好きという気持ちで強くなる











「あーあー」
 体育の教師は遅刻に厳しい。少しでも遅れれば、校庭を五週も走らされる。
 予鈴が鳴ってから本鈴までは五分あるが、グズグズはしていられない。
 けれど北斗がこちらに向かって走ってくるのを見たなら、遅刻の二文字も消えしまう。
「鷹森、先行ってていいよ」
「あー、別にいいよ」
 幹が鷹森を邪魔にしているのではなく、単に遅刻を心配して言ってくれているのをわかってくれたらしく、少し離れた場所で待っててくれるらしい。
「幹君、次、体育?」
「そう」
「あのね、後でメールしようと思ってたんだけど、明日と明後日の朝練がなくなったんだ」
「ほんと? じゃあ、一緒に行ける?」
 フェンス越しなのがもどかしい。
「うん。また電話する。遅れちゃうよ」
 北斗は遅刻するのを気にしてくれているらしい。校庭までは少し距離があるので、気が気ではないのだろう。
「じゃあな。帰ってたら電話してくれよな」
 幹は手を振って、待っていてくれた鷹森に駆け寄る。同じく手を振ってくれている北斗に鷹森が軽く頭を下げる。
 バタバタと走り去る二人を見送って、北斗も教室へと急ぐ。
 待っていてくれた冬樹にごめんねと謝ると、冬樹はクスクス笑っている。
「ミキちゃん、大きな声だったな」
「びっくりした」
 名前を呼ばれたときから、幹の声だとわかっていた。冬樹に指差されて振り向いた先に、体操服姿の幹を見つけて、とても久しぶりなような気がした。
 メールを交換しているが、だんだん儀式的になっていって、幹がつまらないと思っているのではと心配になっていたところだった。
 手をブンブンと振って、自分を呼んでくれる姿に、今までの心配が消えていった。それと入れ替わるように、幹と会えてよかったなと、喜びが入り込んできた。
 明日、明後日の朝の練習が中止になったのは事実で、各団の代表者がミーティングをするらしい。順番や位置決めをするということだ。いよいよ体育祭が近くなってくるという実感もわいてくる。
「相変わらず元気だねー。まだ声変わりしてないのかな?」
 伸び伸びと響く少し高めの声は、いかにも少年らしくはつらつとしていた。
「まだ中学一年だよ。早いんじゃない?」
「早い奴は小学生のうちに声変わりするよ。北斗はいつだった?」
 二人は教室に向かいながら、のんびりと話をする。二人の五時限目の教師は、チャイムを職員室で聞いてから腰を上げるので、余裕があった。
「僕は……中学三年生になってすぐ」
 少し遅めの成長期が、少しばかり恥ずかしい。
「俺も一緒ぐらい。やっぱり、俺たちって遅いのかな?」
 冬樹の方は遅くても気にならないらしい。
「多分……」
 自分の経験から考えてみるが、幹はもう少し早くなるような気がする。
 背も追い抜かれる日は近いように思う。
「ミキちゃんが声変わりする時はからかってやろう」
 変な楽しみ方を見つけたらしい冬樹に、本気だろうかと北斗は笑う。
「でも、元気な子犬って感じだったよな。尻尾の代わりに手を振ってるの」
 ぴったりな冬樹の比喩に、北斗はあまりにおかしくて、声をたてて笑った。
「北斗、最近明るくなっていい感じ」
 高校入学の出会いで最初に抱いた印象は「真面目」。そのまま印象を変えることなく、そこに「おとなしい」や「純情」が入り、優しい友人が出来上がっていた。
 その友人が明るくなり、頑張ろうとする姿の影に、一人の少年がチラチラする。
 彼が北斗を好きなのは一目見てわかった。それほどに真剣な目をしていたのだ。ただの友人である冬樹にも対抗意識を燃やす幼い彼が、可愛いと感じた。
 北斗の方は全く気づいていないようで、時にからかいの種にさせてもらっているのだが、自覚する様子は全くない。
 けれど、北斗があの少年を大切にしていることはよくわかるので、応援とまではいかないが、見守ってみたいと思うようになっていた。


