好きという気持ちで強くなる











 秋も深まり、塾に通うのにジャンパーが必要になる頃、幹の生活は受験一色になっていった。
 私立中学の試験は一月の半ばにある。そのため、もう余裕も何もない毎日だった。
 学校から帰れば問題集をひたすらに解き、夕飯もそこそこに塾へ行き、帰ってからも日付が変わるまでは勉強漬けだった。
 唯一の息抜きは塾の前に駅前で北斗と会い、帰ってから交換する北斗とのメールだけだった。
 嫌になるほど勉強をした。
 塾の教師は「君たちは一度の受験でこの先、勝ち続ける生活を送れるのだ」と言う。高校受験も大学受験も、より良い中学に受かったかどうかでもう決まったも同然だと言い切った。
 十二月になれば学校へも通うなと言った。
 確かに学校では教科書のことしか教えないし、それは全く受験には関係ない。それどころか、風邪を移されたり、怪我をしたりすると、今までの苦労が水の泡になるというのが、講師たちの理論だった。
 幹も何が何でも鵬明に受かりたいので、今まで以上に真剣に取り組んだ。
 先日行なわれた全国模試でも、幹は頑張って、一番という手応えを感じていた。自分でもよくできたという自信があった。
 けれど……。
「嘘だろ……」
 模試の結果を手に、幹は言葉をなくしていた。
 鵬明の合格判定は『C 受験校の再考を』
「あとで面談をしような」
 結果用紙を返してくれた塾の講師が固まる幹にそっと告げた。
 鵬明しか考えていない幹は、志望校にも鵬明しか書いていない。
 面談をと言われても、他の中学を受ける気持ちなどなかった。
 今回の模試はかなり信憑性が高く、受験校を決める最終の判断材料となるものだった。
 つまり、この結果が悪ければ、鵬明を受けるのは考え直したほうがよいということだ。
 何度見直しても『C』の文字はBやAに変わってくれない。幹は用紙をぐしゃりと握り潰した。
 ……こんなの、北斗に言えない。
 本当はA判定の自信があった。それを北斗に見せてやるんだと張り切っていた。
 なのに、この悲惨な結果では、北斗に見せるどころか、言えもしない。
 北斗だって、この模試の結果を楽しみに待ってくれているのに……。
 握り潰した結果用紙を、幹はデイパックの底に突っ込んだ。


 携帯電話がメールの着信を報せる。
 北斗からだと幹はドキッとなった。
 いつもならこのメールを楽しみに待っているのに、今夜ばかりは中身を見るのが怖かった。
 けれど返事を出さなければまた心配をさせてしまう。
 幹は恐る恐るメールを開いた。
【お帰り。寒くない?疲れたときは早めに寝るほうが効率が上がるよ】
 優しい気遣いのメールは、模試の結果を問うものではなかった。多分、北斗は幹が言い出さない限り、積極的に聞いてきたりしないだろう。それが北斗なりの気配りだとわかって、ほっとすると同時に、良い報告をできない自分が悔しい。
【ただいま。今夜は疲れた。また明日話したい。おやすみ】
 逃げるようなメールを送ると、すぐに返事が届く。
【暖かくして寝てね。布団を蹴らないように。おやすみ】
 北斗の心配そうな顔がすぐに思い浮かんで、幹は力なく笑う。
「言わないなら言わないで、きっと心配するよなぁ」
 北斗の性格を思うと、結果を言わなければ、悪かったのだろうと予想してきっと幹に確かめたりしないだろう。
 けれどそうなった時は、どれだけ悪かったのだろうかと、ひどく心配をしてくれそうな気がする。
 幹自身黙っているのが辛かった。
 母親は『他にも受けられる中学校はいっぱいあるんだから』と妙な慰め方をしてくれた。
 むしろ『もっとしっかり勉強しなさい』と言われた方がすっきりする。
 当り散らしたい気持ちがあふれ出してしまい、『鵬明しか受けない!』と改めて宣言してしまった。そうしたら『公立もいいわよねぇ』と、これまた全然慰めにならない言葉を返され、馬鹿らしくなってしまった。
「こんなに頑張ってるのに……」
 目の前に広げられたノートにグシャグシャと鉛筆で落書きをする。そんなことをしても、やっぱり気持ちは晴れなかった。


