芽のストッパーを務めてくれている。偶然にも、高校に入っても冬芽と春が同じクラスになれたことで、実は陽が一番ほっとしているかもしれない。
「なんだよ、それ。俺のほうが春の面倒見てやってるのに」
「はいはい」
「本当だよ。俺がいなけりゃ、あいつなんて、ボケーっとしているだけなんだから」
 少しの間もじっとしていない冬芽にかかれば、誰だって「ボケーっとしている」ことになってしまう。陽も冬芽に、何度も同じ評価をされた事があるのだから。
「少しは大人しくしててくれよ。僕も一緒にいるんだから、羽目は外せないだろうけどな」
「ちぇっ。結局陽ちゃんは、俺のこと信用してないんだ」
「してるさ。冬芽は、暴走はするけれど、人に迷惑かけるようなことはしない」
「何だよ。子供みたいにさ」
 口を尖らせて、バッグのファスナーを弄る姿は、まるで小学生だが、それは口にしない事にした。
 近くでレストランを経営する両親は不在がちで、陽は昔からずっと、冬芽のそんな姿を見てきた。冬芽にとって、無条件に甘えられるのは陽だけで、その甘えを受け止めてやりたいと思ってきた。
 そしてふと思う。
『たまに甘えにいかないと……』
 勝也も兄に甘えたりするのだろうか。
 洋也という人は、陽にとって、とても遠い人だった。陽よりも年が上で、今は家を出て独立したのか、勝也の家庭調査票にも記入されていない。
 噂ばかりが耳に入ってきて、それを勝也の立場で聞いてしまう陽にとっては、とても冷徹な人のように思えた。
 そう、入学式ではじめて見た、勝也のように……。
 そんな兄が甘えさせてくれるようには、とても思えなかったのだ。
「どしたの?」
 突然目の前に冬芽の顔があった。
 物思いに耽っていたらしく、冬芽に気づかなかったのだろう。
「なんでもないよ。早く寝なさい」
「教師みたい」
「教師だ」
「違うもん、お兄ちゃんだもん」
 拗ねたように言って、それでも冬芽はリビングを出て行った。
『お兄ちゃんだもん』
 そう……、いくら冷たいからといっても、血の繋がりは消せない。きっと、誇張した噂を聞かせられ続けたせいで、勝也に同情的になっていたかもしれないと、陽は反省した。
 兄弟なのだ。甘えに行くというのは、勝也にとって自然な事なのだろう。お小遣いをねだりに行ったのかもしれないし……。
 陽は自分の取り越し苦労を笑った。
 
 
 信州の高原は、五月といっても、頬に当たる風はまだ冷たかった。
「先生、大丈夫ー?」
 若いのだからと、先頭を頼まれた陽は、幾人かのグループに気遣われながら、ようやく目的地にゴールした。これから次々にゴールしてくる生徒たちの点呼を取らなくてはならないが、まだ生徒たちは数名を数える程度で、次のグループも見えはしない。
 少し休ませてもらおうと、近くの適当な岩に腰を下ろした。
「大丈夫」
 水筒のお茶を飲むと、乾いた喉に染み入るほど美味しい。
 そうやって休憩していると、ぞろぞろとゴールに入る生徒達が増えてきた。
 陽は汗を拭いて、点呼のためにクラス毎に分け、出席番号で確認を取った。あとは登ってくる人を待ちうければいいと思ったときにはもう、約半分がゴールしていた。
 ゴールした中には、冬芽と春の姿も見えた。
 だが、勝也の姿が見えなかった。
 ふと寂しさを感じる。どうして勝也を探してしまったのかを考えて、苦笑する。勝也がいてくれれば、点呼くらいのこと、こんなに大変ではないのにと思ったのだ。
 それで勝也がいない事に気がついたといっても良かった。
 いつの間にか、生徒に頼りきっていた自分を、陽は叱りつける。大人びた外見や、そのしっかりした内面に、つい依存してしまうが、相手はまだ十五なのだと言い聞かせる。
 周りでは、開放感からか、どの生徒も教室では見せない明るい笑顔で、ふざけあったりしている。
 そう思っているうちに、登山道に勝也の姿が見えた。長身のその姿は、遠目にもよくわかる。勝也は誰かの荷物を持ち、脇を支えるように登ってきていた。
「あれ、高野先生じゃない?」
 脇にいた生徒が、陽と同様、勝也たちの姿を見つけたらしい。言われてみれば、勝也が支えているのは学年主任の高野教諭だった。
「先生、着きましたよ」
「おおー、ありがとう、三池。いやー、助かったよ」
 高野は大仰に息をついて、自分を支えてきた勝也の肩を叩いた。
「どうかされたんですか? 高野先生」
 陽は心配そうに高野に訊いた。
「いや、何。どうも膝がいうことを利かなくなってね。途中から彼に支えてもらったんだよ」
「では、お怪我とかではないんですね?」
 いや、びっくりさせたねと言って、高野は豪快に笑った。気恥ずかしさを笑いに誤魔化したような感じだ。
「三池、ゴール、と」
 陽は自分のクラス名簿の中から、勝也の欄に印をつける。
「朝比奈先生、点呼、代わりますよ」
 勝也は荷物を足元に置くと、手を差し出した。
 その手が嬉しくて、陽は微笑む。
「いいよ、三池。疲れてるだろ。もうほとんど終わったから。休んでいなさい」
 陽の目線より上にある勝也のそれに微笑みかける。勝也が自分の生徒であることが誇りだった。なのに……。
 勝也は陽の言葉を聞いた途端、すっと表情を消した。そして返事もせず、軽い一瞥を残してその場を退いた。
「三池?」
 その態度の意味がわからず、陽は見慣れた勝也の背中に呼びかけた。
 いつもならそれだけで振り返る生徒だった。
 だが、勝也は振り返らなかった。やがて、生徒たちの塊の中に、勝也の背中が消えていく。
「先生、俺、ゴールーぅ」
 荒い息の生徒に背中から伸し掛かられ、陽は慌てて態勢を立て直しながら、それを振りほどく。
 そこから先はまた、点呼やら何やらで、陽は勝也の視線の意味を考える余裕はなくなっていった。
 
