好きという気持ちで強くなる








 夏休みは受験生の幹にとっては大切な時間だった。
 聞けば朝から塾があり、昼も弁当持参で、午後からも授業があるという。
 北斗は高校から鵬明に入ったので、小学生の時にそんなに勉強をした記憶がなく、幹のスケジュールを聞いて頭痛が起きるような気がした。
「そんなに勉強しないとだめなのかなぁ」
 北斗がしみじみと呟くと、中学から通っている冬樹は苦笑いする。
 全国的な夏休みの期間であるが、鵬明は中学、高等部共に、強化授業の登校日である。
 午前中だけの授業で、クーラーが効いているとはいえ、夏休み中に勉強するのはなんとなく損をしているような気分になるものである。
「夏休みで決まるっていうくらいだからね。じゃあ、全然会えないんだ、ミキちゃんと」
 幹という男の子だと説明しても、冬樹はミキちゃんと呼ぶ。そちらが定着してしまったらしい。
「日曜日も模試とかがあるんだって。休みは火・木・土の午前中だけ。それも今は僕が学校だから、勉強会は無しに等しい」
 はたして相手が「勉強会」などが本当の目的にしているとは思えなかったが、北斗はそうと信じきっているので、冬樹は教えてやらないことにしていた。だってそのほうが面白いから。
 これが反対に北斗が自覚できていて、相手が自覚していなくて、北斗が悩んでいるのならまたお節介を焼く気にもなるのだが、今は相手がイライラし出すのを楽しみに待つことにした。
「ここと、他にどこを受けるんだ? ミキちゃんは」
「鵬明一本なんだって。他は行きたくないから、もし駄目だったら、公立に行くって言ってた」
 それはまたマジですね、と冬樹は驚いた。
「でも、息抜きに、八月になったらプールに行こうって約束したんだよ。ほら、滝と波のあるプール」
 少し郊外にあるプールの名前を北斗は嬉しそうにあげた。
「あぁ、あそこ。すごい怖いスライダーがあるところだ」
「そんなのがあるの?」
「うん。この辺じゃ一番長くて、傾斜も急で、人気があるところだ」
「うーん、スライダーは嫌だなぁ」
 北斗の困りきった顔に、冬樹は嫌なら滑らなきゃいいんだしと笑う。それもそうだと北斗もほっとして笑ったのだった。

『塾終わった。今日の国語は長文ばっかりで疲れた』
 午後十時過ぎ。幹からのメールが入る。
 塾が終わって家に帰りつくと、幹はよくこうしてメールをくれる。
『おかえり。頑張ってるね。僕も長文は苦手』
 メールを長く打つのは苦手で、つい届いたメールの受け答えだけになってしまう。
『明日は昼まで寝てやるー』
 幹の可愛い宣言に、北斗はクスッと笑う。
『いいな。僕は明日も学校だ。おやすみ』

