好きという気持ちで強くなる











 朝の電車は混んでいる。
 悲しいことに自分の背はまだ北斗より少し低く、目の前に柔らかそうな唇がある。
 あの唇にキスしたんだ……。
 実際は夢の中の出来事で、キスをしたわけではないし、夢なので感触は思い出せないのだが、キスのシーンが頭の中でグルグルと繰り返される。
「幹君? どうかしたの?」
 不意に覗き込まれて、幹ははっと顔を上げる。
「うわぁ」
 北斗の唇がアップに迫っていて、思わず後ろにさがるのだが、ここは満員電車の中で、さがれるはずもなく、うしろの人にぶつかってしまう。
「あ、すみません」
 首だけを後ろに回して素直に謝る。
 多少不愉快な顔はされたが、それ以上咎められることはなくてほっとする。
「どうしたの? 顔が赤いよ? 熱とかないよね」
「だ、大丈夫。寝坊しただけだから」
 顔が赤いのと寝坊との因果関係は全くないのだが、北斗は不思議そうにしながらも、それ以上は突っ込んでこなかった。
 朝、北斗を見た瞬間から、夢の内容がちらついてしまって、まともに顔が見られなくなった。
 何か喋っていれば唇に目がいってしまい、話の内容はほとんどわからない状態で、生返事しかできない。
「明日からテストだよ。大丈夫?」
「うん……大丈夫……って、テスト?!」
 また適当に返事をしかけて、はっとする。さすがにテストの文字だけは聞き逃せなかったらしい。
「そう、宿題テスト。二日間あるよね?」
「あー、ある。そういえば」
「宿題はちゃんとやったから大丈夫だと思うけど……。体調も整えておかないと」
 体調は別方向にかなり危険な感じだが、それを北斗に相談するわけにもいかない。
「うんうん、大丈夫」
 駅に到着して、生徒が大量に吐き出される。
 横に並んで歩けば、北斗の唇が視界に入らないのでほっとする。
 こんな調子で、この先どうしよう? と情けない気持ちになる。
 ずっと北斗を意識して、どぎまぎして、まともに喋られなくなったりしたら悲しすぎるではないか。
「なんか、やっぱり調子悪い?」  少し歩いただけで、背中を汗が伝うほどに、まだまだ夏の日差しは厳しい。
「ううん、ほんとに大丈夫だって。やっぱり、夏休み中も早起きしないと駄目だなーって……ははは」
 わざとらしい笑い方だったかと不安になったが、北斗は基本的に他人を信じるほうなので、幹の言葉も疑っていないみたいだった。
 それがちょっと後ろめたいが。
「気分が悪くなったらすぐに言うんだよ?」
「わかってる」
 夏休み中にすっかり兄弟気分になった北斗は、今は年長者らしく、アドバイスなどしてくる。
 中等部の門前で別れて、少しばかりほっとする。いつもならものすごく悔しくて寂しいのに。
「焼けたなー、本城」
 教室に入ったら、鷹森が近づいてくる。
「鷹森だって真っ黒じゃんか」
 幹以上に日に焼けている。それに、なんだか少しばかり背の高さに差ができたように思う。
 幹も伸びたと思っていたが、鷹森はそれ以上に身長が伸びているということだった。
「俺はテニス部で、毎日外で練習だったからな。本城は?」
「うーん、海とプールと、田舎とテーマパーク、って感じ」
「すげー、色々行ったんだな」
 パラパラと集まってくるクラスメイトたちは、中学生になって初めての夏休みを謳歌したものが多いようだった。
 そんな浮ついた気分を引き締めるのが宿題テストだ。
 提出物のまとめとテストの注意事項を受けて、一日目は終わる。
「北斗さんを待つのか?」
 教室を出たところで鷹森が並んできた。
「あ? うん、そうだけど?」
「テストが終わったらさ、一回クラスのみんなで遊ぼうかって言ってるんだけど、どうする?」
 夏休み中に集まろうと計画したものの、多くが集まらずに流れていたらしい。
 幹も一度メールを貰ったのだが、その日は北斗と遊びに行くことになっていたので、さっくりと断った覚えがある。
「明後日の話?」
「そう」
 幹事となった鷹森が中心になって、声を掛けて回っているのだという。
「来いよ。たまには、俺たちとも遊ぼうぜ」
