好きという気持ちで強くなる











 朝、駅に着くと北斗が待っている。
 その姿を認めると、幹は小走りになって急ぐ。
「おはよう! 北斗」
 朝の挨拶は大切だ。何より、北斗がとても気持ちのいい笑顔で「おはよう、幹君」と言ってくれる。それがとても嬉しい。
 一日がとても清々しくなる。
 どんなに大量の宿題が出て、前の晩に夜遅くまで苦労して、寝不足だったとしても、北斗の笑顔を見るだけで吹っ飛ぶ気がする。
 電車も混んでいるが、北斗と一緒に乗っていると、少しも苦じゃない。
「幹君、大丈夫? 慣れるまで大変だよね」
 特に月曜日は混み方が酷い。はじめて電車通学する幹を、北斗は先輩としてとても気遣ってくれる。
 大人に囲まれると、電車の中の空気が薄くなるような気がする。
「大丈夫。北斗こそ、大丈夫か?」
「なんとか」
 北斗は苦笑しながら、電車が学校の最寄り駅に着くのを待っている。
 電車を降りると、学校までは歩いて五分ほど。すぐに着いてしまうのが、少しばかり不満だ。
 校門が中学と高校では別だというのもまた腹が立つ。その分、北斗と早く分かれなくてはならない。
「じゃあね。また帰りにね」
 それでも北斗が帰りの約束をしてくれるのが嬉しい。
「またな」
 高校の校門の方が遠くにあり、北斗は道を先に進んでいく。幹は校門を潜る。
 中学に入ってすぐにテストがあり、それが済んだ途端、授業は早いスピードで進んでいた。とても中学に馴染んでからという感覚ではない。
「本城、おはよう」
 教室に入ると、何人かと挨拶をする。既にクラスメイトの名前は覚えたが、気の合いそうなのは数人だと感じている。
 かなりの難関を勝ち抜いてきたという自負の強い者とは、どうしても距離を置いてしまう。
 最初のテストから、順位発表があってげんなりしていたが、それがランキングにこだわる生徒に火をつけたらしい。
 幹はクラスで五番以内に入ったのだが、それでライバル視した生徒がいて、ちょっとしたことで睨まれたりするので、なるべく関わらないようにしている。
 成績ばかりにこだわるのではなく、気さくに話せるクラスメイトも何人かいた。
 それでもすぐにグループを作るようなことはせず、その辺は慎重にしている。
「本城ってさ、いつも高等部の人と一緒に登校してるけど、お兄さん?」
 こいつとは気が合いそうと思っている、鷹森聖一郎が話しかけてきた。
「違うよ」
 あまり詳しく説明したくない幹は、否定だけして、話を反らせようとする。
「中学の時の先輩とか?」
 鷹森は幹の話したくない空気を察したのか、それ以上は聞いてこなかったが、横から首を突っ込む者がいた。
 幹にとっては、とても気が合いそうに無いと感じている、岡田である。
「違う」
 岡田はテストではクラスで最下位を記録したにもかかわらず、その後もあまり勉強をしているようには見えない生徒である。宿題はしてこないし、授業中も落ち着きがない。鵬明に入ったというだけで満足し、あとはもうそのエリート気分だけで六年間を過ごせると勘違いしているパターンだ。
 噂話も大好きで、教師陣の趣味嗜好にも既に詳しく、時には助かるが、ほとんどがゴシップと思われる。
「俺さ、あの人を入試の時に見たよ。高校のボランティアで来てた人だろ?」
「よく覚えてるのな、岡田」
 答えたくない幹に代わって、鷹森が少しずつ話を逸らせようとしてくれる。
「あの人、とても優しそうじゃん。同じ塾の奴が受けた教室のボランティアは、なんか怖そうで落ち着かなかったって言ってたもん。そいつ、落ちたんだけどさ」
 受験のライバルとはいえ、同じ塾の仲間が落ちたことを笑うので、ますます好きになれそうにないタイプだと思う。受験の日に、幹は岡田と同じ教室にいたことになるが、見覚えはなかった。
 岡田もボランティアの北斗のことは覚えていても、中にいた生徒全員のことは覚えていないらしい。
「俺の教室は、なんか中学生みたいな人だったな。ほら、入学式の時に、このクラスの案内係してた人」
 冬樹だ、と幹は確かに中学生に見えなくもない、幼い外見の冬樹を思い出す。
「あ、知ってる知ってる。本城のことをミキちゃんって呼んでた人だろ?」
 岡田の発言に幹は本気でげんなりした。全く油断がならない相手だ。
「モトキか、ミキか、どっちが本当の呼び方だ?」
「モトキだよ。自己紹介のときに言っただろ?」
「えー、ミキちゃんの方が可愛いよな」
 岡田はニヤニヤ笑いながら、鷹森に同意を求める。どうも人の嫌がることをするのが好きらしい。
「俺もこれからミキちゃんって呼ぼう」
 そんな呼び方、みんながするわけないだろうと思って、幹はもう相手をしないことにした。
 冬樹の悪ふざけのおかげで、本当に迷惑だと思う。
 その迷惑をかけた張本人は、ちゃっかり北斗とまた同じクラスに収まっていて、憤懣やるかたない。
 今度見かけたら、絶対文句を言ってやると誓った。


