恋する翼
新入生の代表が壇上に上がると、教師たちの席から感嘆の溜息が上がる。 『なるほど、そっくりですな』 『これは……、この学年は楽しみだ』 そんな微かなざわめきなどものともせず、新入生の総代、三池勝也は背筋を伸ばし、朗々とした声で挨拶文を読み上げた。 凛とした表情を崩さず、三池は階段を降りる。教師たちはその横顔を見詰めることになる。その教師の中にいた数学教師、朝比奈陽も、見るとはなしにその横顔を見ていた。 新入生の中でも、恐らく一番の長身だろう。凛とした眉に、涼しげな瞳はつりがちで、意志の強さをうかがわせる。薄い唇は軽く閉じられ、彼が緊張しているのではない事がわかる。柔らかく、軽くウェーブのかかった髪は耳元で揃えられ、清潔感を漂わせる。 人を惹きつけてやまない印象を持っている。だが、触れると、それだけで凍りつくような冷たさも感じさせる。 感情のない、冷たい、横顔だった。自分が受け持つことになるだろう、生徒の、その冷たさに、陽は前途の多難さを同時に感じる。 三池勝也という生徒は、いわば受験のときから教師たちの間で話題に上っていた人物だった。都立では一番といわれるこのT高校の、九年前の卒業生、開校以来の秀才とうたわれた兄の再来といわれて……。 そしてその期待を裏切らない入学試験の成績を残して、勝也は入学してきた。 教師たちの熱い眼差しを受け、けれども本人はまったく気後れすることもない。それがまた、勝也の兄を連想させるともっぱらの評判になった。 そんな勝也を受け持つことになり、陽は反対に、多少のうんざりさを感じていた。 あの冷たさを、どのように受け止め、どう扱えばいいのだろうかと。 「わかりました」 勝也の返事は即断といっても良かった。 クラス委員を引き受けてくれと頼んだ陽に対し、勝也は簡単に引き受けた。はじめて間近に聞く声は抑揚もなく平坦で、陽にしてみれば、たかが十五歳の少年が、どうしてこうも冷ややかでいられるものだろうかと不思議でならなかった。 『ヨウちゃーん』 兄をチャン付けで呼び、朝からどたばたと家中を駆け回る弟の冬芽(とうが)と、勝也が同じ年とはとても信じられない。二人のあまりの違いに、弟の将来を思い、頭を抱えたほどだったりした。 「本当に引き受けてもいいのか?」 入学式から三日目、始業式後のホームルームで、陽は勝也をクラス委員に任命した。あまりにも簡単に引きうけてくれたので、陽は放課後、勝也に念を押した。 教員の噂はとどまるところを知らず、勝也の兄である三池洋也という人物のことをあれこれと陽に教えてくれる。学校の行事に興味を示さず、役のつくものも一切引き受けなかったという。 それがまた教員たちの間では、大物という評判につながっているのだが。 「構いませんよ。委員なら小学生のときからずっとやっていますから」 勝也は口元だけで薄く笑う。お義理で浮かべている笑顔だと陽にもわかった。 「じゃあ、頼むな」 はいとだけ、短い返事を残して、担任教師との二人きりの教室から出ていく。それが、勝也との最初の会話だった。 大人びた容姿は、入学式のときに感じたように、今も冷たさを感じさせる。 クラスに溶け込めるのだろうか、浮いた存在になるのではないかと、陽は心配になる。同じ年の生徒たちとは、とても異質な感じがする。丁寧な物腰は、少しも子供らしさを感じさせない。 教室を出て行く勝也の背中を見送りながら、陽は救われないような孤独を感じたのだった。 「朝比奈冬芽は、先生の従兄弟か何かですか?」 4月も末になり、新入生たちも学校に馴染んできた頃、放課後の職員室で、勝也が陽に尋ねてきた。 特に隠す必要もなかったのだが、あまり公言することでもないだろうという判断で、陽も冬芽も公言はしていなかったのだが、それとなく気づいてくる者もいた。 「弟なんだよ」 担任として、何かと勝也に助けてもらっている陽としては、隠すことで勝也の信頼を失うようなことはしたくなくて、正直に打ち明けた。 勝也もそれを聞いても、あまり意外だとは思わなかったようで、例のごとく、あっさりと『そうですか』と受け流しただけだった。 