好きという気持ちで強くなる








 授業とホームルームが終わって、北斗は帰る用意を急いだ。
 全部をかばんに詰め込んで、腕時計を見ると、頑張って走れば、約束の時間までには公園に行けそうである。
「松倉、頑張ってね」
 カバンを掴んで教室を出ようとした北斗の背中に声がかかる。
「あの、……えっと…」
 北斗は戸惑いながらも、デートと勘違いしているだろう冬樹に誤解を解くべきがどうか少しの間迷う。
 バイバイと笑顔で手を振る冬樹に、北斗は迷いながらも、別に説明するほどでもないだろうと思い、同じように手を振り返して、下足室へ走る。
 駅までの道を小走りで急ぎ、電車に揺られている間も何度も時計を見て、電車を降りてからは公園までダッシュした。
 時刻は1時5分。公園の入り口には、植木のブロックに座っている幹の小さな影が見えた。
「ご、ごめんね。遅れて」
「いいのに、そんなに走らなくても。余計腹減っちゃうだろ?」
「だって、僕のせいで幹君までお昼まだなんだろ?」
 走ってきたせいでまだ荒い息の中から北斗が申し訳なさそうに謝ると、幹は「何でだよ」と笑う。
「俺の方から北斗に勉強教えてって頼んだのに、どうして北斗が申し訳ないなんて思うのかなぁ」
 幹は笑って「こっち」と自分の家の方向を指差し、歩き始める。
 北斗は慌てて幹の後ろについていった。

「いらっしゃい。今日は幹がお世話になります」
 幹の家の玄関を入ると、幹の母親がニコニコと北斗を出迎えてくれた。
「お邪魔します」
「本当に鵬明の生徒さんだわぁ。幹が鵬明の先輩に教えてもらうって聞いたときは本当かしらと思ったんだけど」
 幹の部屋に出来立てのオムライスを運びながら、ほんわりと微笑まれると、あまりの歓待ぶりに少々居心地が悪くなってしまう。
「幹も鵬明に受かるといいんですけれど、どうもお勉強に身が入らなくて」
 特に教育熱心な様子でもなさそうなのんびり感のある母親だが、それなりに塾にも通わせ、防犯ベルを持たせている。まだ6年生になったばかりだとすると、これから夏が本腰を入れる頃なのかもしれない。
「もういいから。俺、5時までに宿題仕上げないと、大変なんだよ」
 幹が優しい母親を邪険に追い出す。
「優しそうなお母さんだね」
 北斗がスプーンでオムライスの卵の包みをほっくりと割ると、中から甘い香りが漂う。
「誰かさんと同じでものすごい天然だよ、あれは」
「誰かさんって誰?」
 オムライスを口に運びながら尋ねたが、ひとくち口に含んだ北斗はうっと詰まった。
「あ、まずかった?」
 気まずそうに幹が北斗を覗き込む。
「お弁当買ってくるって言ったんだけどさー。妙に張り切られちゃって。普段はそれでも食べれるものを作るんだけど、張り切ると途端に料理が下手になるんだよね」
 言いながら幹もパクリと食べて、うっと言いながら、何とか飲み込んだ。
「か、辛い」
 張り切り過ぎた気持ちは、塩・胡椒の振りすぎを招いたらしかった。
「なんか買ってくるよ、俺」
「い、いいよ。食べられるから」
「だけどさー」
「ほ、ほら、ケチャップをたくさんつければ、甘くなって、お、おいしいよ?」
 北斗は引きつって笑いながらも、ケチャップをたくさんつける。
「無理しなくていいよ」
「無理じゃないよ。僕もさ、休みの日には料理作るんだけど、いつも失敗するから。……えっと、このオムライスは僕にしたら、まだ成功してるほう」
 北斗のフォローになっているのかなっていないのかわからない援護に、幹はぷぷっと笑う。
「幹君って、笑い上戸だね」
 北斗の感想に、幹はお腹を抱えて笑い出した。  あまりに笑う幹を見て、北斗は肩を竦める。ひたすらケチャップをかけて、幹が笑っている間にオムライスを平らげた。

「どの問題?」
 笑いすぎて遅れた幹がオムライスを食べている間に、北斗は幹がわからないという問題を広げてみた。

  『線路にそった道を時速18Kmで自転車に
   乗って走っている人が、6分ごとに反対方向から
   来る時速72Kmで走っている電車に出会います。
   電車は上りも下りも等しい間かくで運転され、
   電車の長さは考えないものとします。
  (1)電車と電車との間かくは、何Kmですか。
  (2)この人は、同じ方向に走っている電車に何分ごとに
     追い越されますか。』


