好きという気持ちで強くなる











 高校の体育祭は初夏を思わせるような晴天の青空の下で開催された。
 幹は中等部の制服を着ていればフリーパスなので、最初から見ようと張り切って出かけた。
 高校生ともなれば、見学に来ている保護者は少なく、見学者席は同じように中等部から来ている生徒がほとんどだった。
 白団の応援席、北斗が一番よく見える場所を陣取って、競技そっちのけで北斗を見ていた。
 北斗のガクラン姿を見るのは初めてで、いつものおとなくして真面目な北斗のイメージは薄く、男らしくてかっこよかった。
「ミキちゃんは今日が運動会だってわかってるかな?」
 休憩時間には冬樹がわざわざやってきて幹をからかう。
「ちゃんと見てたよ」
 冬樹がずっと北斗の隣にいたのも。
 二人が並んで楽しそうに話しているのを見ると、自分の年が恨めしくなる。あと四年、四年早く生まれていれば、北斗と一緒の教室で学び、行事を楽しむことができるのに。
「ちゃんと、ねぇ?」
「知らない人ばかりだと、退屈だよね」
 幹が一生懸命何を見てたのかなど、全く気づいていないようで、北斗はそんな心配をしていた。
 体育祭はそれなりに楽しめたが、北斗たちは打ち上げがあるとかで、幹はやはり一人で帰らなくてはならなかった。
「ごめんね、幹君。せっかく見にきてくれたのに」
「いいよ。仕方ないもんな」
 思い切り我が侭を言いたいという顔で、口は寛大な台詞を吐く。
「来週からは通常通りになるから」
「北斗、月曜日は代休じゃないか」
 ごく常識的なことを指摘すると、北斗はあっと口を開く。
「そうかー」
「いいなー、平日の休日。中学も休みなら、どこへ出かけても空いてるのに」
 中学に入ってからは慌しく、落ち着いてきた頃にはテストだ、体育祭だと行事が入り、幹が描いていた学園生活とは少しばかり様子が違う。
 これが終われば、どこかへ遊びに行きたいなと、そんなふうに考えていたが、なかなかうまくいかないものである。
「夏休みがあるじゃない。すぐだよ」
「夏休み!」
 北斗のあまりにのんびりした計画に、幹ばかりか冬樹までが驚きの声をあげる。
「え? 平日の休みって、次は夏休みくらいしかないよね?」
 それを前置きなしに言われると、普通驚くだろうという予測が北斗にはない。ますます天然さを際立たせているのだが、もちろん本人には自覚がない。
「じゃあ、夏休みは楽しみにしておく」
 去年のようにもう受験生ではない。いきなり受験を目指して、夏休みを潰した幹だったので、来年こそはと意気込んでいたのである。
「ミキちゃん、北斗のテンポについていけるなんて、大人だなぁ」
 もう慣れたから……。
 さすがに本人の前では口に出さなかった。
 それに。北斗のそんなところが好きなのだ。
 同じ年頃のクラスメイトたちや周りの大人たち。そんな人たちの中にいて、北斗の持つ空気が幹までも優しい気持ちにさせてくれる。だから好き。
「冬樹はまだまだなんじゃないの?」
 ミキちゃんと呼ばれる腹いせに、わざと冬樹と呼び捨てにする。怒るかなと思ったが、冬樹はにやっと笑っただけだった。
「なんだ、二人とも仲良くなったんだね」
「は?」
「え?」
 北斗がニコニコと二人を見ている。幹はそんな北斗を見て、互いに顔を見合わせて、爆笑した。