当初、勝也をクラス委員に任命したことで、教員の中には、勝也の成績に影響するのではないかと危惧するものもいたが、勝也は本当にごく自然にクラス委員としての役割をこなしてくれていた。 まだ新米で、担任を受け持つのははじめての陽を、それとなく助けてくれることも多く、その冷たい表情の中にともる優しい灯を見つけるのが、最近の陽の楽しみでもあった。 それでもまだ、勝也の笑顔というものを見たことはないのだが。 クラスに溶け込めるのだろうかと心配していた陽だったが、勝也はそれなりに友人をもち、上手くやっているようだった。 クラス委員としても勝也は申し分がない。大人びた勝也の態度は、自然クラスメイトの中心となり、みんなを引っ張る形でまとめている。 さすがに、委員慣れしているといってもいいだろうか。そつのない仕事をこなしてくれる。 「本当に三池と同じ年なのかと、思ってしまうけれどな」 陽がぼやき気味に言うと、勝也は珍しくくすっと笑い、「可愛いじゃないですか」と言った。 同じ年なのに、冬芽を可愛いと臆面もなく言えることが、陽にとっては勝也が大人であることのように思えたが、勝也は一瞬眩しそうに目を細めただけで、すぐにまた表情の見えない、冷たさを身に纏った。 勝也に可愛いと評された冬芽は、反対に勝也のことを可哀想だと言った。曰く、「あんなにお兄ちゃんと比べられたら、誰だって不貞腐れるって」と。 勝也の兄の事は、既に生徒たちの間でも、評判になっているらしかった。それほど勝也の兄は有名で、T高校では伝説に近いものになっているらしい。 不貞腐れるというのともまた違うとも思うのだが、幸い、兄弟であまり比べられることもなく育った冬芽としては、それは耐えられないものだと思っている。 たまに言われる『お兄ちゃんのように落ち着きなさい』という台詞だけでも、冬芽にとっては負担になっているらしい。陽としては、『弟君は素直で可愛い』という台詞こそ、耳に痛かったほうなのだが。 「あんなに真っ直ぐ成長できるなんて、羨ましいですよ、俺は」 少しずつ、勝也が見せてくれるようになった内面に近づく度、陽はほんの少し嬉しさを感じる。口数も少なく、表情も乏しい三池勝也という少年が、陽は何故か気がかりだった。 何一つ問題のない生徒。だが、その完璧さの背中に見える孤独に、陽は勝也の脆さが見えてしまうような気がするのだ。 「あれも一つの武器だよな」 陽にしてみれば、甘え放題の冬芽に手を焼いての一言だった。その言葉に勝也が反応するなどとは思いもしなかった。 「そうすることでしか、自分でいられない時もあるんじゃないですか?」 いつにも増して冷たい声に、陽が驚いて勝也を見た。遠くを見詰める瞳。その瞳の色は暗く、深い悲しみに沈んでいた。 「三池?」 そんな勝也を恐れるように呼びかける。その声に振り向いた勝也は、既にいつものように落ち着いた雰囲気に戻っていた。 「そろそろ失礼します。兄と約束がありますので」 そう言って軽く頭を下げる。 勝也の口から出た『兄』という言葉。それは陽にとって、はじめて耳にするものだった。 特にタブーにしていたわけではないが、勝也の前ではその名詞を出さずにいた陽だった。何故か口に出してはいけないような気持ちになっていたのだ。 「どこか出かけるのか?」 だからつい聞いてしまった。興味本位の質問になってしまったかもしれないと、瞬間的に後悔したが、勝也は気にした様子でもなかった。 「たまに甘えに行かないと、弟だということを忘れられそうなんですよ」 ふと、今までに見たこともないような笑顔を向けられる。勝也は笑ったわけではなかった。けれど、懐かしいものを見るような、およそ勝也らしくない儚い笑顔。 だが、それはすぐに消えて、冷たい無表情に塗りかえられる。 そして向けられた背中は、いつかも見せられた、見ている者が辛くなるような、孤独色をしていた。 甘えに行くというのも、勝也らしからぬ言い方ではあった。根拠はなかったが、仲が悪い兄弟なのではないかと、思い込んでもいた。 あれほどに比べられれば、反発もするだろうと。 陽は何の問題もないはずの完璧な生徒、三池勝也の普段は見せない内面を垣間見るたび、彼が気になって仕方ない自分を感じていた。 |