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 頭痛も引き、傷口の消毒のみの入院生活は退屈そのものだった。
 母の介護と仕事に追われた生活の中、一日くらいゆっくり寝ていたいと思っていたのに、何もすることがなくなると、どうしていいのかわからなくなるというのが正直なところだ。
 一夜明けて昼過ぎに、美也が見舞いに来てくれた。
「外回りのついでに寄ってしまいました。具合はどうですか?」
 言いながら手に持っているのは、大きな紙袋だ。
「あ、これは昨日買っておいたものですよ」
 紙袋から出てきたのは、新しい下着とパジャマだった。
「すまないな。いくらだった?」
 サイドチェストの引き出しから財布を取り出そうとすると、美也はお見舞いだと言って受け取らなかった。
「昨日も色々と買ってきてもらったのに」
 歯ブラシやタオルなどの細々したものを、保が病室で眠っている間に買い揃えていてくれた。昨日はそれに気づかなかったのだが、今日になって看護師にこれらは病院から買い取るのかを尋ねたら、一緒に救急車で来たものすごく綺麗な人が買ってきたんですよと教えてくれた。
「だから、それもあわせてお見舞いです」
 昨夜の気まずさを打ち消したように、美也は明るかった。仕事が終わったらまたくるからとすぐに帰ってしまい、悪いからと辞退したにもかかわらず、保は日が暮れるのを待ち遠しく外を眺め続けていた。
 夜には食べ物を持ってきた美也は、見舞い時間のギリギリまで付き添ってくれた。
「何か必要なものがあれば言ってくださいね」
「君も疲れているだろう? 無理しなくていいから」
 断ろうとすると美也の顔が悲しげに曇るので、保はそれならと雑誌の差し入れを頼んだ。
「病院の売店に売っているものでいいから」
 せめて手間をかけさせないようにとそれだけは釘を刺した。
「わかりました。でも、ここにくる途中にコンビニも本屋もあるんですから平気です」
 嬉しそうな笑顔を向けられると、胸が騒ぎ始める。
 そろそろその美しい顔を見慣れてもいい頃だが、こうしてまっすぐに見つめられると、ドキッとしてしまう。
 こんなに綺麗な人は他にはいない。顔だけでなく、心まで純粋で美しい。
 特にヘーゼルカラーのきらめく瞳は、保の心を穏やかにはしてくれない。
 嫌われていないのだろうとは思う。
 わざわざこうして、時間の許す限り、見舞いに来てくれるのだから。
 けれどどれだけ慕われているとしても、それは上司に対する気持ちだ。勘違いしてはいけないと自分を戒める。
 自分の美也に対するこの気持ちは、彼の信頼を裏切るものだ。
 悟られないようにしなくてはいけない。
 そもそも自分では彼につりあわなさ過ぎる。
 生れた境遇、現在の経済状況、貴島家との確執。彼に自慢できるものは何一つない。
 せめて貴島家に入ることができれば、彼を有利な地位に引き立てることもできるだろうかと考えて、自分の醜さに身体が震えた。
 母親は執念のように貴島の孫と認めさせたいようだが、保はそこに固執するつもりはなかった。
 母をもう少し楽にしてやるには、貴島からの援助は欲しいと思うが、自分のために祖父の力が欲しいとは思っていない。
 病床で苦しむ母の意志に沿っているように動いているだけで、全てにおいて保は受身だった。それがなおさら母を苛立たせているとは思っているが、どうしても母ほど恨む気持ちにはなれない。
 まして命を狙われたのでは堪らない。
 欲しくないもののために事故を装って殺されたのでは馬鹿らしいではないか。
 そんな膿みきった家の力で、美也を汚したくないと思ってしまう。
 生活に疲れ、投げやりになっている中で、美也だけが支えのような気持ちになっていた。
 だから嫌われたくない。せめて頼られる上司でいよう。
 そう決めたのだ。
 心の中に芽生えた、小さな想いは蕾のままでいいからと、自分に言い聞かせて。