「北斗、おはよう」
 幹に恨まれているとも知らず、冬樹は朝から暢気に北斗に挨拶をしている。
「おはよう、清水君」
「そろそろさぁ、冬樹って呼ばない? 一年以上友達なんだしさぁ」
 俺は北斗って呼んでるだろう?と続けて言ってから、北斗の肩に手を置く。
「う、うん」
 一応頷くのだが、なかなかそれができそうにない。
「今朝もミキちゃんと一緒に来たの?」
「うん」
「仲いいのなー」
 北斗は肯定の意味で小さく笑った。
「そんなに話すことってある? 年下だし、話が合うのかなっていつも思ってんだよね」
 冬樹に聞かれて、北斗は小首を傾げる。
「うーん、たくさんあるよ。幹君の話、楽しいし」
「そっかー」
 冬樹は楽しそうに笑う。
 今朝はたまたま電車が一緒で、二人のうしろを歩いてきたのだが、幹が一方的に話をしているように感じていた。それで北斗はあまり楽しくないかもと思っていたが、聞いているだけでも楽しいのかと、少しばかり呆れてしまう。
 それ以上は突っ込む気にもなれず、冬樹は本来、今日話そうと思っていた話題を持ち出した。
「そんなラブラブの二人に水を差すようで悪いけど、体育祭の係、何にする? 俺、北斗と一緒のにしようと思っててさ」
 鵬明の高等部の体育祭は、五月の中頃に開催される。なるべく受験勉強に差しさわりのない時期を選んだ結果、秋よりも春の方がいいと判断したのだろう。
 そして高等部の二年生が、色々と役割を決めて盛り上がることになっている。
「体育祭かぁ……あまり考えてなかったんだけど」
 一年生の時は訳もわからずに参加するので、傍観者的な立場だった。上級生に引っ張られて、さすが高校の体育祭は派手だなぁと感心していた程度だ。
「一緒に応援団に入らない? 俺、去年からやりたいと思ってたんだよ。ちょっと派手だけどさ、俺たちクラブに入ってないだろ? そういうの、やっぱり大学に入ってから、上の繋がりがなくて大変なんだってさ。でも、応援団に入っていたら、クラブの後輩と同様の扱いしてもらえるって。色んな情報貰えるらしいんだ」
 特にどこに入りたいと思っていたわけでもなかった北斗は、どこかメンバーが足りないところでいいかと思っていたが、冬樹に誘われると、それもいいかなと感じた。
「応援団がいつも一番人気があって、抽選になったりするんだけど、一緒に選ばれるといいな」
 くじ運のないほうだという自覚のある北斗なので、抽選漏れの可能性の方が大きいなぁと半ば諦めていた。
 しかし無欲の勝利なのか、北斗は当たりを引いた。そして冬樹の方は執念の勝利なのか、こちらも当選する。
「よし! これからは、北斗と冬樹の親友コンビだ!」
 興奮気味の冬樹に肩を組まれて、拳を振り上げられると、北斗も釣られて嬉しくなった。
「頑張ろうね」
「おー!」
 応援団に選ばれたのはクラスで七名で、早速その日から打ち合わせと練習が始まることになった。


 待ち合わせの校門前に現われたのは北斗一人ではなかった。
 幹にとっては天敵の冬樹の姿がある。
 嫌な予感がする。
「あのね、体育祭の練習が始まるんだ。もう、今日から始まってしまうから、一緒に帰れなくなった。ごめんね」
 嫌な予感というものは当たる。しかも最悪の形で。
「体育祭っていつ? それまでずっと?」
 ついむっとして、問い返してしまう。
「体育祭は五月の第二土曜日で、……それまでは毎日あるんだって」
「ほとんど一ヶ月じゃんか。どうしても参加しないと駄目なのか?」
 詰るように言ってしまう幹に、困りきった顔をする北斗。
「だいたい、どうしてあんたがここにいるんだよ」
 そんな二人をニヤニヤ笑いながら見ている冬樹。
「俺も北斗と一緒に、応援団をするから。これから一緒に練習に行くんだよ」
 一緒、一緒と繰り返され、ますますイライラが募る。
「やめろよ、そんなの。もっと練習のないのもあるんだろう?」
 そうすれば一緒に帰れるじゃないか。幹は叫びそうになった。
「うん……だけど。もう決まっちゃったし、僕がやめたら、抽選に外れた人に申し訳ないし」
「譲ればいいじゃん」
「それは……無責任すぎるから」
 一度決められたことを、自分の都合で覆すことなど、北斗にはできっこないだろう。
 幹はそれ以上責めることができずに、ただじっと睨んでしまう。それがどんどん北斗を困らせることになるとわかっていても。
「体育祭が終わるまでだから」
「じゃあ、待ってるよ。練習が終わるまで」
「駄目だよ。遅くなるっていうし、そんな時間まで、中学生を待たせられない。宿題も多いだろう? 先に帰ってて」
 北斗の説得に、グサリと突き刺さるものを感じた。
「……明日の朝、いつものところで待ってる」
 その時に話そう。……待っていたいと。北斗が終わるまで、学校に残って自習していれば、問題はないはずだ。
「あ……ごめん……あの……」
「朝練があるんだよ。体育祭が終わるまでだからさ、ミキちゃんも中学の友達を作るいい機会じゃないか」
 冬樹の言葉に、幹は目の前に壁を作られたような気がした。
 目の前にいるのに、北斗が見えない。
「ごめんね、幹君」
 否定してくれない北斗は、自ら壁の向こう側に行ってしまったような疎外感を感じる。
 どうして傍にいてくれないのだろう。
 どうして中学生という言葉で、別の場所に立たせようとするのだろう。
「気をつけて帰ってね」
 とてもすまなそうに手を振る北斗に、かつあげされるような高校生よりはちゃんと帰れるよと、心の中で悔しさを噛みしめる。
 遠ざかる二人の背中が涙で滲む。
 泣けば北斗は戻ってくれるだろうか。
 振り向いて欲しいと願うのに、そんな時に振り向くのは冬樹のほうだ。
 情けない顔を見られたくなくて、幹はくるりと向きを変え、駅へ向かって走り始めた。