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 事故のことは何も覚えていない。
 私は病院のベッドで目覚め、身体中が痛むことしかわからない状態だった。
 たくさんの管と線が身体に繋がれ、規則正しく響く電子音が私の心臓の音だということも、そのときはわからなかった。
 名前を呼ばれたが、それが自分のことだとは思えず、かといって、違うのだとも言えなかった。
 私は何一つ、覚えてはいなかった。
 自分の名前も、どうして身体中が痛むのかも、何もわからなかった。
 医者からは事故のこと、身体のことを説明されたが、ぼんやりとしか認識できなかった。
 そうして医者から母のことを知らされた。
 母の状態は酷かったが、意識はしっかりしており、私は母のことも思い出せなかったが、一緒に入院生活を送っていく中で、母から思い出話として、自分の記憶を取り戻していったんだ。
 母は私が生れたときからの話を、根気よくしてくれた。
 途中から私は一冊のノートを買い、それを順番に書きとめていった。
 書きとめていくことで、私は荒谷保として、ようやく一人の男として存在できるようになった。



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 保の話を美也(よしなり)は怖いくらいの真剣な表情で聞いていた。
 ノートは手に持ったままで、指先が白くなるほど強く握りしめている。
「病名は……」
 擦れた声でそれだけを聞いてきた。
「全生活史健忘症。解離性健忘というのも加わっているらしい。過去の記憶をすべて忘れてしまっている上に、思い出したことも自分の事ではないように、忘れている自分を否定するように感じるらしい。そのノートがなければ、私は記憶もなく、記憶のないことも否定し、自己をなくすような気がするんだ」
 美也の目からぽろっと涙がまた一つ零れる。
「事故のことは?」
 保は力なく首を横に振った。
「全く覚えていない。思い出そうとすると、拒否反応のように頭痛がするんだ」
 事故のことは母親も詳しく話そうとしない。警察から中央分離帯に激突した単独事故であったことを聞いた程度だ。
 記憶のない保から聴取することは諦めるしかなかったらしく、親子以外に被害者もいなかったことで、事故の処理は済んでいた。
「事故って、いつのことですか?」
「二年前だよ。雨の夜だったらしい。高速道路のカーブをスピードを上げすぎていた母の車は、曲がりきれず、濡れた路面でタイヤを滑らせて、中央分離帯に激突したらしい」
「貴方は助手席で……」
 貴方と呼ばれ、その違和感に神経がざらついた。
 親しみをこめて課長と呼ばれていたので、急に他人が目の前に座ったような、嫌な感じがした。
 事故のこと、記憶喪失のことを話すのは、どうしても躊躇われる。
 聞いた相手に距離を置かれるようになったことは、一度や二度ではなかった。
 それからはこの話をしなくなっていた。
「私はフロントガラスに頭をぶつけたらしい。どうやら、シートベルトをしていなかったらしいね。それは誰も責めることができない。シートベルトをしていれば、軽傷ですんでいたかもしれないのに」
 美也はパタンとノートを閉じた。
 大きな溜め息を一つ吐いた。
「今も後遺症のようなものがあるんですか? その頭痛も後遺症のようなものなんですか?」
 美也が濡れた瞳で保を見つめる。
 オレンジとブラウンの中間のような、薄い色の瞳は、濡れると少し色合いが濃くなるような気がした。
「後遺症というのかな、思い出せないことでイライラしたり、行動が緩慢になったり、酷い頭痛が起きたりするが、後遺症というよりは性格に起因していないとは言い切れないものがあるしね」
 短気や愚図といった性格上の問題と言われれば、否定しきれないというのだろう。
「でも、課長は苛立って部下に八つ当たりとかしませんよね。むしろ思慮深いほうだと思っていますけど」
 いつものように課長と呼ばれてほっとする。
「自分の欠点を知り、カバーしようと思えば、なんとかなるものだよ。そうならないように努力することも覚えたからね」
 苦い笑みを浮かべ、視線を落とす。
 テーブルの上に黒いノートが置かれ、美也の手がそれを押さえるようにしている。
「あとは頭痛さえなんとかすれば、穏便に日常生活を送れるように思うんだけどね」
 自分の歴史が詰まった黒いノート。
「頭痛は我慢すればすぐに治まるものなんですか? 俺に何かできることってありますか?」
 身を乗り出すようにして聞かれ、胸が温かくなる。
