好きという気持ちで強くなる








 幹線道路から外れているせいか、北斗の家は本当に静かだった。
 増築したという二階も、一階とは基礎が別になっているからか、階下の音も伝わってこない。
 下には北斗の母親が居るはずだが、物音も一つも聞こえてこない。
 これが幹の母親なら、何かを落としたり、ぶつけたり、歌を歌ったり、テレビを相手におしゃべりをしたりと、賑やかだ。
「ここ、静かだよねぇ」
 難しい算数の問題を解き終わったところで、幹は鉛筆をゆらゆらと揺らしながら、ぽつりと呟いた。
 北斗はもう課題を終わって、幹の算数を見ている。
「うーん、そうかな?」
「そうだよ。夜とか、寂しそうな感じ」
「夜はどこも静かなんじゃない?」
 北斗は首を傾げて幹を見る。本気でそう思っているらしく、不思議そうに聞いてくるから面白い。
「俺のところはね、表通りを通る車の音とかうるさいよ。夜なんかね、酔っ払いが大声出しながら歩いてたりするし」
「へー、そうなんだ。勉強の邪魔になるよねぇ」
 感心している北斗は、考え込むように視線をノートに落とした。
「邪魔になるほどうるさくはないよ。むしろこんなに静かだと、落ち着かないかも」
 人は環境に慣れやすいというが、自分の居る環境の方が落ち着けるというのが、興味深い。
「今度泊まりに来るといいよ。幹君も静かなのに慣れられるかもよ?」
「ええっ!」
 北斗は幹の勉強の環境が少しでも良くなればと思って提案しただけなのだが、幹の異様な驚き方に面食らってしまう。
「と、泊まりって…!」
「ご、ごめん。嫌だよね、こんな古い家」
「そうじゃなくて…っ!」
 完全に勘違いしている北斗に、それを否定しながらも、幹はどうしてこんなに慌てるのかと、自分をも問い詰めたくなる。
「布団を二つくらい、並べられるんだけどなぁ」
 お願いそれ以上言わないで。
 幹は真面目に誘う北斗に、嫌がっているのじゃないけれど、泊まりは避けたいというのをどう説明すればいいのだろうかと、必死で考える。
 本心は泊まりたい。北斗と一緒に修学旅行なんて絶対に行けないのだから、枕を並べて夜中まで色んなお喋りをするというのは、とてもやってみたい。
 けれど幹の記憶の中には、夏のプールで見た北斗の裸体が、まだ鮮明に甦ってきて困ることがあったりするのだ。
 北斗の裸体にドキドキするのも、それを思い出して困った気持ちになるのも、幹はどのように処理をしていいのかわからないのだ。
 そんな中で北斗と一緒に泊まりだとか、それはもっと困ったことになりそうで、今は避けたかった。
「やっぱり受験が終わるまでは無理だよね。うちは隙間風とかもあるし、幹君に風邪を引かせたりしちゃ駄目だから」
 北斗が残念そうに言ってくれるので、幹は申し訳ないなと思いながらも、北斗の近い位置に自分がいてもいいのだと言われているようで、その気持ちが嬉しかった。
「頑張って合格する。そんでー、北斗の家にも泊まりに来る」
 それまでには、このモヤモヤも晴れてくれているといいなと、幹は思った。
 幹の決意と返事を聞いて、北斗もうんとにっこり笑う。
「幹君は今でも十分に頑張っているから、これ以上は無理だけはしないようにしてね」
「わかってるって」
 北斗の何が何でもがんばれという応援ではない、思いやりに溢れた言葉が、幹の心を温かく包む。
 ご馳走になった昼食はトマトとモッツァレラチーズのパスタとコーンスープ、ツナサラダ、フライドチキンとポテトという豪華なものだった。
 日曜で家にいた北斗の父親も食卓について、一緒に食事をした。
 父親も穏やかに喋る人で、とても和やかに時間が進んだような気がする。
「こんな年寄りと一緒に食事してくれてありがとう」
 にこやかに微笑まれてお礼を言われると、幹はとても照れくさくなってしまった。
 おやつは北斗の推理どおり、スイートポテトパイだった。ケーキ屋さんで買ってきたのかと疑いたくなるほど美味しかった。
「男の子だから、甘すぎないようにしたの。甘さが足りないようだったら、これを使ってね」
 添えられていたのはフルーツソースと生クリームだった。
「すごい、美味しい!」
 市販のスイートポテトパイは皮ばかり大きくて食べているとすぐに飽きてしまうが、北斗の母の作ったものは皮が薄く、何個でも食べられそうなほど美味しい。
 夕焼けが窓を染める頃、塾の時間があるために幹は渋々ながら、北斗の家を辞去した。とても帰りたくなかったけれど、塾をさぼると絶対に北斗が悲しむと思うと、仕方なく立ち上がるしかなかった。
「よければまた遊びに来てくださいね」
「幹君は受験生だから、そんなに遊んではいられないんだよ」
「そう? 残念だわ。でも、またお勉強にもきてね」
 北斗と母親ののんびりした会話がとても面白かった。だから幹はとても嬉しい気持ちで「はい!」と元気よく返事をした。
 駅まで北斗が送ってくれるというので、一緒に自転車を押した。
 乗ってしまうと喋ることができないので、幹が押しながら歩き始めると、北斗もそれに付き合うように押してくれたのだ。
「北斗と一緒にいると、勉強が苦じゃなくなるんだよな。どうしてだろう」
 答えはわかっていた。
 北斗と少しでも長くいるためには、同じ学校へ通うのが一番いい方法なのだ。
 そのためには受験に合格しなくてはならない。
 失敗したくない。合格したい。
 普通ならばその気持ちは、合格のためのパワーとなる反面、ストレスともなって自分にはねかえってくる。
 けれど北斗の傍にいると、そのストレスがスーッと消えていく。
 北斗自身の持つ優しい空気のせいだろうと思っていた。
「幹君の役に立てているんなら嬉しいな」
 決して自分を過大評価しない、感謝しろとも言わない、謙遜しながら喜んでくれる。
 そんな北斗が大好きだった。
 毎日毎日、会うたびに北斗を好きになる。
 一緒にいる時間はあっという間に過ぎてしまう。
 駅までこんなに近かったっけ?と、その距離がとても残念に感じる。
「勉強、頑張ってね」
 北斗が微笑んで見送ってくれる。
 秋風はもう肌に冷たいほどだけれど、北斗が見ててくれると思う背中は暖かいと思う。
 振り返ると北斗はまだ見送ってくれていて、バイバイと手を振ってくれる。
 幹も手を振って、塾へと急いだ。早く入らないと、北斗が帰れなくなって、もうすぐ冬だとかんじる冷たい空気に、北斗が風邪を引いたら大変だと思ったから。
 塾の入ったビルの階段を駆け上がり、窓から通りを見下ろすと、北斗が自転車に乗って走り去っていく姿が見えた。
「北斗、ありがとう。俺、頑張るから」
 小さな声で囁いて、遠くなっていく背中を見送った。