好きという気持ちで強くなる








 土曜、日曜と北斗は算数の問題をどう教えればいいのかとずいぶん悩んでいた。
 もう幹は聞いてくれないかもしれないけれど、あのまま適当な答えを出して幹が理解しないで次の勉強に進むことが怖かった。
 けれどどのように説明すればいいのかわからぬまま、月曜日を迎えた。もちろん幹からの電話はなかったし、自分からもかけることはできなかった。
「おはよっ。どうだった? デ・エ・ト」
 教室に入ると隣から冬樹がウインクしてくる。
「お、おはよう。あ、あのさ」
「うんうん、聞いてあげよう」
 身を乗り出す冬樹に、北斗は俯き加減にデートじゃないんだよと小さな声で告げる。
「またまたー。話したからって、ミキチャンが逃げるわけじゃなしー」
 冬樹は「幹」という名前を勝手に「ミキ」と読んで、北斗の彼女だと思い込んでいる。
「彼女じゃなくってね、えっと、……男の子なんだよ。モトキ君っていう」
 北斗が本当のことを説明するが、冬樹は本当かなぁといいながら、あまり信じた様子ではない。
「それにね、ちょっと喧嘩しちゃって……」
 本当なら話すようなことではないが、土曜日曜と喧嘩のことを引きずっていた北斗は、つい悩みを漏らしてしまった。
「あららー。早く仲直りしたほうがいいよ。女の子にはこっちから謝ってあげないと。何ならメールすれば? その後で会って仲直りするほうがスムーズに行くかもよ」
「だから、……女の子じゃなくて……」
 北斗が尚も訂正しようとしたところへ授業の始まりのチャイムが鳴る。
 がやがやとみんなが席に着き始め、訂正の機会を失う。
「ま、いいか。清水君が幹君に会うことはないんだし」
 北斗は鞄の中から一時間目の教科書とノートを取り出した。


 昼休みに北斗は問題をレポート用紙に清書して、数学科の教員室を訪ねた。
 北斗の習っている数学Tの教師は、三十台半ばで、生徒の質問に喜んで答えてくれる熱心な教師である。
 北斗も以前に一度だけ質問をしたことがあり、人見知りをする北斗も親しみやすく、話し方も穏やかで親しみやすかったので、授業のことではないが、聞いてみようかと思ったのだ。
「田辺先生、あのぅ」
 北斗がドアを開けると、奥の机に数学教師の田辺が座っていた。おずおずと声をかけると田辺は振り向き、北斗を見つけて「質問か?」と手招きしてくれた。
「授業のことではないんですけれど、いいですか?」
「あぁ、別にかまわないぞ」
 あっけらかんとした調子で、田辺は隣の席の椅子を引いて北斗に座るように促した。
「これ……なんですけど」
 北斗はそっとレポート用紙を差し出す。
 田辺はそこに書かれた問題を真剣な様子で読んでいる。
「これ……うちの中等部の入試問題だな。今年の」
「えっ、そうなんですか?」
 田辺の指摘に北斗の方が驚いてしまう。
「なんだ、知らなかったのか? この問題、どうしたんだ? まさか解けないわけじゃないよな?」
 鵬明の高校に来るくらいなら、これくらいは当然という田辺の疑問である。
「ちょっと、知り合いの子に教えてって頼まれたんですけど、エックスを使っちゃ駄目だと言われて、説明できなくて……」
「ははぁ、なるほどなぁ」
 田辺はわらって、机の上のペンたてからボールペンを手に取る。
「松倉はこの問題、エックスを使うと解けるんだよな?」
「はい。10分になりました。でも、エックスを使わずにはどのように説明すればいいのかわからなくて」
「本当はさ、松倉もわかってるんだよ。でないと、文字式にすらできないんだから」
「そう……なんですか?」
「数学なんてさ、本当はものすごく単純なんだよ。ただ数字が羅列されて、そこに色んな記号が入ってくると、みんなは先入観で難しいと思い込む。だから余計に難しくなる」
 そうは言われても、高校の数学も北斗にとっては、難しい数字と記号が入り交じり、必死で追いかけている最中なのだ。単純と言われて、そうですねとはとても頷けない。
「今の松倉はな、近道を教えられて、それまで覚えていた正式な道順を忘れているだけなんだ。でも、正式な道順を知っているからこそ、近道を通っても目的地に着けるっていうことだ」
 田辺の比喩に北斗はそれならなんとなくわかる例えだなと思えた。
 田辺はレポート用紙の余白に丁寧に図式を書き、そこへ数式を書き込む。
「もう松倉はわかっているから、これの説明の仕方を教えてやるよ」
 笑いながら田辺は、わかりやすい教え方を指導してくれたのだった。


 月曜日は7時間目まで授業があり、放課後にもう一度田辺のところへ行き、図書室で幹への手紙を書いていたので、北斗が幹の家の前まで来たときはもう午後7時に近かった。
 幹の家の方からは美味しそうな匂いが漂ってきていて、それでなくてもチャイムを鳴らす気になれない北斗は、ますます気後れしてしまう。
「ちゃんと勉強してね」
 北斗は誰に言うのでもなくそっと告げて、『本城幹様』と表書きした封筒をポストに入れて、今来たばかりの道を戻っていった。