「三池」
 目の前に現われたタオルに、陽は驚いて、それを差し出した人物を見た。
「疲れたでしょう。上でほとんど休んでなかったから」
 下り道、陽は登りとは反対に、最後尾についていた。息が上がってきたところへ、白いタオルが差し出された。
「悪いな」
 微笑んでそのタオルを借りる。自分のタオルは、登りの途中で生徒に貸してしまい、ハンカチだけでは頼りなかったのだ。
「荷物を持ちましょうか?」
「いいよ。高野先生ほど、体力が無いわけじゃない」
 くすと笑って、勝也は陽に歩調を合わせてきた。しばらく無言で歩いていると、勝也はぽつりと呟くように話しかけてきた。
「朝比奈先生は、僕に兄の事を訊いたりしないんですね」
 それがとても不思議そうだったので、陽は勝也の態度の変化を思い出してみる。
「……、高野先生は、何か仰ったのか?」
「もう、ずっと、兄の事ばかりでしたよ。別に訊かれるのは嫌じゃないから、全部適当に答えましたが」
「嫌じゃ……、ないのか?」
 勝也は珍しく声をたてて笑った。とても小さな、聞き漏らしてしまいそうなほど、小さな笑い声だったけれど。
「だから先生は訊かなかったんですか?」
「そういう訳じゃないけれど」
「嫌じゃないですよ。ただ、何もかもを比べられるのは、正直、しんどいですけどね」
 陽はそういう勝也の表情を盗み見る。確かに勝也は、それほど苦しそうな素振りを見せてはいない。
「ずっと比べられてきたのか?」
「いいえ。この高校に入ってからですね。まあ、覚悟はしていたんですけど」
「どうして……」
 それを訊くべきかどうか、陽は迷った。教師として、口に出してはいけない言葉なのではないかと思ったのだ。だが、今、どうしても訊いてみたくなった。教師という立場を離れてでも。
「どうして、この高校にした? 同じレベルなら、他にも選択はあっただろ?」
「近づきたかったのかもしれません。……兄に。そして、離れたかったんです。兄と僕では、対極の位置にいると、確かめたかったのかもしれません」
「いいお兄さんなんだな」
 それが、陽の心の中に浮かんだ、たった一つの言葉だった。本当なら、勝也の心の負担をなくすような、何かアドバイスを言えばいいのだろうが、それは出来なかった。
「ライバルだったんです」
「言い方を訂正するよ。いい兄弟だな。三池とお兄さんは」
 ふっと笑って、勝也は陽を見た。それは陽が見る、勝也のはじめての本当の笑顔だった。
「ふっきれる……、かな?」
 何が? と陽が訊けば、勝也は首を横に振って答えなかった。
 
 
 夜はクラス毎のアトラクションの後、就寝時間までは自由の時間となった。陽は見回りも兼ねて、ホテルのロビーに下りた。土産物を選んでいる生徒達の姿も見える。
 その中に、勝也の姿があった。彼は買い物をしているではなくて、公衆電話を使用していた。陽の位置からは勝也の表情までは見えない。
 どこへかけているのだろうと思いながら、その背後を通り過ぎようとした。
「そんなこと言ってると、本当に買わないよ?」
 楽しそうな声が聞こえた。今まで聞いたこともないような、優しく柔らかい声。
「もう、知らないからね」
 甘えたような言い方に、陽のほうが驚いてしまう。聴いてはいけないのだと思いながら、足が動かない。
「うん。わかってるよ、もう。……じゃあね」
 クスクスと忍び笑いを残して、勝也は電話を切った。
 しばらくの間、勝也は動かなかった。いつもはぴんと伸ばした背筋が、今は丸くなり、いつにも増して孤独を感じさせる。
 やがてふうと大きな息を吐き、勝也はゆっくりと振り返った。
 楽しそうな笑顔。けれど、どこか寂しげな瞳。何故、そんな事までわかってしまうのだろうと思いながら、陽は勝也から視線を外せずにいた。
 勝也は瞬間驚きを隠せなかったものの、すぐにいつもの無表情に戻った。唇を歪めて笑うと、無言のまま陽の脇をすり抜けた。
 昼間勝也が垣間見せた、あの穏やかな表情は、どこにもない。
「わからない」
 陽は誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「わからないよ、三池。君が……、そして、僕が」
 陽は勝也の背中を見たくなくて、足元に視線を落としたまま、遠ざかる足音を聞いていた。