「ありがとう。頭痛はしばらくじっとしていれば治る。いつもはさっきみたいに、立っていられなくなるほど強くなることもないんだ。どうしてかな、あの横断歩道の崩れたリズムが、なんだかひどく癇に障ったような感じだったんだ」
 美也は目元を震わせた。
「すみません、俺が……無理に誘ったから」
「違うよ。そうじゃない。私の身体が軟なだけだ」
「困ったときはいつでも言ってください。頭痛とかの時も、できるだけフォローします。他の人に隠したいとかなら、協力しますから」
 興味本位や同情とかではなく、真摯な態度で言われ、澄んだ瞳で見つめられ、本当にありがたく、嬉しく感じた。
「ありがとう。本当にありがとう」
 美也に出会えて良かった。
 最初は容姿に圧倒され、外見に似合わない現実主義な態度に驚きつつも、外見以上に綺麗な心に惹かれた。
 生い立ちや生活環境に加えて、事故に遭遇し、抱えてしまった後遺症などに、我が身の不幸を嘆いたものだったが、美也に出会えた事で今までのマイナスが取り戻せて行くような気がしていた。
 不幸を呪うより、前を向こうと思えるようになったことは、保にとってとても重要なことだった。
「明けない夜はないのだろうな」
 今の心情のまま吐露した言葉。少しばかり格好をつけてしまっただろうかと、照れながら美也を見ると、彼は驚いたように目を見開いていた。
「河合君? ……変なことを言ったね、すまない」る  自分でも似合わな過ぎて、照れている場合ではないと悟り、きまりが悪くなって笑って誤魔化そうとした。
「いや……、いえ、……俺のほうこそ、すみません」
 美也は静かにゆっくりと首を振って、グラスの水を飲んだ。
「ポスポロス……って、知っていますか? 課長」
 今までの口調を変えて、美也は噛み締めるような言い方で、保に聞いてきた。
「いや、知らないな。……ポス…、ポロス?」
 ズキッとこめかみが痛んだ。
「ポスポロスです。ギリシャ神話だったかな? 夜明けの空に輝く、金星の守護神なんだそうです」
「金星というと、ヴィーナスなんじゃないのか?」
 痛みはすぐに引き、保は長めのまばたきの後、曖昧な記憶の中から、知識として知っていることを引き出す。
「それは星そのものの女神なのかな。日本では明けの明星と呼ばれている星のことです」
「だから、それが金星だろう?」
 どう違うのだろうと保が食い下がって聞くと、美也は悲しそうに目を細めた。
「昔の日本人も、ギリシャ人も、明けの明星と宵の明星は別のものだと思っていたらしく、明けの明星のほうの神をポスポロスと呼んだそうです。光をもたらすものという意味らしいです」
「ポスポロス……」
 ズキッとまた痛みが差す。
「はい。昔……、俺が高校生の頃、容姿のことでからかわれ、コンプレックスを持って、学校や世間に対して反感しか持てなかった俺に、ポスポロスのことを教えてくれた人がいました」
 女みたいだとからかわれ、虐めに遭っていた時期があったと、以前に聞いていたことを思い出した。
「ポスポロスは矢を持っているみたいだと……、その人が言ったんです」
 思い出話をする美也は、いつになく幸せそうだった。
「ヤ?」
「はい、弓矢の矢。もちろん神話にはそんな話はないんですけど、夜明けって、夜の中にひと筋の光りが差し昇るみたいじゃないですか。その先導になっているのが明けの明星で。その人はポスポロスが太陽を導く矢を放ったみたいだろう……って、言ったんです」
 保は夜明けの情景を思い浮かべる。
 真っ暗な夜空に、太陽の訪れを知らせるような、ひと筋の光。
 確かにそれは、光の矢のようではある。
「明けない夜はないのだと教えてくれたんです。その人が俺の夜に、ポスポロスの矢を放ってくれた」
 ズキ…ズキ……と疼くような痛みは、頭からだろうか、胸からだろうか。
 美也をこんなに幸せそうな顔にできる人物。
 保の心に疼くのは、嫉妬以外の何物でもなさそうだった。
「その人は……?」
 どんな人物なのか、今も美也の傍にいるのだろうか。とても気になった。
「これ、お返しします」
 だが美也は答えをはぐらかすように、保に黒い表紙のノートを返してきた。
 詮索したようで、美也は不快に感じたのではと不安になった。
 保がノートを受け取ろうとした時、美也がそれを拒否したようにノートが強く引かれた。それは一瞬のことで、ノートは保の手に戻ってきた。
 かつてないほど、ノートが重く感じられた。
「今度は俺が貴方の夜に」
 美也の意志の強くこもった声に、保ははっと顔を上げた。
 ヘーゼルカラーの瞳が夜明けの星のようにきらめく。
 そして決意をこめた声で告げられた。
「ポスポロスの矢を撃ちたい」



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