好きという気持ちで強くなる











 土曜日の正午前に幹は緊張で固くなる指を動かして、北斗の携帯へ電話をかけた。
 休日の練習は午後からだと聞いていたので、その前に電話をして、会える時間がないか聞こうとした。
 呼び出し音が聞こえている間、心臓がドキドキと速くなる。
『幹君?』
 最初にその声が聞こえたときは、泣き出しそうなほどほっとした。
 北斗が電話に出てくれて、自分の名前を呼んでくれて、まだ見捨てられていないかもと安堵した。
「俺……北斗に謝りたいんだ。だから、今日、練習終わってから、会えない?」
 一生懸命練習した通りに言う。それだけでも一日分のエネルギーを使い果たしたように思う。
『謝るのは僕の方なのに』
 優しい声は、北斗が本気でそう思っている証拠だ。
「ううん……ごめん。俺が悪かったんだ。今日も練習、遅くなる?」
 こうして話せば、するりと謝罪の言葉が出てくる。謝れば、会いたくなる。会って、北斗に許してもらいたい。
『今日は夕方に終わるよ。五時に解散の予定なんだ』
「じゃあ、俺、終わる頃に行ってもいい? 学校で練習するの?」
 とにかく決めてしまいたい。そうしないと不安だった。
『練習は駅の反対側の野球練習場でやってる。場所、わかる? 駅前で待ち合わせの方がいいんじゃないかな』
 北斗が会ってくれると思うだけで、数日来の憂鬱さえ吹き飛びそうだ。身体の中に元気が湧き出てくる。
「野球練習場、知ってるよ。だから、そこまで行く」
 一分一秒でも早く会いたいのだ。どこまででも飛んでいくつもりだった。
『じゃあ、待ってるね』
「うん、あとでな」
『じゃあね』
 プツッと電話を切った途端、緊張の糸も切れて、幹は部屋の真ん中で座り込んでしまった。
 まだちゃんと仲直りしたわけではないが、会えなければ何も始まらないのだ。
 幹は深呼吸をして、出かける用意をする。まだまだ時間はあったが、何かをしてないと落ち着かなかったのだ。


 練習時間が終わりに近づくと、北斗はそわそわしながら通りの方を気にし始めた。
「北斗? どうかした?」
「な、なんでもない!」
 冬樹に聞かれて、北斗は慌てて意識を引き戻した。失敗したら皆に迷惑をかけてしまう。
 体育祭まで一週間、まとめて練習できるのはもう明日しか残されていない。練習にも熱が入っていた。
 練習の総仕上げの時には源もやってきて、ようやくまとまった動きを、最初から通してやることになった。
 応援団長の号令と共に、全員の掛け声がそろう。
 ガクランと鉢巻き、白いタスキの姿で五十人近くが揃うと、迫力があった。
 この練習風景は近隣の住民もよく知っていて、散歩の途中に立ち寄って見ていく人もいるくらいである。
 幹もその中にいた。
 やはり待っていられずに早めに出て来た幹は、練習の邪魔にならないようにと、少し離れた場所で見ていたのだが、全員が揃っての練習になってからは、見物人も多くて、人込みにまぎれて少し近くから見ることができた。
 毎朝毎夕、練習した甲斐があってか、ビシッと揃っている動きは壮観だった。
 掛け声も見事に揃い、きびきびとした型の動きに、現物人からも時折感嘆の声が漏れるほどだ。
 最後に全員が礼をして、練習は終わったようだった。
 それぞれが片づけを始めたり、分担して掃除もしている。
 それから集合して、簡単な注意事項のあとで、解散が告げられる。
「ありがとうございました!」
 バラバラと散っていく生徒の中から冬樹を見つけて都築は肩を叩いた。
「軽く食べて帰らないか?」
「あ、いいですね。北斗、どうする?」
 冬樹はごく自然に北斗のことも誘った。
「北斗?」
 キョロキョロと辺りを見回していた北斗は、名前を呼ばれてはっと振り返った。
「な、なに?」
「もう、なんか気がそぞろなんだよなー。なんか食べに行かないかって、先輩が」
「あっ、あぁ、すみません。あの……」
 北斗は困ったように視線を動かした。
「源もいるけど、四人じゃないよ。有志一同で行くから、十人は越えるかも」
 都築のうしろで源が苦笑している。
「えっと、友達と約束してて……」
「へー、冬樹より仲のいい友達っているの?」
 少しばかり失礼な問いをして、都築も源も驚いている。
 一方、冬樹の方はなるほどなと思って、辺りを見回した。前のフェンス際のときもそうだったが、北斗よりも先に目的の人を見つけてしまう。
「北斗、あっち」
 そっと北斗に教えてやると、北斗も道路脇でこちらを見ている幹に気がついた。
「あ……、じゃあ、失礼します」
 ぺこりと頭を下げて、北斗は幹の方へと駆けていく。
「誰だ、あれ」
 源が目を細めて北斗を待っている少年を見た。
 友達というには少し幼いような気がする。
「北斗の友達ですよ」
 冬樹はちらりと源を見て、北斗の言ったとおりに説明する。
「あの子が? 中学生に見えるけどな」
「中学生ですよ。今一年生です」
「それが友達?」
 北斗がそういうのだから、今のところは友達なのだろう。
「何拘ってるんだよ、源。俺たちも行こうぜ」
「あぁ」
 不機嫌そうに返事をしながら、源は名残惜しそうに北斗の後ろ姿を見ていた。
 北斗の隣には幹が並んで歩いていて、その後ろ姿はかなり小さくなっている。
 源の不穏な視線を見て、冬樹は微かな不安を感じた。
 引くべきところは引くだけの大人の判断力を持っていると思っていた源だったが、どうにも北斗に対して、普通以上の感情を持っているように感じる。
 北斗が彼を好きになるとは、今の状態では思えないが、何かある前に北斗には注意したほうがいいだろうかと考えた。
「…………駄目だ」
 北斗なら信じない。まさか、だけで終わらされそうな気がする。
「何が駄目なんだ?」
 都築が聞いて、冬樹は笑いながら首を振る。
「何でもないです。たくさん食べようかなーって思って」
 笑って答えながら、この人は利用できるかもと、冬樹はちゃっかり考えてもいた。


