好きという気持ちで強くなる











 喉が痛く、声が掠れたことを声変わりだと信じて、幹はウキウキとしていた。
 学校でも嬉しくて友人達にわざと掠れた声を聞かせたり、ちょっと得意気になっていた。
 帰りの電車の中でも北斗に、声変わりだと話し、早いねと言ってもらえて、とても嬉しかったのだ。
 家に帰り着き、夕食までにと宿題を始めた頃から様子がおかしくなってきた。どうにも身体がだるく感じられてきた。
 その時点でもまだ成長期というのはこんなものだろうと思い込んでいた。
 けれど夜のご飯のときには、かなり怪しくなっていた。
「モト君、熱があるんじゃないの?」
 幹の顔を覗き込むようにして母親が言った。
 ぽやんとしてて、料理が下手で、毎日がドタバタと家事の要領も悪いが、さすがに母親らしいところを見せる。
「ないよ」
 まだどこかで風邪なんかじゃないと信じたい幹は抵抗したが、無理矢理にも体温計を挟まれた。
 たった30秒で検温できるそれは、幹の体温が既に38度を越していることを表示する。
「ほら!」
 熱があったからといって母親に自慢される筋合いではないのだが、そこから彼女は診察時間ギリギリの病院に電話をかけて、診察を依頼してから、幹を急きたてて病院へと連れ込んだ。
 幹はかかりつけであるその小児科に入るのに抵抗した。
「もう小児科じゃない!」
「何言ってるの。ここの先生が一番幹の身体のことをわかってくださるんだから」
「小児科なんて嫌だ。内科に行く」
「生意気言わないの」
 体力が万全ならば振り切って逃げるものを、熱のある身体では抵抗もいつもの半分も出ない。もっとも、体力がいっぱいならば、ここにすら来なかったのではあるが。
 診察時間も終了近くになると、子供の数は少なかったが、中にはまだ歩けないような赤ちゃんもいて、幼稚園ぐらいの子にジロジロと見られているようで、とても居心地が悪い。
 三人ほどを待って診察してもらうと、診断はやはり『風邪』だった。
「喉にくる風邪が流行っているからね。生活環境も変わったりして、疲れがたまっていたんだろう。よく休めばすぐに治りますよ」
 それでほっとしたのか、母親が声変わりだと思っていたことや、幹が小児科を嫌がったエピソードを話してしまう。
 うしろから蹴ってやりたい気持ちになったが、医者の前なので我慢する。
「まぁ、そろそろそういう時期なんだろうね。喉も少し太くなってきているようだから、声変わりもすぐだと思うよ」
 医者は愚痴をこぼした母親ではなく、幹に向かって話しかけた。
「それにね、もうお母さんと変わらないくらい大きくなったと言ってもね、幹君の身体の中身、内臓なんかはまだ大人に変わっていってる段階なんだよ。だから薬は子供の量や成分の方がいい。今から君の身体は劇的な変化に入るんだ。自分でも納得のいかない感情の揺れや、思い通りにならない体調の変化が訪れたりする。その時に身体が変わろうとしているっていうことをよく踏まえて、自分の身体を大切にしてやらなきゃいけない。15才になるまではここにおいでよ。病気じゃなくても、話をしたりもするよ」
 すらすらと喋る医者に少しばかり圧倒される。
「は、はぁ」
「じゃあね。反抗したくなったら、ここに子供を見においで。小さい頃の自分を思い出すっていうのはいい経験だよ」
 小児科医はのほほんと笑って、幹が最後の患者だとわかると、白衣を脱いで待合室へと出てきた。
「あ、そうだ、お母さん」
 妙に可愛い薬の袋を貰い、帰ろうと靴をはいている母親に医者が声をかけた。
「はい」
 何か言い忘れでもあったのだろうかと首を傾げる母親に、医者はにこやかに話しかけた。
「お母さんも子離れの準備をしてくださいね」
 きょとんとした顔つきで母親は「はい」と返事をした。


 翌朝も微熱が残っていて、幹は学校を休むことになった。
 薬がよく効いているのか、喉の痛みはほとんど取れた。同時に声もすっかり元通りになった。
 体調が回復してくると、ただ寝ているだけのことが苦痛になってくる。
 北斗に移しちゃ駄目だと思って見舞いを断ったが、あまりに退屈なので来てもらいたくなってくる。
