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 週が明けてから仕事に復帰した保は、覚悟していたよりもずっと温かく課員に迎え入れられた。
「皆にも多大な負担をかけたと思う。できる限り早く挽回するつもりだ。よろしく頼む」
 見舞いの礼と長く職場を空けた謝罪を告げると、室内にまばらな拍手が起こる。
「きちんと労災扱いにして貰えてよかったですよ。現場に行っても邪魔者扱いされることが多くて、怪我をしてもこちらの責任にされるんじゃないかと、実は社員たちは心配していたんです。課長には申し訳ないですけど、先例になっていただけて、そっちの面では安心できたということです」
 保よりも以前からいる社員が、課内の雰囲気のわけを説明してくれた。
「そうか……。助かったな」
 たまっている仕事はたくさんあったが、それぞれができる限りの代行をしていてくれたので、初日からひどい残業をする必要はなさそうでほっとする。
「それに河合君が頑張ってくれましてね」
「河合君が?」
 話の終わりに声を潜めて、保が入院していた間のことを説明してくれる。
「最初はダレた空気だったんですがね、このままじゃ他の課にバカにされますよね、って言って。俺は駄目な社員の集まりだって言われたくないんだと。彼にあんなに熱い一面があるとは、正直なところ意外でした」
 見舞いに来てくれるだけではなく、課内のまとめ役までしてくれていたのだ。
「はは……見てみたかったな」
 何事にもクールで、他の社員とは一線を引いているところのあった美也が、先頭に立ち、まとめてくれたことはかなりの驚きであった。
「女性社員の評判も同時に上がったようですよ」
 そこだけは苦笑と共に報告されて、顔では笑ってみせたが、内心では焼けつくような痛みを感じた。
 元々が賞賛されるほどに美しい外見だ。その彼が先頭に立ち、手腕を揮って見せたとなると、恋する対象にならないほうがおかしいというものだろう。
 そう思って眺めてみれば、ちらちらと美也を盗み見る女性の視線が熱を帯びているように見えてくる。
 保は小さく溜め息をついて、溜まっている仕事を急ぐ順から片付け始めた。


 終業時刻を二時間ほど過ぎてから、ようやく帰れる目処がついた。
 後の仕事は明日に回しても差し支えなさそうなので、初日から無理はしないようにと言われていたこともあり、帰り支度をした。
 仕事の締めにとメールのチェックをすると、貴島本社からの連絡があった。
 それはもちろん病床にある会長からではなく、叔父にあたる専務、塚田仁一からの連絡だった。
 塚田は保の父の妹、由貴の夫である。
 メールの内容は怪我に対する見舞いと、週末に本社に来れないかと問うものだった。
 本来なら父の弟、もう一人の叔父であり、本社社長である貴島正次から連絡が来ないのかと思うと腹が立つ。
 もっとも、視界の端にちらりと見た背中が、保の記憶通りならば、あれは正次のものであり、とうてい本人からは呼び出せないだろう。
 週末の話し合いが、保の認知に関することならば、喜んで出かけるところだが、メールの末尾に母親は連れてくるなと念押しをしているあたり、用件は別のことだろう。
 塚田は会長の娘である由貴の言いなりだと聞くし、正次に事故のことで保が何かに気づいていないか確かめろと命じられれば、その通りにするに違いない。
 憂鬱な会合になるのは必至だが、行かないわけにもいかない。万が一にも自分に有利な話がないとは言い切れないのだ。
 奴らの餌を無視することのできない今の状況が悔しい。
 せめてあと少し、自分が生れるまで、母と入籍するまで、父が生きていたくれたなら……。
 そうしたら……。
 その先を考えて保ははっとした。
 以前なら、そうしたら母の入院代の心配をしなくていい、と続いていた。そしてそれだけが保の悩みの種だった。
 けれど今の保は、そこに母以上に気になる存在を付け足してしまった。付け足したことのほうが、既に保の心の中で大きな存在感を持っていた。
 そんな深層の心理に気づいてしまい、保はぞわりと鳥肌を立てた。