 退院の日は土曜日になり、美也が手伝いに来てくれた。
 結局、入院は三日間だけのことで、保の課からは美也が見舞いに来てくれただけだった。
 課全員からだという見舞いも美也が届けに来た。
 普段からの付き合いでは、こんなものだろうと思う。そもそも入院の必要もないくらいの患者だったのだ。
 荷物を運びに来たという美也は、見知らぬ若者を連れていた。
「ここに来る途中で偶然会ったんです。学生時代の友人です」
「ども、御子柴(みこしば)大介です」
 ぺこりと頭を下げられるが、その瞳は探るように保を見ていた。
 あからさまな視線に、ずきりとこめかみが痛んだ。
 額に手を当てて、その痛みを堪えると、美也が心配そうに覗き込んできた。
「課長、大丈夫ですか? まだ退院するのは早いのでは……」
「いや、大丈夫だから」
 いつもの頭痛だと言おうとして口を閉じる。
 御子柴の目が気になって仕方なかった。
 背の高い、すらりとしたハンサムな青年だった。
 友人だと美也は言ったが、まだ学生のように見えた。髪を半分立てるようにセットし、薄着で銀細工のアクセサリーをたくさん身につけている。
 どうにも美也のイメージと合わない若者だ。
「ちゃっちゃと運んじゃいましょう」
 御子柴は具合の悪そうな保には構わずに、ベッドの横にまとめてあった荷物を手に持った。
 身体に合わせて力も強いらしく、全てを一人で持ってしまう。
 そしてスタスタと病室を出て行った。
「すみません、課長。荷物運びにはちょうどいい人材だと思ったんで連れてきちゃったんですけど無愛想で。いつもあんななんですよ。気にしないで下さい」
 美也に謝られて、保のほうが恐縮してしまう。
「若い人には病院というだけでも気が重いんだろう。申し訳ないとは思うが、気を悪くしたりなどしないよ。待たせると悪いから早く行こう」
 保は美也を急かした。
 労災扱いなので、会計の必要はなく、保のサイン一つですぐに退院できた。
 御子柴はタクシー乗り場で二人が来るのを待っていた。
「ありがとう、助かった。重いものを持たせて申し訳なかった」
 保が礼を言うと、御子柴は目元をぴくぴくさせ、唇を歪ませるように笑った。
「別に。…………じゃあな、美也」
「うん、ありがとう」
 あっさりと帰ろうとする御子柴に、保のほうが慌ててしまった。
「私はもう大丈夫だから、二人で出かけるんじゃないのか」
 スタスタと歩き去る御子柴の背中を、保は呼び止めるべきなんじゃないかと美也に聞いた。
「いや、偶然会っただけなんです。純粋に荷物運びに来てもらっただけですから」
「けれど、せっかく会ったのだから、友人同士で出かけたほうがいい。ここはもう大丈夫だから」
「本当に大丈夫です。あいつも他に用事があるでしょうから」
 親しそうに口を利き、美也を名前で呼ぶにしては、ずいぶんとあっさりしている。
 戸惑いながらも、それ以上は強く言えず、保は美也と一緒にタクシーに乗った。
 タクシーは途中で御子柴を追い越した。
 保はもやもやしながらも気になり、振り返ってその姿を見た。
 歩道には彼一人の姿しかなく、少し背中を丸めて歩くような姿勢だ。
 ずきりとまた痛みが襲い、その痛みに合わせるように彼の姿が歪む。
 彼は美也のなんだろう。
 友人と説明されたが、どうにも印象が違いすぎる。
 二人の会話も親しそうではあるが、どこかぎこちなかった。
 けれど彼が保を見る視線は、とてもきつく、物言いたげだったのだ。
 二人が恋人同士だとしたら……。
 そんな雰囲気ではなかったが、あえて隠すようにしているなら、素気ない態度も頷けるような気がした。
 恋人同士……。そんな思いに今度は頭ではなく、心臓がずきりと痛んだ。
 確かにちぐはぐなイメージではあるが、美也の横には、保よりも彼のほうが似合うように思う。
 それだけで胸が痛み、苦しくなった。



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