「うーん……」
 中学の2年間は北斗とべったりいたい幹は、やはりすぐにはいいとは言い難いものがあった。けれど鷹森の誘いも断りたくない。
「同級生と話すのも楽しいだろ? 友達と好きな人は違うんじゃないのか?」
 どきりとするような指摘だ。
 いつだったか、冬樹に痛烈に指摘された。
 北斗の友達はやめないと。友達でいることに、幹の指図は受けないと。
「わかった。行く。細かいことが決まったら教えて」
 鷹森は笑って、幹の肩をぽんぽんと叩いた。
「良かった。お前がいないと、なんか、俺もやる気でなくてさ」
 それくらいには友情を感じてくれているのだとわかって、幹も嬉しくなった。
 その勢いのままに待ち合わせの場所に行くと、冬樹も一緒に待っていた。
「ええー! ミキちゃんさー、なんか急に大きくなってないか?」
 冬樹が驚いて、幹と背比べをする。
「確かに背は伸びてると思うけど、そんなに驚くほどかな」
 冬樹の驚き方を、北斗が笑っている。
「えー、これがわかんないほど、夏休み中も一緒にいたとか言うのか、もしかして」
「うーん、毎日とはいわないけど、けっこう毎日ほど会ってたよね」
 冬樹は多少のからかいをこめて言ったのだが、それが痛く感じるような北斗ではない。むしろよく分かったなーと冬樹に感心しているくらいである。
「そろそろ冬樹も、北斗に慣れたら?」
 そういう反応は、もう幹には予測できたので、それが当たったことが楽しくて笑う。
「くー、憎らしい。それになんだか黒くなっちゃって、可愛くないなー」
 幹は可愛くなくていいので、ははっと笑って返す。
「そんなに一緒にいたのに、何で色が違うのさ、二人は」
「僕は焼こうと思っても焼けないんだよねー。それに幹君が焼くなっていうし」
「へーーーーー」
 ニヤニヤと笑って自分を見つめる冬樹に、幹は眉を寄せて視線を逸らす。
「もうミキちゃんって言えないでしょ、男らしくなったから」
 北斗は天然全開で、幹が目の前にいるのに誉めまくる。
 さすがに幹も照れてしまって、顔が赤くなってくる。
「ミキちゃん、俺に慣れろって言ったんだから、慣れなきゃねー」
 馴れ馴れしく冬樹が肩に手を置いてくる。
「うるせーよ」
「先輩に向かってそういう口を利くかー、この坊主」
 ぎゅっと口元を抓られて、幹は痛ててと逃げる。
「北斗ー、冬樹がひどい」
 ここぞとばかりに可愛く北斗に泣きつくが、北斗はただ笑うだけだ。
「二人とも仲良くなったんだねー」
「全然ちがーう」
 幹の抗議も聞き入れてはもらえなかった。
 そのまま冬樹とは別れて、二人で駅に向かって歩きながら、テストが終わったらクラスのみんなと遊びに行くことを報告した。
「そうなんだ。楽しそうだね」
 少しは寂しがってくれないかなと期待したのだが、北斗のほうが本人よりも、幹がクラスで出かけることを喜んでいる。
「どうせカラオケに行くくらいだと思うんだけど」
 北斗に寂しがってもらえなかったことで、ますます行く気が目減りしていく。
「カラオケに行って、みんなと喋ることが楽しいんじゃないの? すごくいいことだと思うなー」
「でも、北斗は行かないじゃん」
「僕はあまり誘ってもらえなかったから」
 応援団に入るまでは、本当に消極的で、友達自体が少なかった。
 それで困ったことはなかったが、やはり寂しさは感じていたようだ。
「幹君が僕と一緒にいてくれるのは嬉しいけれど、やっぱりクラスの子や、中学の子と仲良くしてくれないと、僕がいるから仲良くなれないんじゃないかって心配で……」
「北斗……」
 そんな心配をかけていたのかと愕然とする。
「だから楽しんでおいでよ。どんなに楽しかったか、聞かせて欲しいし!」
 にこにこと笑いかけられて、ドキドキする。
 朝とは違う、心が温かくなるドキドキ感だ。
 もう唇を見ても、変なことばかり考えなくてもいいような気がする。
「うん、楽しんでくる。んで、面白いところだったら、今度北斗も行こうよ、な?」
「そうだね」
 北斗の嬉しそうな笑顔に、幹はようやく胸のもやもやを晴らせたような気がした。