吐く息が白くなってくる頃、生徒達は登校すると足早に教室へと急ぐ。教室は朝から暖房が入れられて暖かいからだ。 北斗もみんなと同じように、冷たくなる手を早く温めたくて、階段を上っていた。 「おはよう、北斗。今朝はそんなに急いだら、後悔すると思うよー?」 冬樹が北斗に追いついてきて、朝の挨拶と一緒に、意味深なことを言う。 冬樹は学園祭以来、北斗のことを苗字ではなく、名前で呼ぶようになっていた。 「おはよう清水君。何かあるの?」 北斗は踊り場で足を止めて、急ぐ生徒達の邪魔にならないように、端に寄った。 「掲示板、見た?」 冬樹の言っているのは各教室にある掲示板のことではなく、職員室の廊下にある全校生徒に向けた掲示物を張り出すほうのことであろう。 「まだだけど」 それをじっくり見る生徒は少ない。真面目な北斗でも通りがかりに気が向いたときにしか見ないほうだ。 大切な用事はクラスの方にも張り出されるし、もっと重要なものは各自にプリントで配られるからだ。 「じゃあさ、見ておいでよ。絶対、見た方がいいと思うな、俺は」 何だか北斗の反応を楽しんでいるようではあるが、掲示板を見るくらいは構わないので、今上ってきた階段を下りることにした。 冬樹も一緒についてくる。 「何があるの?」 「見てのお楽しみ。あ、そうだ。それで北斗が俺に感謝してくれるなら、ジュースくらいは奢ってもらうかなー」 冬樹は北斗が感謝することが間違いがないように言う。 「清水君、ちゃんと掲示板を見てるんだ」 誰もちゃんと見ないと思っていたのに、冬樹に教えられたことが、実は以外だったりする。 「北斗は外部進学だから、知らないだろうと思ったんだ。いつも今頃だから、今週に入ってから気をつけてたんだよな」 いくら説明されても、肝心な内容のことを言わないので、北斗には何のことやらさっぱりわからなかった。けれどすぐに職員室の前に到着したので、北斗は先にそれを見ることにした。 掲示板には登下校時の交通安全についての注意や、校内美化運動のスローガンなどに混じって、冬樹の言っていたと思われるプリントが一枚、ごく控えめに張り出されていた。 その題名を見て、北斗はすぐに真剣な顔つきになり、食い入るように中身を読み始める。 その横顔を見て、冬樹はこの数日、ここに通って良かったなと感じた。 「どう? 俺に感謝する?」 全部を読み終わったと思われるタイミングで声をかける。 「う、うん。えっと、ジュースでいい?」 お昼ご飯でも奢ってくれそうな勢いの北斗に、ジュースも冗談だったのにと、冬樹は笑った。 「教えてくれてありがとう」 こんな素直に謝辞を言われると、こちらのほうが照れてしまう。 「そこまで感謝しなくていいよ。いつか北斗が自分で見たかもしれないのに」 「ううん。今朝教えてもらってよかった。だって、このボランティアが定員に達してから見たら、ものすごく後悔したと思うから」 ボランティアの募集にここまで喜ぶのも北斗くらいなものだろう。 「俺も一緒にボランティアに参加しようかなー」 少しばかり意地悪なことを考えて、冬樹は北斗の反応を窺った。けれど北斗はまた真剣に掲示板を見ていた。 その横顔を見て、冬樹は微笑む。 北斗と仲良くなれて良かったなと思うのは、純粋な北斗を見ているときに強く感じる。今の北斗のような。 「そろそろ行こうよ。朝のホームルームが始まっちゃうよ。申し込むのは昼休みでいいだろ?」 本当に時間が迫っていたので、冬樹は北斗の腕を引っ張った。名残惜しそうに北斗は掲示板の前を離れたのだった。 緊張しながら願書に清書する。 書き漏らしがないか、両親がそれぞれに確認し、自分でも三度も見直して、さらに担任がしっかりとなめるように見てから、厳重に封をした。 提出するのは年も押し迫った、終業式の翌日だった。世間ではクリスマスという浮かれた時期だが、受験生にはクリスマスも正月もないのは、覚悟の上だった。 「北斗!」 それでも中等部の門のところで北斗の姿を見つけた幹は嬉しくて駆け寄った。 「そろそろ来るころだと思ってたんだ」 昨日の夜、メールで幹が願書を提出に行く時間を確かめていたのは、待っててくれるつもりだったんだと、幹は感動する。 緊張はしていたが、同時に心強くもあった。 「ここで待ってるから、行ってきて」 「わかった」 「頑張ってね」 北斗の励ましに笑いがこみあげてくる。 「まだ願書を出すだけだよ」 「そうだけど、頑張って」 「うん。ありがとな。行ってくる」 北斗が待っててくれると思っただけで、幹は俄然ファイトが沸いてくる。 背中に北斗の視線を感じる。まるで北斗が一緒にいてくれるような気持ちで、幹は中等部の校舎へと入る。 受付で願書を提出し、手続きされるのを待つ。五分ほどで幹の受験票は発行された。 「頑張ってね」 事務員の女性に励まされ、幹はごくりと息を呑んで頷いた。 「ありがとうございました」 ぺこりと頭を下げて、受験票を受け取り、幹は外へ出た。そこから一気に校門まで走る。 「北斗! ほら、受験票!」 幹は受験票を北斗に見せた。自分で受験番号を確認するより早く、北斗に見せてしまう。 「59番。合格の番号だね」 北斗の言葉に幹は「えっ?」とそこでようやく自分の受験をしっかりと見た。 そこには確かに59という数字が記入されている。 「本当だ、59番」 幹がびっくりしていると、北斗はクスクス笑う。 「ちゃんと見てなかったの?」 「まぁね。