『おやすみ』
 北斗に今日最後になるメールを送って、パタンと携帯を閉じる。
 北斗のメールはとても事務的で、自分のことはほとんど書かれてこない。
 こちらから送らないと、用事がなければ向こうからは送られてこない。
「ほんと、天然だよな……」
 塾の教科書とプリントの詰まった鞄をベッドから床へと降ろし、そのベッドへと寝転がる。
 帰ってきてすぐさま北斗にメールを送るのだが、北斗からのメールは素っ気無く感じる。それは北斗がメールに慣れていないからだとわかっているのだが、もう少し自分のことも書いて欲しいなと思う。
 せっかく学校が休みになったというのに、前よりも北斗に会えない。
 いっそ受験をやめてしまおうかと考えもしたが、「一緒に登校」のためには今を踏ん張るしかないと思い直す。
 夏休みには一緒に出かける約束をしているが、北斗のことだから断り切れなかったのではと疑ってしまう。
 それを確かめるのは怖かった。断りきれなかっただけとしても、一緒に出かけたいのだ。
「モトくーん、お風呂に早く入ってねー」
 階下から母親の呼ぶ声が聞こえる。
「わかったー!」
 ドアを開けて首だけを出して返事をする。
 着替えだけを持って階段を下りると、母親が先週の塾内テストの結果を見て首をかしげていた。
「これって、合格は難しいっていうことなの?」
 塾内での鵬明合格率判定はC。志望校の再考を勧めるように書かれている。
「今はまだ全員が志望校を絞らずに、とりあえず上位から書くから、合否判定も当てにならないってさ。それに俺、鵬明目指したのが遅かったから、他の奴らに比べて出遅れてるの。絶対追い越すから、黙って見てて」
 実際に、鵬明を目指す塾生たちは、小学校入学当時から頑張っていたりする。その中で最近になってから志望校を鵬明に決めた幹はかなり不利な立場だった。
「無理しなくても、近くの私立にしたら?」
「駄目。鵬明が駄目なら、他の所なんて行かない」
 宣言して、幹はさっさと浴室へ向かった。
「絶対に受かる」
 少し弱気になっていたことなど綺麗に忘れて、幹はザブンとお湯の中に飛び込んだ。


 真夏の太陽は朝から既にアスファルトを焦がすように焼いていた。
 雲一つない快晴の青空は、幹がワクワクしながら見上げているせいか、いつもより青く、綺麗に見えた。
 待ち合わせの時間よりも早く、駅前についてしまった。
 家の中でちょうどいい時間まで待てなかったのだ。背中に下げたトライアングルバックの中には、プールの用意が入っている。
 早く北斗が来ないかなと、背伸びをするようにして駅から通りを眺めた。
「まだ約束の時間よりは、早いもんなぁ」
 それでも、北斗なら人を待たせたりしないんじゃないかと思っていると、通りに北斗が自転車をこいでくるのが見えた。
 自転車置場は駅から一つ手前の信号を脇に入った所にあるので、いったん北斗の姿は見えなくなった。
 北斗が自転車を置く、そんなちょっとの時間も待ちきれなくて、幹は信号を渡って自転車置場へと駆け出した。
「北斗!」
 ちょうど鍵をかけ終えた北斗が顔を上げて振り返った。その顔が幹を見つけて笑顔に変わる。
「ごめんね、待った?」
「待った待った。早く来すぎたんだよー」
「あー、ごめ……」
 ごめんねと言いかけた北斗の言葉が、幹を前にして途切れてしまった。
「北斗?」
「幹君、背が伸びた?」
 北斗が驚くように、幹の頭の先を見つめている。
「わかんねー。身長は4月に計ったっきり。今度は9月に計るけど」
「絶対伸びてると思うよ。すごいな……、一ヶ月ほど会わなかっただけなのに」
 北斗はニコニコと前はこれくらいだったと思うと、自分の口元に手のひらを下に向けて、幹の背の高さを指し示す。
 それが本当なら、幹は3センチは伸びたことになるが、さすがにそれは無理だろう。少し伸びたのを北斗が大袈裟に捕らえているだけに思えた。
「そんなに低くなかったと思うけど」
 幹からすれば、見上げる北斗の背丈は変わらないように思えた。
「それに、北斗だって、背が伸びてるんじゃないの?」
「あんまり伸びないんだよ。でも、ちょっと伸びてるかな? だとしたら、幹君はもっと伸びてるんだよね」
 その言葉に幹は大きく頷いて、ぐっと拳を握る。
「絶対北斗より大きくなる!」
 幹の高らかな宣言を、北斗は笑いながら見ていた。
「同じくらいじゃだめかなぁ」
「だめ。だって、北斗を守るんだよ、俺」
 早く追いつきたい。早く追い越したい。
 やっぱり鵬明に入りたい。
 たくさんの決意をして、今日だけは思いっきり楽しんでやるぞと、北斗と一緒に電車に乗った。