「あーつまんなーい」
 マンガ本を出してきて眺めたりもしたが、一度読んだ本はすぐに読み終わってしまう。
 本をベッドから机に放り投げるようにして、手足を伸ばして寝転ぶ。
 その時、トントンとドアがノックされた。
「なんだよ」
 暇なのかと疑いたくなるくらい、母親が幹の様子を見にくる。そんな事で風邪が治るわけもなく、何度熱を測られてもほとんど変わらないので、本当に鬱陶しいと感じていた。
「具合、どう?」
 ところがひょっこりと顔を出したのは、待ち侘びていた北斗だった。
「北斗!」
「少しよくなった?」
 北斗は学校の帰りにそのまま寄ってくれたらしく、制服を着たままだ。
「もう平気。明日には学校へ行ける」
「ホント? 無理しちゃダメだよ」
 北斗はほっとしたように微笑んで、手にしたコンビニの袋からヨーグルトを取り出した。
「お見舞い。喉が痛いときは、こういうのがいいかなって思って。ヨーグルト、嫌いじゃないよね?」
「ありがとう」
 北斗からのプレゼントだと思うと、何でも食べられるような気がする。
 母親がお菓子とジュースを持ってきてくれて、北斗が来てくれている間に買い物に出かけると言う。
 もうほとんど元気なのだし、留守番くらい平気なのに、心配で出かけられなかったと言い訳をする。
 北斗はニコニコと話を聞いて、いってらっしゃいなどと言うものだから、母親はすっかりご機嫌で出かけていった。
「声、元通りになったね」
「うっ」
 北斗は良くなったことを喜んでくれているとわかるのだが、昨日得意気に話したことを思い出すと、とても恥ずかしくなった。
「なんか、かっこ悪い」
「どうして?」
「粋がっちゃってさ、声変わりなんて言って」
 俯いて打ち明けると、北斗は気にしないでと返事をする。
「誰でもそう思っちゃうよ。帰るときは元気だったんだし」
 慰めてくれる言葉がかえって辛い。
「楽しみだったのにな……。ほんと、バカみたい」
 北斗の顔を見れなくて呟くと、どうして?と問われた。
「どうしてって……、バカみたいじゃん、風邪なのに声変わりって騒いでさ」
「そうじゃなくてね。どうして幹君はそんなに早く大人になりたいの?」
 北斗にそれを聞かれるのは正直なところ辛い。声変わりがすべてではないが、それが北斗と自分を明確に分けている壁だと思うのだ。
 年の差は縮まらなくても、身体が大人になれば、二人の間には壁がなくなるように感じていた。
「そりゃ……誰でも早くなりたいんじゃないの?」
 真実は打ち明けられなくて、一般論で誤魔化した。
「僕もまだ大人とは言えないけどさ……。幹君は今しかできないこと、いっぱいあると思う。そんなに急いで大人にならなくてもいいのにと思うよ。子供だから許される甘えや、好奇心とか、冒険なんか、いっぱいすればいいのにと思う。むしろ今しかできないよ? 背伸びして戻れなくなってから振り返るより、今をもっともっと楽しめばいいのに」
 背伸びをしてと言われると、北斗に少しでも追いつきたくて、無理をしていたように思えた。
 どうしても年の差が埋まるわけではないのに、縮めようと焦っていた。
 そんな風に指摘されたわけではないが、北斗の言葉によって、いかに自分が悪あがきをしていたか、わかってしまった。
「北斗に……追いつきたかった……」
 ぽつりと漏らした言葉が、どれほど自分を追い込んでいたのかわかる。打ち明けてしまえば、とても心が軽くなった。
「僕が無理させていたのかな?」
 北斗の心配に慌てて首を振る。
「そうじゃない……」
「今はさ、中学と高校だし、4年の差ってとても大きく見えちゃうけど、例えば32と36じゃそう変わらないだろう? それくらいの差でしかないよ?」
 どんどん気持ちが軽くなっていくのがわかる。
 今の幹にとっては、32才など、とてつもなく遠い未来だけれど、それだけ時間が過ぎても、幹の傍にいてもいいというくらいには思っていてくれるのだろうか。
「俺、今も北斗に甘えてるのに」
「全然。僕の方が幹君に頼ってて、嫌がられてるんじゃないかなって、思うくらいだよ」
 二人で顔を見合わせて笑う。
 もう熱などすっかり下がった気分だった。