 体育の授業開始にはギリギリ間に合った。
 しかも、明日は一緒に登校できると聞いて、幹はとてもご機嫌だった。
 その様子を見ながら、鷹森は幹に聞きたかったことの答えは、聞かなくてもわかったような気がした。
 その人を間近に見たのは今日が初めてだったが、鷹森から見ても、あまり年上という感じのしない、やわらかい印象の人で、なんとなく、すっと受け入れられた。幹が好きになってもいいか、と。
 鷹森自身は好きになるのは女の子で、今も気になる子はいる。中学は離れてしまったので、たまにメールの交換をしているが、そのまま疎遠になるんじゃないかと思っている。
 やっぱり同じ中学に通えないのは、ハンデになると思い始めたところだ。
「……まさかな?」
 二年間のうちの一ヶ月はもったいないと叫んでいた幹。
 誰もが必死で勉強をしてやっと入れる鵬明に、そんな理由で本気で通おうとする人間がいるはずがないと思う。
 でも……? こいつならやってしまうんじゃないか?
 最初にクラスメイト達を見回した時に、こいつはすごい奴かもと感じた一人。なのに、その幹は目立つのを押さえようとしているように見えた。
 岡田の挑発も受け流すし、成績も良いほうだけれど、目をみはるほどでもない。
 見間違えたのかと思ったが、何度か話すうちに、とても付き合いやすい相手だと感じた。そのまま友人になろうと、近くにいる。幹のほうも、話しやすいと感じてくれているようで、いい友人になれそうだった。
「そのうち、あの人にも紹介してもらおう」
 小さな野望を抱いて、鷹森はちらりと幹を見た。
 偶然目があって、幹も笑顔になる。幹はもう、みんなが何かあったのかというくらいに、今は誰にでも笑顔を向けてはいるが。
 体育の授業は、最近はずっとサッカーをやっている。
 ルールの説明を少しして、あとはドリブルやパスの練習をしてからミニゲームをやっていた。
 幹は走るのも速く、小柄な身体を生かして、パスを渡していく中盤の役割を器用にこなしていく。
「声が出にくい者は無理して声を出さなくていいぞ」
 体育の教師がミニゲームの前に簡単な注意を言い渡す。教師がそれを言うのも無理は無く、二人ほど聞いているだけで喉が痛くなるような、声が出ない生徒がいる。
 ミニゲームに参加せず、見学しながら応援する生徒達は、そのガラガラ声をわざと真似したりして盛り上がっている。
「あーいいなー。俺も声変わり、早くしたい」
 したいと思ってなれるものではないとわかっているが、焦る気持ちは強い。
「意外だな、本城ってマイペースだって思ってた」
「鷹森もまだだよな。負けないぞ」
 宣言されて笑ってしまう。
「別に先を越すつもりはないけどさー。どうしようもないじゃないか」
「だって、今は背も負けてるし」
 ライバル心をむき出しにされて、困ってしまう。
「身長は本城の方が高くなるんじゃないかな。俺は六年生の時に伸びて、今は伸び悩んでいる感じだし。父親も母親もそんなに大きくないんだよな。だから望み薄い」
「へー。うちは父親が高いほうかな。母親はちっちゃいけど」
「だったら大丈夫じゃないか? 俺は少しでも伸びるように、朝晩牛乳飲んでる」
「えっ、だったら俺も飲む」
 友達が何か対策を立てているかと思うと、負けてはいられないと焦る。
「そうか、牛乳か」
「ミキちゃん、俺たちの番だぞー」
 決意を固めたところで岡田が呼ぶ。
「ミキっていう名前じゃねーよ」
 妙な呼び方が定着したらたまらないと、幹は岡田を睨むが、人の嫌がることが好きな彼は、ますますミキちゃんと呼んでくる。
「何でー、そう呼ばれてたじゃないか。入学式」
 清水、本当に腹が立つ。と思ったところで、さっきも北斗の隣に冬樹がいたことを思い出してしまう。
「とりあえず、清水よりは絶対に大きくなる」
 体育が終わったら、母親に牛乳をたくさん買っておいてとメールしようと決めて、幹はミニゲームで敵になった岡田からボールを奪ってやった。


「俺さ、入学式であいつがミキちゃんって呼んだからさ、そう呼ばれるようになった」
「ミキちゃん? あっ……冬樹だ」
 北斗が言った名前にピクリと頬が引きつる。
「冬樹? いつからそんなに仲が良くなったんだよ」
 せっかく一緒に登校できる朝。ちらりと出した話題に、胸がざわつく。
「応援団の練習をするようになってから……だけど。えっと、僕のことも名前で呼ぶから、冬樹でいいよって言われて。……変かな?」
 俺に聞くなよと幹は眉を寄せる。
「変だって言ったら、今まで通りに苗字で呼ぶの?」
「うん、そりゃあ」
 言ってやろうかと一瞬思ったが、北斗の場合、わざわざ幹に変だと言われたからと、相手に説明しそうな気がする。
「変じゃないよ。別に。友達なんだし。ミキちゃんの方がよっぽど変」
 俺のことはミキちゃんと呼んで面白がっているくせに、自分はちゃっかり北斗の親友気取り。それがとても面白くない。
「冬樹に言っとくから……。何度も言ったんだけど、ごめんね」
「どうして北斗が謝るんだよ」
 それが北斗の人柄たとわかっているので、あまり責めたくない。幹も今更改められても、もうクラスメイト達は気軽にミキちゃんと呼び始めている。
 鷹森だけは幹が嫌がっているのをわかっているので、普通に苗字で呼ぶ。鷹森は他の生徒より仲良くしたいと思っていたので、モトキと呼ぶようにしてもらった。彼のことも聖一郎と呼ぶことになった。
「幹君もたくさん友達が出来たんだね」
 北斗は幹が友達の話題を出すと、にこにこと嬉しそうにする。この辺が兄だと誤解される理由かもしれない。
 そういえば、北斗は出会ってからずっと、幹をくん付けで呼ぶ。自分は年上の北斗を呼び捨てにするのに、北斗はとても丁寧に呼んでくれる。
 それがなんだか嬉しくて、くん付けなんて気持ち悪いと言えずにいる。
 北斗が自分のことを呼び捨てにする日が来るかな?と考えてみるが、どうにもうまく思い浮かばない。もしかしたら、ずっとそのままかもしれない。
「それもいいかも」
 幹は自分だけが北斗の特別なら嬉しいと、僅かに笑みを浮かべる。
「何がいいの?」
 北斗が不思議そうに聞いてくる。
「なんでもないよ。たいしたことじゃない」
 幹が隠すと、北斗は少し不満そうな顔をしながらも、それ以上は追求してこなかった。