「鵬明、駄目かもしれない」
「え?」
 顔を見るなり、そう言ってしまった。
 なるべく心配をかけないように、模試の結果など気にしていないように、さり気なく結果を告げて、本番は頑張るからと言うつもりだったのに、北斗の顔を見るなり、情けない言葉が飛び出してしまう。
「C判定だった。志望校を考え直せってさ」
 悔しくて俯いてしまう。いや、北斗の反応を見るのが怖かった。
 あんなに勉強して、教えてもらって、なのに結果が惨憺だとしたら、呆れられてしまわないだろうか。
 母親のように別の中学校もあるよねなんて言われたりしたら、耐えられそうにもない。
「結果票、今持ってる?」
 俯いた頭の上から響いた声は、いつもの北斗の声で、馬鹿にしたり呆れたりしてないとわかった。
 幹は頷いてデイパックの底から結果票を取り出した。
 カサコソと紙を広げる音がする。
 何か言われるのだろうかと、幹はドキドキした。
「幹君、前より志望人数が増えてるよ」
「は?」
 北斗の言ったことがわからなくて、幹は顔を上げた。その目の前に用紙が差し出される。
「ほら、確か、前は鵬明の志望者がもっと少なかったんだよ。それがここにきて、かなり増えてる。うーん、倍くらいになってるかな?」
 北斗の指差す数値を見るが、前を覚えていないので、その違いがわからない。そんな数字を気にしたことがなかったのだ。
「多分ね、最終調整で志望校を変えたりして、様子を見ている子が多いんだよ。この判定、あまり信用できないよ」
「でもさ、結局は鵬明を受ける奴が多いってことだろ? それにここの模試、かなり信用できるって塾の先生が」
「社会が今回もちょっぴり低いなぁ」
 いきなり話題が志望人数から点数へと移って、幹は目をパチパチする。
「幹君の苦手な分野が出たんじゃない?」
「う……まぁ、……少しだけ」
 それでもいつもより少しだけ点数が低かっただけだ。
「これだけ志望人数が多いとね、一点二点で判定がガラリと変わっちゃうんだ。だからね、気に病むことないよ。こんなの気にしないで」
 北斗はいつもの笑顔で幹を見てくれた。
「でも……」
「幹君は頑張っているんだから、一時的な判定なんか気にしないでいいよ。幹君が信じるのはね、自分の努力だよ。信じてあげないと、今までの幹君が可哀想だよ」
 ね? と念を押されると、鼻の奥がつんとする。
 泣きたくなるほど嬉しかった。
 幹の気持ちを優先して、志望校を変えろとか、他も受けてみたら?とか勧めず、かといって決して勉強だけを強要しない北斗の気持ちに、涙が溢れそうになる。
 冷え切っていた心の中が少しずつ暖かくなるのがわかった。ついさっきまで氷のように冷たかったのに。
「社会もね、きっと幹君の考え方を少しだけ変えるだけで、もっとできるようになるよ。幹君は理系が得意でしょ? 僕は文系の方が好きなんだ。だから幹君がどうして社会を苦手としているか、今の勉強法のどこが間違っているのか、なんとなくわかる。少しだけ意識を変えるだけで、もっと社会が面白くなるよ」
「ほんとに?」
「うん。幹君は何が何でも暗記しようとしているでしょ? だから問題を見たときにごちゃごちゃになってしまうんだ。今日から繋がりを意識しながら勉強してみて。もっと覚えやすくなると思う」
 本当にそれだけで覚えられるのだろうか。期間だってもうほとんど残っていないに等しい。とにかく一問でも多く解いて、詰め込まなくてはいけない時期なのに。
「焦っちゃ駄目。もう受かるだけの実力があるんだから、あとは自信と、落ち着きと、時の運だよ」
「運って……。運がなかったら駄目なのかよ」
 幹は笑いながら突っ込んだ。
 運だけはどうしようもない。努力しても手に入れられないものだ。
「幹君にはあるよ。僕が保証する。だってさ、幹君にはパワーがあるから」
「パワーって……」
 またそんな不確かなものをと、幹は可笑しくなる。必死で励まそうとしてくれる北斗の気持ちが嬉しい。
「どうして笑うかなぁ。大切なことなのに。自分を信じてあげなくちゃ、運も逃げちゃうよ。自分を信じない人は、運にも嫌われちゃうんだって」
「そんなこと、誰が言ったのさ?」
「田舎のおばあちゃん」
 その言葉を覚えていて、それを今励ますために言ってくれる北斗が、とても可愛く感じられる。
 ある意味、幹より必死に、幹を信じようとしてくれているらしい。
「じゃあ、北斗のおばあちゃんの言葉、信じてみる」
「僕の言葉だとやっぱり信用できないのかー」
 ほんの少しだけ不貞腐れたように北斗が呟くのもまた面白かった。
 昨夜あんなに悩んだことが、今はあまりに馬鹿らしくなってしまった。
「俺、頑張るよ。いじけてないでさ」
「もう幹君はたくさん頑張っているよ。あんまり詰め込みすぎないでね」
「うん、ありがとう」
 外の寒さも忘れて、ほっこりと温かくなった心で、素直に礼を言えた。
「もう塾の時間じゃない? 大丈夫?」
「うおっ、いけねぇ。じゃ、じゃあなっ、北斗。またなっ」
 慌ててデイパックを背負い、幹は駆け出した。
「頑張ってねっ!」
 確か頑張り過ぎるなと言ったよな?と幹はクスッと笑う。
 他の誰かに言われたら、もう頑張ってるよと腹の立つ言葉だが、北斗に言われると力がわいてくる。
「なんだ、北斗の言うパワーって、北斗がくれてるんじゃんか」
 それが嬉しくて、幹は振り返って、勢いよく手を振った。
 北斗も慌てて手を振り返してくれた。