「速度かぁ」
「苦手?」
 北斗の呟きに、幹が突っ込んでくる。
「うーんと、大丈夫」
 北斗は幹の食事の邪魔にならないようにテーブルの端っこにテキストを広げて、自分のシャーペンを取り出した。
 テキストの余白には幹が何とかこの問題を解こうと奮闘した形跡もうかがえた。
 北斗は自分のルーズリーフを一枚取り出して、そこへ計算をしてみた。
「解けた?」
「うん、解けた」
 幹はケチャップとお茶で辛めのオムライスを流し込むと、お皿をお盆に乗せて廊下に押し出した。
 自分も鉛筆を取り出し、テキストに取り組む。
「まずね、自転車の人は6分で何キロ進む?」
「18×6で108キロ」
「え? 6分だよ?」
「あ、あー、18×6÷60だから、1.8キロだ」
「うん、そうだよね。すると、一本目の電車にあった後、その電車はどこまで進んでる?」
「えー? ええっと、72×6÷60だから7.2キロ」
「じゃあね、この自転車の人を基点として、自転車は1.8キロ、こっちに動くでしょ」
 北斗はノートに一本の直線を横に引いて、真ん中に自転車の簡単なイラストを描いた。そこから右に…かって矢印を書き込み、1.8キロと書く。
「で、その間に電車はこっちに7.2キロだから」
 今度は右側へ長めの矢印を書き、7.2キロと書き込み、矢印の先端に四角い電車を書き込んだ。右側の矢印にも電車を描き込み、「これが二台目ね」と説明する。
「あ、1.8+7.2だ。9キロか」
「うん、電車の長さは考えなくていいっていうから、これであってると思う」
「なるほどー」
「同じ考え方で、2をやってみて」
「え、北斗は教えてくれないの?」
「考え方がわかったら、一人でやらないとだめだよ」
 ちぇっと言いながらも、幹は北斗の書いた直線に矢印を書き込もうとするが、うまく行かない。
「うーん」
 片手で頭を抱え込む幹に、北斗は「電車はどっちも同じ間隔で来てるんだよ」と助け舟を出してやる。
「だったら6分」と、幹は投げやりに答える。
「だめだよ、幹君。この人はさっきはさっきは電車に向かって走ってたけど、今度は電車に背中向けて走ってるんだよ」
「それはわかってるけどさー」
「電車は周りの車や自転車に関係なく、9キロ間隔で走っているんだよ」
「うん……。だから?」
 幹に尋ねられて、つい北斗は答えを教えてしまいそうになる。
「電車が9キロ離れて来ることには変わらないんだからね、追いこされる時間をx(エックス)とすると、電車が進む距離は72xになるでしょ?」
「だめだよ、xは使えないの」
「え?」
 xが使えないと聞かされて、北斗は思わず自分の解いた式を見る。
「x使うのは習ってない」
「だめなの?」
 幹に頷かれ、今度は北斗の方が頭を抱えてしまう。
「北斗は何分になったんだよ?」
「10分なんだよ。72x−18x=9でxが54分の9時間だからさっきと同じように分に直して、54分の9×60で、10分」
「それ、x使わないでどうやるの?」
「どうやるんだろう」
 北斗は自分の計算式を見て唸りをあげる。
 勉強を教えると言ったときはこんなに難しいとは思ってもいなかった。
「いいよ、10分ってわかったら、それで何とか誤魔化す」
「だめだよ、それじゃ幹君がわかったことにはならないだろう?」
 北斗は教えることの難しさの原因が自分の発言によってわかった。
 今の式も、xを使わずに解くことも可能だ。9÷(72−18)×60を解けばいいのだ。その式を教えてやれば、幹は塾で丸を貰ってくるだろう。
 けれど、今ここでわからないまま、この問題を無事にやり過ごすことは、幹のためにはならない。
 理解の積み残しの怖さは、それなりに受験をやり過ごした北斗にはよくわかっていた。
 けれど、6年生の算数が、文字式を使ってはいけないということを失念して、それがかえって難解にしてしまっている。
「一問くらいわかんなくってもいいって。これが解けないと補習プリント渡されるから、そのほうが面倒だから」
「でもね、わかるとこまでやったほうがいいよ。そうでないと後々、幹君が困るから」
「なに親や先生みたいなこと言ってるんだよ。いいよ、もう10分で」
 北斗は困りきった顔で、幹を見た。
「補習プリントでたら、また教えてあげるから」
「だってダメじゃん。この問題もわかんないのに、もういいよ」
 幹は怒ったように勉強道具を片付け始めた。
「幹君……」
「あの公園まで送っていくよ」
 立ち上がった幹が、北斗を冷たく見下ろしている。早く立てというように。
「いいよ、一人で帰れるから」
「また迷われたり、誰かに絡まれたりしたら、俺のせいみたいで嫌だろ」
「う、うん……」
 仕方なく北斗も片付けて立ち上がる。
「ごめんね」
 北斗が謝ると、幹はぷいと顔を背けた。
 幹の母親は買い物に出かけたのか、北斗たちが家を出るときに見送りには出てこなかった。
 こんな情けない顔を見られなくて良かったと北斗は思う。
 無言で公園までやってきて、北斗は小さくありがとうと呟いた。
 幹は無造作に手を振って、くるりと背中を向けた。
 その小さな背中を見送り、北斗は泣き出しそうになるが、必死で堪えた。
 もう会えないだろうなと思うと、それが悲しかった。