 体育祭も終わると、また平凡な学園生活が戻ってきた。
 幹にすればその方が嬉しいので、梅雨に入ってじめつく空気の中でも、一人だけ雨など関係ないという調子で過ごしている。
 雨の酷い日になると、濡れた靴と傘で、電車の中は非常に不愉快になる。
 けれどそれも幹にはほとんど気にならないことだった。だが……。
「ん、んんっ、ぐぁー」
 朝から喉がいがらっぽくて、帰りの電車の中で、幹は声の調子を確かめる。
 午前中は普通の声だったのが、今は素敵に掠れている。
「幹君、風邪?」
 北斗が心配そうに尋ねる。
「うーん、これは違うと思うんだ。多分、あれだよ、あれ」
 ハスキーな声で幹はにんまりとする。
「あれ? 風邪より辛いの? 大丈夫?」
 ますます北斗は不安な表情をする。
「違うって、北斗。あれっていうのは、ほら、声変わりだよ、声変わり」
「えー、そうなんだ。すごい。早いね」
 北斗は曇った表情を一気に明るくする。
「早いかな?」 「早いよ。僕は中学三年になってからだったよ」
 それは少し遅いのではないかと思ったが、黙っておく。男にとって、声変わりが遅いというのはかなり気になる部類になるだろうと思う。幹は今でも少し遅いのになと焦っていたくらいだったので。
「やっぱり喉が痛くなった?」
「うーん……? ちょっと違うんだよね」
「違う?」
 どんなふうだったのだろうかと幹が答えを待っていると、北斗は苦笑する。
「あんまりガラガラ声にならなくて、高音が出し難いなと思ってたら、だんだん低くなっていった感じ」
 北斗は男性にしては高めの声だと思っているので、今よりもっと高い声だったのだろうかと想像する。
「そうなんだー。それって、ちょっと寂しい感じない?」
 このガラガラこそ醍醐味なのにと、幹はちょっとワクワクしている。
「期待はずれだったけどね」
 北斗も笑う。
「どんな声になるのかな。楽しみだな」
 北斗に期待されると嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分になる。
「変な声になったらどうしよ」
「大丈夫だよ。幹君のお父さんって、すごくいい声だったじゃない? 似た感じになるんじゃないかな。僕も電話だと父と間違われることがある」
 父親の声を褒められて、嬉しいのと同時に、ふつふつと嫌な気持ちが湧いてくる。父にまでやきもちを妬いているのかと思うと、ちょっと自分でも驚いてしまうのだが。
「北斗のお父さんもいい声だよね。いかにも学者さんって感じ」
「そうかな?」
 同じように褒めても、北斗はニコニコと嬉しそうで、その違いに少しの不安が出てくる。
 やはり、自分と北斗では想いに差がありすぎるのだ。
「喋るの、辛くない?」
「辛くない。ちょっと違和感があるだけ」
 たとえどれだけ痛くても、北斗と喋れないほうが辛いだろう。
「辛い時は言ってね?」
「うんうん、わかってる」
 そんな会話をして、家に帰りつく。
「おかえり、モト君。もう、ちゃんと言ってよね」
 玄関の音を聞きつけて母親が顔を出して文句を言う。
「声が出ないもんね」
 そんな幹の声に、母親が目を丸くする。
「やだ、モト君、風邪を引いちゃったんじゃないの? もうー、夜中に布団を蹴飛ばすからよー」
 心配と同時に叱られたり呆れられたりで、玄関から一歩も先に進めない。
「違うよ。声変わりなんじゃないの?」
 北斗への説明とは正反対に、ぶっきらぼうに答える。
 最近どうも、母親の世話を焼く態度が煩わしく感じるのだ。
「まぁ、そう! だったらお祝いしなくちゃ!」
 途端に目を輝かせる母親にうんざりする。
「お祝いするようなことじゃねーじゃん」
「いやー、すごい声ー」
 ケタケタと笑いながら、キッチンに入る母親の背中に、幹は呪いをかける。
 絶対に張り切るな!と……。


 翌朝もシトシトと雨が降っていた。
 北斗は自転車を諦めてバスに乗り、駅前で幹が来るのを待っていた。
 いつもより少し遅いな、どうしたのかなと心配していると、携帯電話の方へメールが入った。
【風邪引いた。学校休む。連絡が遅れてごめん】
 その内容を見て、北斗は眉を寄せる。
 やっぱり風邪だったのだ。
 幹は声変わりだと信じていたが、目元が疲れているようだったし、最初に感じた風邪というのが当たっていたのだ。
 それなら家まで送っていってあげれば良かったと後悔する。
【安静にしてゆっくり寝るんだよ。お見舞いに行くね。何か食べたいものある?】
 電車に乗る前にメールを送る。
【移すといけないから、来ちゃダメ。頑張って寝て早く治す】
 幹からの返信に、北斗は一人で乗っている電車がとても寂しく感じられた。