 父があと少しの間生きていてくれたら、母の入院代を心配せずに、美也へ気持ちを向けられる自由があったのに……。
 それは酷く黒い感情だった。
 自分の醜さが美也までも汚すようで苦しくなり、保は首を振った。
 メールには午後六時に訪問することだけを返信し、スケジュール帳に予定を書き込み、今度こそ本当に帰宅のために席を立った。
 まだ残っていた部下には先に帰ることを告げ、エレベーターに向かって廊下を進む。
 途中の休憩コーナーに人影があり、後姿で美也だと気づいた保は声をかけようとした。
「どうしても駄目ですか?」
 保が声をかけるより早く、女性の声が聞こえた。
 時刻は七時を過ぎ、人が少なくなっていた分、辺りは静かで、声が思ったより響いてしまったようだ。女性が周りを気にしていられないほど気持ちが昂ぶっていたせいかもしれないが。
「駄目ですね」
 淡々とした無機質な声だった。
 断るにしてももう少し思いやりがあったほうがと思ったのは、保も男としてそれくらいは女性に対する気遣いをするべきだと思っているからだ。
 しかし女性はそれで諦めたのか、コツコツとハイヒールの音を響かせて、休憩コーナーを出てきた。
 行き合ってしまうかと心配したが、そのまま向こう側にあるレストルームへ入っていった。
 保つが立ち聞きしていたことは知られることはなかったが、彼女が受付の女性社員だとわかってしまった。
「課長……」
 呆然と見送っていたために、彼女とは少し時間を置いて出てきた美也と顔を合わせることになってしまった。
 保も気まずく思ったが、美也もバツが悪そうに顔をそらせた。
「いや、立ち聞きするつもりはなかったんだが……。君の背中が見えたので、声をかけようとしたら……」
 言い訳をして、ぼそぼそと謝罪する。
「何か御用でしたか?」
「入院中に世話になった礼を言おうと」
 美也はクスッと笑って、笑顔のまま保を見た。
「お礼は何度も言って頂きました。これ以上言われたら、俺のほうが申し訳なくなります」
 先ほどとは違う美也の明るい声に、ほっとする自分がいる。そして少しばかりの優越感も感じている。
「じゃあ、お礼の代わりに約束の食事はどうだ? まだだろう?」
「俺はいいですけど……課長はまだ無理はしないほうがいいんじゃないですか?」
「酒はさすがに飲まないよ。食事はどうせどこかで食べていくんだ」
 我ながらしつこいだろうかと思ったが、あっさり諦める気にはなれずに食い下がっていた。
「じゃあ、食事だけ。課長の家の近くがいいですね」
 細やかな気配りに、美也の優しさと思いやりが見える。
「私の入院中に課内に喝を入れていてくれたそうだね。おかげで今後も絶望的な残業をせずに済みそうだ」
「別に普通のことですよ?」
 誰かが抜けた穴埋めをするのは仲間なら当然のこと。
 しかし、それだけのまとまりがなかったのもまた事実だった。
「いや、今まではそれができていなかったんだ。本当に河合君に来て貰えて良かった」
 心からの気持ちを述べた。
 最初の頃こそギクシャクしていたが、今の社内はとても雰囲気が良くなってきている。
 保自身もこれで身辺が落ち着けばと思うくらいに、仕事に対してやる気も出ている。
 だから当然のように感謝の気持ちを言葉にした。
 美也も喜んでくれると思っていた。
 けれど足を止めた美也に気づいて保が振り返ると、彼は悲しそうな目で保を見ていた。
「河合君?」
 美也ははっとして笑った。
 一瞬で悲しみは消え去り、見間違いかと思うような、綺麗な笑みに塗り変わる。
「俺、なんだかファミレスに行きたい気分です」
「ファミレス?」
 保が驚けば、美也はとても楽しそうに笑った。
「そう、ファミリーレストラン。いかにも豪華に見せかけたパフェを食べたくなりました」
「パフェ!」
 その美しい顔で、子供が喜ぶパフェを食べるのかと驚いているうちに、美也は先ほどの影を綺麗に消し去っていた。



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