XXX 10 XXX 金曜日の午後六時、約束していた時間に、保は本社の専務室を尋ねた。 予定通りの時間に訪問したにもかかわらず、30分以上も待たされた。遅れた侘びも言わず、専務室に保がいるのを見て、約束を思い出したかのようにあぁと声を出した。 保のことを軽く見ているのだといわんばかりの態度だ。 これに腹を立ててはいけない。揚げ足を取られるだけだと言い聞かせる。 「大変だったそうだね。見舞いにもいけずにすまなかった。何しろ忙しくて、本社の専務ともなると。あぁ、これは見舞いだ」 ぽんとテーブルに放り投げるように置かれた熨斗袋。 保はありがとうございますと言って、袋を内ポケットに仕舞いこんだ。 いらないと突き返したい気持ちは大きいが、このわずかばかりの金額でも、母の入院費の足しになると思えば、手を出さないわけにはいかなかった。 「どんな事故だったんだね。いや、報告は来ているんだが、紙切れ一枚ではどうにも要領がつかめない」 やはり事故のことを探りたいのだろう。 本当のことを話したいが、この男は信用できない。妻の傀儡なのだ。 妻の由貴は、保の父、賢次の妹に当たるが、父の亡き後、夫を前面に押し出し、次兄の正次より上に立たせようと必死なのである。 ただし、長兄の息子である保を追い落とすまでは、兄と妹の共同戦線を張るつもりなのだろう。 事故の時に見た正次らしき男の背中。直接本人が確かめることはさすがにできずに、こうして妹婿を偵察に送り出したというわけだ。 「特に報告するようなことは。上からブロックが落ちてきただけです。幸い怪我もたいした事はありませんし、大事にするつもりはありません」 賢一の孫と正式に認められるまでは。 心の中で静かに付け足す。 「そうか、そうか。災難だったね。まぁ、たいした事はなかったようだし、以後ば十分気をつけてくれよ」 「はい。ありがとうございます」 会談は外見上は和やかに終わり、保は席を立った。 「叔父さん、例の事なんですが」 ドアのところで立ち止まり、振り返って何気なく聞く。 「例の事?」 何のことだかわからないととぼける塚田に、保は不安げな表情を向けてやる。 「私の認知のことです」 「あ、あぁ、あのことか。いや、何しろ、義父殿が今は状態が捗々しくなくてね、あまり心労をかけたくなくて、様子を見ながら進めているのだよ。心配しなくていい、そんな書類上のことがはっきりしなくても、我々は君を貴島一族の者と認めているよ。落ち着いてもう少し待ってくれないか」 ニコニコと人の良さそうな、親切そうな笑みで、気安そうに保の肩を叩く。 けれどその目は狡猾で、臆病で、威力のあるものに隠れてお零れを狙う、ハイエナとしか見えない。 いつ一族として認めてくれたのだと叫びたい。 「私のことはいつになってもいいんです。私より、母を……、母を賢次の妻と認めてやって欲しいんです」 「わかってる、わかってる。みどりさんのこともね。義父殿が落ち着いている時間をなんとか見繕って進めているから、なかなか進まないんだ。悪いとは思ってる。だが、もう少しで済むと思うんだ。本当にもうすぐだから」 背中を叩かれる。慰めているように見せながら、実のところは、早く出て行けとばかりに押し出されている。 「よろしくお願いします」 押し出されるままに専務室を出た。 重い溜め息を一つ零して、エレベーターを待っていると、ドアが開いて若い男が降りてきた。 「あ、保さん」 保を見てにっこり笑ったのは、塚田の息子、歩(あゆむ)だった。大学生とは思えないほど幼く見える男の子で、気弱そうな印象をもっている。 「保さん、事故に遭われたって聞きましたけど、大丈夫だったんですか? 俺が聞いたのは一昨日で、もう退院されていて、お見舞いにもいけずに申し訳ありませんでした」 父母の影響を受けず、素直で優しいが、塚田夫妻を信じられない保は、この歩の素直さも演技なのではないかと疑っている。 「いいんだよ。見舞ってもらうほどの怪我じゃなかったんだから」 「父にお会いになったんですか? 厭味なことを言いませんでした?」 味方をしてくれる風な心配を言ってくれるが、後で告げ口されるかも知れないとおもうと、迂闊なことはいえなかった。 「いや、お見舞いを言っていただいたよ。それじゃあ」 エレベーターのドアが閉まりかけたので、慌てて乗り込んだ。 まだ話たげな歩を残して、エレベーターは下降を始めた。 歩には一つ上に愛という姉がいるが、愛のほうは父母の影響そのままに、気が強く、我がままで、自己評価が高い。 確かに愛は美人だが、保は歩の方が清楚で美しいと思っていた。 美也に出会うまでは。 美也を見てしまったら、愛の綺麗さなど飾り立てただけのまがい物だとわかるし、歩の美しさも控えめという表現を間違えていたようにしか思えなかった。 美也のことを思うと、胸が温かくなり、幸せな気分になれる。 