ははは、本当にゴーカクの番号だ」 「大切に保管してね」 北斗に言われて、幹はしっかりと鞄の中にしまいこんだ。 「寒くない? 絶対に風邪を引かないようにしなくちゃ」 「大丈夫。でも、さすがに寒いね。北斗は? もう帰れる?」 幹の願書提出を見守るためだけに登校してきた北斗だが、自分の用事はもう済んでいたように振る舞って、一緒に下校する。 「いよいよだなぁ。なんかさ、緊張する」 「大丈夫。いつもの幹君でいればいいんだから」 「その平常心が難しいんだよなー。北斗は? 受験の時、緊張した?」 「緊張したよ。でも、言い聞かせたんだ」 「何を?」 「みんなも絶対に緊張しているんだから、って」 それは確かにそうだろう。受験の当日に緊張しない奴なんていない。 「それ、俺も言い聞かせよう」 「大丈夫、大丈夫」 「根拠がないよなー、北斗の大丈夫は」 幹はおかしくて笑った。すっかり普段の幹らしくなっている。 これもまた北斗のおかげだと思う。 二人で楽しく会話しながら、駅までの道程を歩く。 鵬明に合格すれば、朝も一緒に行けるし、帰りもこうして肩を並べて歩くことができる。 そうしたいなと思って始めた受験勉強は、願書を出す今日、予行演習のように実現した。 これが毎日……。そう考えると、ますますやる気が出てくる。 本当に北斗がいてくれて良かった。 あと少しの期間を、適度なやる気と緊張感をもったまま乗り切れるかどうかは、受験生にとって大切な課題でもあった。 妙な焦りが出たり、過剰な自信を持ったりして、自滅する受験生もいると、塾の講師が今の時期の危険度を説明した。 やる気と努力を維持するのは、それだけ難しいのだろう。 その意味で、北斗のアドバイスや応援は、とても有り難かった。 ラストスパートは年末年始にかかる。 初詣は北斗と一緒に行きたかったが、そんなことも言ってられなくなった。 塾の年越し合宿が行なわれたからだ。 北斗も除夜の鐘を聞きながら家族でお参りに行くのが習慣らしく、おめでとうメールを交換しただけになってしまった。 「来年は一緒に行けるしっ」 すべては合格してから。 そんなプレッシャーも目的があるから励ましに変えられる。 北斗は年が明けてから幹の家に顔を出してくれた。 「明けましておめでとうございます」 マフラーをぐるぐるに巻いた北斗の姿に幹は笑ってしまう。 「これを持ってきたんだ。初詣のお土産」 小さな青いお守り袋の裏には、少し離れた場所にある学業の神様で有名な神社の名前が刺繍されていて、表には合格祈願と記されている。 「他にも持ってるかもしれないけれど、神様同士は喧嘩しないんだって。ちゃんと神社の人に聞いたから。たくさん神様がついているほうが、心強いかなって思って」 わざわざ神社の人に確かめたという北斗が、あまりに彼らしくって、その姿を想像すると笑えてしまうのだが、それが自分ためだとわかるので、不覚にも涙が出そうになる。 本当は北斗がいてくれるだけでもう充分なのだと思っているのだが、幹はそれを買ってくれた気持ちが嬉しくて、大切に手の中に握りこんだ。 そうして一月も末になり、幹は受験当日を迎えた。 その日は鵬明は、中学部も高等部も一斉に休みになる。 各地から集まってきた受験生は、私服もあり制服もありでバラバラの印象だったが、共通しているのは緊張しているとありありとわかるその表情だろうか。 幹も家を出るときから、受験票は持ったのか、お弁当は入れたのか、筆記用具に漏れはないかと、母親がうるさかった。それに一々「持ったってば」と答えながら、鵬明までやってきた。 校門では塾の講師たちが、最終の見送りをしてくれる。背中を叩いて喝を入れる講師もおり、受験らしい風景が展開されている。 幹も塾の講師から実力を出しきれと書かれた携帯カイロをもらった。 いよいよ本番だと思うと、さすがの幹も緊張が高まってくる。そうすると周りの受験生みんながとても賢そうに見えて、自分の合格は無理なのではないかと、少しばかり弱気が顔を出す。 「大丈夫、大丈夫」と北斗の口癖になってしまった言葉を自分で繰り返して、表示された受験番号に従って教室に入ろうとした。 「受験番号59番。本城幹君。頑張ってください」 教室の入り口で受験票を見せて入ろうとして、かけられた声に驚いて顔を上げた。 「ほっ、北斗っ?」 制服を着た北斗が立っていた。教室の中にはもう一人、高校生がいた。二人の胸には「第3教室案内係」と書かれたプレートがつけられている。 「幹君の席はここだよ」 各教室に二十人ずつの配列らしく、後ろの出入り口のさらに後から二番目に59番の番号札が貼られていた。 「僕は出口側にいるからね」 小さな声で幹に囁いて、北斗は次にやってきた生徒の案内に行ってしまった。 席について北斗たちの様子を見ていると、高校生は受験生に席の案内をしているらしかった。 開始時間が近くなり、席が埋まると、注意事項の放送が始まった。その中に各教室には二名ずつの高校生が案内係として配置されており、彼らが受験生のサポートをすると説明された。 『高校生たちは今日のためにボランティアに名乗り出てくれた、優しい先輩たちなので、困ったことがあれば声を掛けるように』 幹が振り返ると、北斗は出口近くの椅子に座り、幹を見ていた。優しい笑顔で頷いてくれた。 大丈夫。北斗の声が聞こえたような気がした。 今まで感じていた不安が消え、落ち着いて試験に臨めそうだった。 答案用紙が配られた。 鉛筆を握りしめ、幹は強い気持ちで始まりの合図を待った。 |