好きという気持ちで強くなる








「北斗君、きてくれたのね。ありがとう」
 6年生の保護者席を歩いていると、朗らかな声をかけられた。幹の母親がニコニコと笑いながら手を振っている。
 隣には優しそうな男性が北斗に微笑みかけている。幹の父親だろうと思い、北斗はぴょこりと頭を下げた。
「はじめまして。幹がいつも勉強を教えていただいているそうで。ありがとうございます」
 穏やかな声は少し低めで、心地好い響きを持っていた。
「あまり教えることはないです。えっと、幹君はとても優秀なので……」
 実際に幹は成績もよく、以前よりは積極的に勉強に取り組んでおり、北斗が教えることはほとんどないと言ってもいい状態だった。
「それでも、ようやく鵬明を本命に絞って、やる気を出してくれたのは、君のおかげらしいから、ありがたいな」
 父親はずっと穏やかに、にこやかに話をしてくれた。幹の外見は母親似だと思っていたが、こうして両親を一度に見ると、目などは父親に似ていると感じた。
 幹はこれから成長期を迎えるので、もっともっと父親に似てくるかもしれないなと思った。
「幹が北斗君も来てくれるって言ったから、頑張ってお弁当を作ってきたのよ、三人分」
「いえ、そんな。ご迷惑をおかけしたら駄目です。僕、途中でおにぎりとか買って来ましたから」
 まさかお弁当を作ってきてくれているとは思わなかったので、北斗はコンビニで軽食を買って来ていた。そのビニール袋を見て、母親は残念そうにしている。
「ご迷惑じゃないのに」
 少し恨めしそうに袋を見つめられると、これは持ち帰って夜食にでもしようかと迷う。
「むしろ食べていただくほうがご迷惑だよ、ママ」
 クスクスと笑う声が北斗を助けてくれる。
「大丈夫よ、今日はちゃんと試食したんだから」
 いつもは味見もしてなかったのだろうか? と北斗はいつか食べさせられたオムライスを思い出す。
「だったら大丈夫かな」
 二人で笑っている。とても仲の良い両親に、北斗も居心地好く、レジャーシートに座らせてもらった。
「幹も一緒に食べられればいいのにねぇ」
 お昼休みになってお弁当を広げながら、母親が残念そうに言う。家が近くの人は帰って食べるらしく、観覧席でお弁当を広げている家族は少ない。
「見に来られない親もいるから、そのための配慮だろう」
「わかってはいるんだけど。……北斗君、これも食べてね」
「あー、大丈夫なの、それ」
 母親が北斗におかずを勧めた時、突如として割り込んだ声があった。
「幹」
「幹君」
 さっさと自分のお弁当を食べてきたのか、はぁはぁ言いながら、幹がシートに乗り込んできた。
「大丈夫よ。幹だって食べたんでしょ?」
 母親はむっとしながら、拗ねたように幹を睨んだ。父親は横で苦笑している。
「俺のを作ってから、それを作ってただろう。危ない、危ない」
 幹はひょいと手を伸ばして、おかずの中から卵焼きを摘んだ。もぐもぐと食べてうんと頷いた。
「いける。食べられるじゃん」
「だから言ったでしょう」
 明るく笑い合う家族に、北斗も楽しくなる。幹が真っ直ぐに明るく育ったのがわかるような気がした。
「あ、集合だ。行ってくるね」
「頑張ってね」
 呼び出しのアナウンスに、幹は駆け出していく。疲れの全然見えない元気のよさに、三人は手を振って見送った。
「午後からは短距離走ね。とっても張り切っていたから、パパ、ビデオをお願いね」
「おう、任せてくれよ」
 二人がビデオカメラを用意しているのを眺めていると、後ろから声をかけられた。
「北斗さん、ちょっといいですか?」
 名前を呼ばれて振り返ると、そこに北島が立っていた。
「えっと……何かな?」
「ちょっと……来てほしいな」
 にっこり笑うととても可愛い。可愛いとは思うが、その笑顔が北斗は苦手だなと感じた。
 来て欲しいと言われても、北斗は立ち上がる気持ちにはなれなかった。彼女が原因で幹と喧嘩をしたことを忘れられない。
「ごめんね。ここで幹君を待ってるんだ」
「えー、どうしても駄目ですか?」
 困ったように手を組んで、顎を引いて上目遣いになる。
 普通の男子高校生なら垂涎物の可愛さだったかもしれないが、北斗は既に彼女を苦手と意識しているので、その姿も全く可愛いとは思えなかった。
「彼に何か話があるのなら、ここで話せばいいんじゃないかな? 嫌がってる男の子を媚びて誘うのは、小学生らしくないと思うよ」
 微妙な沈黙を裂いたのは、幹の父親の声だった。
 北島はかっと頬を赤らめて、泣き出しそうに発言者を睨んだが、それが幹の父親だということをすぐに思い出した。
「そんなつもりじゃありません!」
 それでも気の強いところを見せて、彼女は弁解をする。
「何かあったの」
 そこへ遠くから様子を見ていた幹が急いで戻ってきた。
「何もないわ。北斗さんに、この前のお礼を言おうと思っただけなの」
「この前の……って、なんだろう?」
 お礼を言われるようなことは何もなかったはずだと、北斗は首を傾げた。
 その様子に幹はぷっと吹き出した。
「北斗のこと親しそうに呼ぶけどさー、北斗は君の名前も覚えてないと思うよ。それなのにお礼なんておかしいじゃん」
「名前くらい知ってますよね」
 自分に自信のある彼女は、名前も覚えてないといわれて、そんなはずはないと、北斗を見た。
「え……っと、えー……。ごめん」
 北なんとか……、と一部は思い出せても、ちゃんとは思い出せなくて、北斗は申し訳なくて謝った。例え覚えていても、幹がそう言ったからには知らない振りを押し通すつもりだったが。
「もういいわ!」
 いたく自尊心を傷つけられたのか、彼女はぷいっと顔を背けてずんずんと離れていった。
「女の子にあんなことを言って、あとで問題にならないかしら?」
 母親は心配そうに自分の息子を見た。
「なったとしても平気だよ。どうせ無視するくらいだもん。全然平気」
 肩を竦めて、幹はまた自分の係りのために戻っていった。
「なんだかややこしそうだねぇ」
 父親ののんびりした感想に、北斗は「はぁ」と力なく返事をした。

 午後からの競技の一番の盛り上がりは、6年生の短距離走だった。
 100メートルを全力で走るのは、小学生といえども、かなりの迫力があった。
 幹のクループは前から5番目で、幹がスタート位置についたときには、北斗の方が緊張してしまって、息を詰めて見守っていた。
 ドクン、ドクンと高鳴る自分の鼓動を聞きながら、スタートラインに手をついた幹の姿を見つめていた。
 用意の声で、顔を上げた幹は、真っ直ぐにゴールを見ていた。その鋭い視線に、北斗まで白いテープが見えるような気持ちになった。
 パン!と乾いた音に、5人のランナーが一斉に飛び出した。
 幹は低い姿勢から列の先頭に飛び出し、長い足で勢いよく大地を蹴っていく。
 幹のグループはみんなが速かった。
 その中でも幹は群を抜いて速く、飛び出した勢いのままみんなを引き千切り、ゴールまでを疾走した。
 白いテープを両手を上げて切ると、幹は観覧席の北斗に向かって手を振った。
 北斗は感動と興奮に手が痛くなるほど拍手をしてから手を振り返した。
 太陽の下、輝く幹の笑顔を、北斗はかっこいいなぁと思いながら見ていた。