XXX 12 XXX 翌日、母を見舞った病院からの帰りに図書館に寄り、美也の言っていたポスポロスという言葉を調べてみた。 そこにはほぼ美也の説明どおりの言葉が載っていた。 ポスポロスの神はどのような姿をしているのだろうか。 そう思いながらも、保の頭の中では既に、大きな弓を構えた雄々しい姿しか思い浮かばなくなっている。 今朝、明け方前に起き出し、東の空を眺めた。 春の空は、黒から紺、紺から紫、そして光が差し込むように薄黄色に染まりながら朝を迎えた。 差し込む光が「光の矢」とは、上手く表現したものだと思った。 光の矢が駆け抜け、それを先導のように、太陽が昇った。 幻想的でいて力強く、胸が熱くなる風景だった。 確かに保の今の状態は、闇夜に似ている。 その闇夜に朝日を導くというつもりなのだろう。 期待はしていない。 保がどれほど美也を大切に、愛しく思おうとも、保の生い立ちを変えることはできないし、保親子が切願している認知は、他人の美也にはどうしようもないことだ。 けれど『今度は俺が貴方の夜にポスポロスの矢を撃ちたい』と言ってくれた、その気持ちが嬉しかった。 美也にとって、自分は嫌われてはいない、もしかしたらある程度の好意を抱いてもらっているのかもしれない。 あまり期待してはいけないと思いつつも、この想いを無理に押し殺さなくてもいいのではないかと思い始めていた。 ただし、今の自分の境遇を思い返せば、男同士だということを除いても、とても打ち明けられるものではない。 せめて……。 そう考えて、保は身震いした。 せめて。……そう、自分が貴島家の人間だと認められれば……。 母の執拗さを醜いと思ったことがあった。 そこまで固執しなくても、親子二人、そこそこの生活を送ることができれば、それで良かったのではあるまいかと、逃げ出したいときもあった。 貴島の戸籍に拘る母を見ていると、父個人を愛したのではなく、父の家を狙っていたのではないかと思ってしまうのだ。 事故に遭ってからは、母の治療費を捻出するために、どうしても貴島の力が必要にはなってしまったのだが。 保から積極的に認知に向けて働きかけなくてはならなくなり、母の妄執を見せつけられた様な気がしていた。 自分の基盤がはっきりすれば、今のように消極的にではなく、美也に接することができるのではないだろうか。 そう思う自分が、保はおぞましく感じた。 やはり、夜は暗い。真の闇だ。 こんな自分にも、朝は来るのだろうか。 どれほど美也が矢を放っても、太陽は昇らないように思えた。 週が明けると、雨が続いた。 いよいよ梅雨が始まったのだ。 「課長、大丈夫ですか?」 気圧の変化がもたらすのか、偏頭痛は普段よりも酷くなっていた。 美也に貰った薬のおかげで、かなり楽にはなっていたが、貰った分を使い切ってしまった。 トイレに入り、吐き気を堪えていると、心配した美也が追いかけてきた。 何かできることはあるかと聞いてくれたように、時折こうして保の身体のことを気遣ってくれる。その思いやりがとても嬉しかった。 「すまない。……河合君、あの頭痛薬を持っていないだろうか」 残り少なくなり、保は事故の時に世話になった医者に同じ薬を処方してくれと頼んだが、この薬ではたいして効果はないと言われてしまい、他の薬を出された。 成分はほぼ同じだから、副作用もないと自信ありげに言われたが、やはり駄目だった。 「今持ってますよ。あっと……少ないですけど」 渡されたシートには三回分しか残っていなかった。 「またすぐに貰ってきますね」 「ありがとう。頼んでもいいかな」 「はい」 綺麗な笑顔を見せられて、どきっとする。 「私の医者に頼んだら……そんなに効果はないはずだと、聞く耳を持ってくれなかったんだ」 少しばかり憤慨して言うと、美也は小さく笑った。 「医者の中には融通の聞かないタイプがいますよね」 美也との会話はとても気持ちが楽だ。 気負わなくてもいい。自分を作らなくてもいい。自然体で接することができる。 「君が小児科にいるところを想像すると微笑ましいな。そろそろ若いお父さんのように思われるんじゃないかな」 「だから、課長。受付時間が終わってから行くんですってば。先生がそれでいいと言ってくれてるので」 むきになる美也が可愛い。 「今夜にでも貰いに行ってきますね」 自分でも子供っぽい言い訳と感じたのか、美也は笑って、約束をしてくれた。 「あ、俺、今日はこれから一件だけ約束があるんです」 また時計が手首のほうへ回っていたらしく、位置を直して時間を確かめている。 「でも、診察が終わるくらいの丁度に間に合いますよ」 「すまないね。頼むよ」 「はい、任せてください」 美也は急ぐように出かけ、保も自分の席に戻って仕事を再開した。 ほどなく薬が効いてきて、残りの仕事は憂いていたよりも早く片付いた。 腕時計を見ると、多分だが、小児科の終わるくらいの時間に行けるだろう。 自分の保険証を使い、かかりつけになったほうが良いのではないか。 ちゃんと自分用に調合してもらえば、美也にかけさせる手間を省くことができる。 小児科の名前はわかっていた。以前に貰った薬袋に水嶋小児科という名前があった。薬袋は既に捨ててしまっていたが、番号案内で名前を告げると、一軒がヒットした。 電話をかけるとまだ診察時間中らしく、最寄り駅と行き方を教えてもらえた。 電車を乗り継いでいくと、予想通り、診察時間が終わるくらいの時間になった。 教えてもらうまでもなく、水嶋小児科は駅から真っ直ぐに通りを一本抜けたところにあった。 表の看板の電気はまだついている。まだ受け付けてもらえるのではないかとほっとしていると、小児科の玄関が開いた。 思わず近くの電柱に隠れたのは、中の光を受けたその人の顔がよく見えたことと、彼に見覚えがあったからだ。 「ありがとうございましたー」 以前聞いたときと変わらない明るい声。服装は軽い調子で、やはり学生に見えた。 「御子柴君、忘れ物よ!」 看護師が追いかけてくる。 「駄目じゃない、保険証忘れたら」 「あ、すみません」 ぺこりと頭を下げて、彼は歩き始めた。駅とは反対の方向。保から遠ざかっていく。 「貰えた?」 その声に心臓が痛んだ。 「貰えたよ。相変わらず、子供扱いだったけどね」 「ありがとう」 袋をそのまま受け取っている。 「礼なんて……言うなよ」 親しそうな二人の会話。 あの薬は……きっと、明日自分に渡されるのだろう。 二人並んで歩いていく。 遠ざかっていく。 一人取り残されているうちに、小児科の看板は灯りを落とし、辺りは真っ暗になった。 |