臨時収入があったので美也に何かプレゼントしたいと思いつつも、月末にはまた病院の支払いがあることを思い出す。 その頃にはきっと退院の話も出るだろう。 一瞬だけ幸せを感じた気持ちは、すぐに暗く落ち込んでしまった。 病院に寄ろうと思って乗り換え地点で地下鉄を降りた保だったが、こんな状態で病院に行って、また母親の愚痴に付き合うのは嫌だと、強い反発心を感じた。 今夜は帰ろう。病院には明日行こうと、次の電車を待つことにした。 「課長!」 ホームの階段付近から、大きな声がした。 サラリーマンが多いこんな場所で、課長と呼ばれれば、振り返る男は多い。 だが、その声が美也だったような気がして、保は更に首を伸ばして階段を見た。 「荒谷課長」 気恥ずかしげに名前を呼び直して、美也が人ごみを掻き分けてやってきた。 「すみません。つい、姿を見かけて、嬉しくなって、大きな声を上げちゃいました」 最初は大声で注目された美也だったが、次にはその外見で注目され始めた。 「君の家はこの沿線だったか?」 「はい。三つ先なんですよ。課長は…この沿線とは違います……よね?」 どうしたのかと問うような視線に、保は本社に寄り、もう一つ寄るところがあったのだけれど、取りやめたことを告げた。 「そうだったんですか。なんだ、じゃあ、この電車には乗らないんですね」 つまらなさそうに呟いた美也に、乗り換え先を変更して、一緒に電車に乗ることにした。 「遠回りになるけどいいんですか?」 気を遣いながらも嬉しそうに微笑まれると、疲れが吹き飛ぶように感じた。 ホームに入ってきた電車に一緒に乗り、美也の下りる駅で並んで降りた。 駅前でコーヒーでも飲みませんかと誘われたからだ。 改札を抜けると、大きな道路に出た。歩行者専用信号が赤から青に変わり、少しリズムの崩れたとおりゃんせが流れた。 ズキンとこめかみの奥が痛んだ。 横断歩道の真ん中で立ち止まった保に気づかず、美也が信号の向こうで振り返って驚いている。 青信号が点滅を始め、美也が慌てた様子で戻ってきて、保を駅のほうへと連れ戻った。 「課長、大丈夫ですか?」 「あ……あぁ、すまない。…………いつもの頭痛だから……」 「薬、もってますか?」 「違うんだ……。この痛みは、すぐ治るから」 偏頭痛ではない。時折襲われる、事故の後遺症だ。そう説明したが、美也の心配は晴れないようだった。 「座りましょう。顔色が悪いです」 予定していたコーヒーショップではなく、駅ビルの中の喫茶店に連れて行かれる。 運ばれてきたコーヒーを半分ほど飲んだ頃には落ち着いた。 「もう大丈夫だ。すまなかったね」 「俺のことはいいんですけど……。事故の後遺症って……、大きな事故だったんですか?」 事故のことを思い出すのは辛い。事故を思い出すのが辛いのではない。事故のことはほとんど覚えていない。何しろ、意識が戻ったときには、保は病院のベッドの上だった。 「母親の運転する車が中央分離帯に衝突して、母はハンドルにはさまれ下半身の自由を失い、私は頭をフロントガラスに強く打って記憶を失った」 「え……?」 「今でも時折、頭痛がしたり、吐き気がしたりするんだ。検査は十分にして、頭部に問題はない。精神的なものらしいんだが、わかってはいても、自分じゃなかなかどうにもできなくてね」 「今は……もう…………記憶が……」 ショックを受けたらしい美也は、蒼白な顔色で、保を見つめていた。 「完全とはいえないけれど、ほぼ戻っていると思うよ。足りないところは……、思い出しながら埋めている」 「……埋めている?」 意味がわからなくて戸惑っている美也に、保はカバンから黒い表紙のノートを取り出して広げて見せた。 「…………これ……」 ノートにはびっしりと細かい文字が書き込まれていた。 美也が見ているのは、高校生の時の保。正確に言えば、高校生だった頃の、保の記憶だ。 通っていた高校の、担任や成績、仲の良かった友人の名前や、その頃のエピソードが書かれている。 美也は強張った顔で、そのページを食い入るように見つめている。 「それを読んでいると、安心できるんだ。あぁ、私は過去にちゃんと存在していたんだと。時折、どうしても空虚な自分を感じて、立っていられなくなるときがあるんだ」 秘密を打ち明けるのは怖かったが、美也には知っていてもらいたかった。 事故のことや記憶喪失のことは、誰にでも言えることではなかったし、誰にも知られたくないと思っていた。言い振らされるのも困るし、変な同情も欲しくなかった。 美也ならば信用できたし、噂などしないと信じられた。 真面目に、けれど普通に受け止めてくれると思っていた。 だが、美也の反応は、保の想像を越えていた。 「そんな…………、こんな…………」 ノートを持つ両手がブルブルと震えている。声もか細く揺れている。 「河合君?」 驚く保の目の前で、美也は美しいヘーゼル色の瞳を濡らし、悲痛な涙を流して……泣いた。 |