夏休みに入ってから、幹の起床時間はかなり遅くなった。 睡眠中のクーラーの温度はかなりゆるくしてあるので、外の温度で部屋が暑くてたまらなくなって起き出す。 起き上がろうとして顔を顰める。 足がぎしっと痛む。膝から下に力が入らなくて、痛む足を叩きながら、ベッドの下におろさなくてはならない。 「冷やしすぎかなぁ」 腕を回してみると、肩と手も痛いような気がする。 「じいちゃんみてー」 節々が痛む。年だ年だと嘆いている祖父を思い出して、憂鬱になる。 身体を動かすと血液の流れがよくなるのか、痛みがましになる。 「ほんとに年寄りみてーじゃん」 幹はため息をついて、半分はだけていたパジャマを脱ぎ捨て、タンクトップとカーゴパンツに履き替える。 トントントンと階段を下りて洗面室に行くと、浴室の掃除をしていた母親と出くわす。 「もー、モト君、もう少し早く起きてくれなくちゃ」 言葉は怒っているようだが、態度は別に怒っていないので迫力はない。 「夏休みだからいいだろ」 バシャバシャと顔を洗って歯を磨く。 「ちょっと、幹、水をはねさせないでよ、もー」 もーもー星人と口の中で呟いて、自分でトースターにパンをセットする。 飲み物はここのところ牛乳ばっかりだ。 「家でグダグダしないでクラブにでも入ればいいのに」 邪魔者扱いされているようでむっとする。 「鵬明のクラブ活動なんて、夏休み中もほとんどないよ。お勉強中心だもん。それに、俺、今日出かけるから」 「え? どこへ?」 「図書館。北斗と夏休みの宿題する」 「あら、真面目ね。そうだ、晩ご飯に北斗君を招待する?」 幹はブルブルと首を振る。とんでもない話だ。 「呼べばいいのにー」 母親は残念そうにまた浴室にもどっていく。 簡単に諦めてくれてほっとする。 北斗にディナークラッシュを食らわせるところだった。 バタバタと用意して家を飛び出した。待ち合わせは少し早いが、いい場所をとっておきたい。 真夏日のむっとする暑さの中、自転車をこいで図書館まで走る。 図書館のクーラーがひんやりとして気持ちいい。 自習室をぐるりと見回すが、北斗はまだ来ていないようだ。 窓際の机があいていたので、二つ分を確保する。 北斗に場所をとったことをメールしようと携帯を開いたところで、目の前が翳った。 北斗も早く来たのかと嬉しくなって顔を上げると、そこには一番見たくない人物が立っていた。 「やっぱりお前だった」 「源先輩」 顔に張り付いていた笑顔がすっと消える。 「これから予備校なんだ。この近くでさ。お前が入っていくのが見えたから、追いかけてきたんだ」 潜めてはいるが、自習室で話すのはやはり憚られる。 「だったら早く行けば?」 「ちょっと来いよ」 うんざりしながらも、このまま北斗に会わせたくない幹は、メール画面に「ちょっと遅れる」と打ち込んで送信した。 北斗は急がずにゆっくり来るだろう。 源についていくと、図書館のロビーから中庭へ出る。そこはまだ緑が多くて涼しいのだ。 「お前に言われて、北斗に告白した。もちろん、恋人になってくれってな。正々堂々と」 幹は顔を強張らせた。 「いつ……」 幹が驚いたことが小気味いいのか、源は心なしか嬉しそうだ。 「終業式の日」 あの時、確かに北斗はおかしかったことを思い出す。けれど何も言ってくれなかった。 「それで……」 受けたとは思えない。思えないが、断った事も言ってくれないなんて……。 「恋人同士になったけど?」 「嘘だ」 即座に否定する。そんなはずはない。 源はくくっと忍び笑いをして幹を見た。 「まぁね、断られた。でも、お前も聞いてなかったんだろ? そんなに驚いているようじゃ」 悔しさを隠すために睨みつける。 「なんて言われたか教えてやろうか?」 「……そんなこと、話すことじゃない」 そんなことを打ち明けられるほど仲も良くないし、北斗が話したくないのなら、当事者といえども北斗以外から聞きたくはない。 「男同士じゃ、恋人になれないんだってさ」 どきっとする。 今感じているこの苦しさはなんだろう。 「俺はさ、まだ諦めないから。大学を決めたらリベンジする。今度こそ、正々堂々と。卒業したから切れるとは限らないだろ」 打たれ強いと誉めるべきなのだろうか。 「そんなに鬱陶しそうな顔をするなよ。ライバルがいたほうが燃えるだろ?」 「いらないよ、あんたなんて」 本当にいなくなれと思う。 感じていた不安をわざわざ教えてくれなくていいのに。 「お前、北斗に近づいて、実は遠回りしてるんだぞ」 余計なお世話だ。幹は憎々しげに顔をそむける。 真夏の日差しは木陰を通して、眩暈をおこすような光を足元に作っている。 だったら他に方法があったとでもいうのか。八つ当たりしたい気分だった。 「わかってるよ……。北斗は、俺のこと好きかって聞いたら、きっとにっこり笑って好きって言う」 こんなに暑いのに、指先が冷たく感じられる。 「俺たち、案外まだ二人ともスタートラインなんじゃないか?」 「ふられ男と一緒にすんな」 「きついな」 源は笑いながら、じゃあなと幹の肩を叩いた。 「お前、ちょっと背が伸びたんじゃないか? まだまだお子様サイズだけどな」 嫌味を付け加えずにはいられない性格なのだろう。むかつく。 源はふられたショックはもう抜けたのだろうか、軽い足取りでロビーを抜けて通りへと出て行った。 ジージーと今になってセミの鳴き声が聞こえてくる。 心は冷えているのに、身体はじっとりと汗ばんでくる。 ……男同士だから恋人になれない。 北斗ならそう言うだろう。 幹だって北斗に会うまではそう思っていた。 北斗と出会っても、最初はそんな風に思ってはいなかった。 けれどどんどん惹かれていって、好きだと気がついたのは……いつだろう。 はっきりと決められないほど、自然にそんな気持ちになっていた。 北斗も同じように感じてくれたらいいのに。 長期戦になるとわかっていたはずで、覚悟も決めたはずなのに、源が言われた台詞が胸の奥に沈み込む。 あれが自分だったとしたら、立ち直れないだろうと幹は思う。 「北斗。……俺、北斗が好きなんだよ」 ズキッと胸が痛む。 はじめてそれを口にした日を思い出したのだ。 枕に吸い込まれた涙。 眠る北斗に告げた、小さな囁き。 北斗に告白できる日が来るのだろうか。 「幹君?」 北斗の呼び声にはっとして振り返った。 ロビーのドアから北斗が顔を出していた。 「やっぱり幹君だ。早く着いたんだね。中の涼しいところで待っていればいいのに」 ロビーを通るときに幹に気がついたのだろう。にっこり笑って幹が入ってくるのを待っている。 いつもと変わらない優しい笑顔。 幹を待っていてくれる暖かい存在。 夏の太陽より眩しい。 困らせたくない。悲しませたくない。強く感じた。 幹は自然と笑っていた。 「なんかさ、背が伸びたかって言われた」 声も普通に出せた。 北斗は少し首を傾げて、嬉しそうに笑った。 「うん、……そうかも」 早く追い抜きたい。 すぐに追い越すから……だから北斗も、俺の気持ちに追いついて……。 |