「幹君、お待たせ」
 北斗が笑顔で自分の元まで走ってきてくれて、幹は色々悩んでいたことが、綺麗に洗い流されていくように思えた。
「北斗……」
「帰ろう。あのね、母さんが幹君の分も夕食を作ってくれるって。食べて行ける?」
「う、うん。いいの?」
「もちろん。母さんも喜ぶよ」
 何事もなかったように歩き始める北斗を、幹は慌てて呼び止める。
「ほ、北斗。その前に謝らせてよ」
 幹が必死で北斗の服を掴むと、北斗は不思議そうに振り返った。
「だって、今朝電話で謝ってくれたじゃない」
「駄目だよ。ちゃんと謝らせてよ」
 幹が真剣な顔をして北斗を見つめると、北斗も真面目に向き合ってくれた。
「ごめんなさい。我が侭ばかり言って、北斗を困らせて、……それで北斗を叩いて。もう言わない。もう二度としない。だから、許して下さい。ごめんっ!」
 幹が勢いよく頭を下げると、北斗は慌てたように幹の肩を押し上げた。
「僕こそごめんね。わからないんだ、幹君がどんなことを嫌がるのか。だから、嫌な気持ちにさせちゃうんだよね」
 北斗に謝られて、幹は首を振った。
「北斗は俺の嫌がることなんてしてない。俺が怒るのは、俺の我が侭だから、俺のことを怒っていいんだ、北斗は」
「幹君は我が侭じゃないよ。そんなこと、思ったことない」
「北斗は……優しすぎるよ……」
 だから我が侭になってしまう。幹は嬉しさと共に、これからはもっと気をつけないと、北斗に負担ばかりかけてしまうと感じた。
「体育祭が終わったら、幹君に謝ろうと思ってたんだ」
「終わってから?」
 どうしてその日まで待とうと思ったのか、幹には不思議だった。
「それまでに謝って許してもらっても、幹君が望むようにはできないってわかっていたから。それじゃあ、また幹君に我慢をさせてしまうから」
 見放されたんじゃなかったと、幹は本当に嬉しくて、意地を張っていた自分が馬鹿らしくもなった。
「ごめんな、叩いて」
「あれは……びっくりした」
 北斗はそっと胸を押さえた。今も痛そうなその表情を見て、幹はどれだけ酷いことをしたのか、今わかったように思った。
「ごめん。もう絶対、しない」
「違うんだ、幹君」
「違わない。ほんと、ごめん」
「だから、謝らないで。僕はそれほど幹君を傷つけたんだよね。幹君は絶対そんなことをする子じゃないのに」
 買い被り過ぎだと思ったが、今後は絶対に北斗が思ってくれているような自分になるからと誓う。
「嫌なことは言ってね。僕は……それがわからなくて、幹君を怒らせてしまうから」
「そんなこと言ったら、俺、もっとわがままになっちゃうよ? いいのか? 清水としゃべんなって言ったら、北斗はその通りにするの?」
 無理だと言って。今の言葉を取り消して。でなければ、本当に言ってしまいそうだ。
「その通りにはできないけれど……、幹君にわかってもらえるように努力する」
「努力?」
「うん。冬樹はとてもいい奴で、大切な友達だから、幹君も一緒にいてくれるように、それがわかってもらえるように、努力する」
「……そんなの、もうわかってる」
 わざわざ友達のために、仲直りさせようと幹のところまで来るなんて、本当に友達思いのいい奴でなればできない。
「うん、幹君なら、わかってくれるって、思ってた」
 なんだか今までの自分が本当の馬鹿に思えて、可笑しくなってしまう。
 そんな自分を見捨てないのだから、北斗は本当に優しすぎる。
「……ごめんな」
 今までとは別の意味で、心から謝罪した。
 どれだけ北斗に頼りきって甘えきっていたのか、ようやくわかったような気がしたのだ。
 言葉と一緒に、ぽろりと一粒涙が零れた。
 決して泣くまいと思っていて、ずっと我慢していたのに、どうしてか一粒だけ、幹の意識のしないままに零れ出てしまった。
 慌てて袖で擦り、その涙を隠す。
「かっこわりー」
 幹は笑って誤魔化す。
「ごめんね。そんなに……辛い気持ちにさせていたんだよね……」
 幹は首を振って、早く帰ろうと言った。
「昨日さ、苦い春巻きを食べさせられたんだ。今夜は北斗のおばさんの美味しいご飯食べたい」
「苦い春巻き?」
 北斗は想像もできないらしくて、首を傾げる。
「想像もできないだろ? 俺も、今でも、どうして苦くなったのか、全然解明できないんだ」
 幹がプリプリと怒ると、北斗はクスクス笑い始めた。
「でも、どんなのか、ちょっと食べてみたいかも」
「チャレンジャーだな……」
 幹が驚くと、北斗は本当に楽しそうに笑い始めた。
 北斗が笑ってくれるなら、あの酷い春巻きも、命をかけて完食して良かったと思えるのだった。