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 保は救急車の中で呼びかける声を聞いていた。
 手が暖かかったのは、美也が握りしめていてくれたからだろうか。
 隊員の質問には、頭部に損傷はないこと、足が痛むこと、そして頭痛の原因は別だということは説明した。
 上手く説明できたかは自信がなかった。
 あとはずっとひかない痛みを堪えるしかなかった。
 眩暈のように揺れる視界の中、美也が心配に美しい顔を歪ませ、涙を滲ませて自分を見ていた。それほど心配してもらえることが、痛みの中でも少しばかり嬉しかった。
 美也の同様具合は、保から見ても過ぎるほどで、きっと救急隊員の目には奇異に映ったことだろう。
 それとも、頭を打ってもいないのに、異様な痛みを訴える自分のほうをおかしいと思われただろうか。
 運びこまれたのは母親も入院している、かつて保も入院していた病院だった。
 名前を言えばカルテが出てきて、病歴が調べられ、慌しく主治医だった医者が呼ばれた。
 たかが足の怪我なのに。折れてもいないだろうに。
 そうは思ったが、頭痛がひどく、何も言えない状態だった。
「荒谷さん、頭部を打ちましたか? どこが痛みますか?」
 色んな検査をされた。
 それよりも痛み止めをと願ったが、有無を言わせない状態で引き回された。
 痛みに目を閉じていると、瞼の裏でフラッシュが光るように、美也の顔が浮かんだ。
 名前を呼ばれているような……気がした。
「点滴を打ちますからね。痛み止めが入っていますから。少し眠くなりますよ」
 ちくりと腕に痛みが走る。
 美也が自分の名前を呼ぶなど有り得ないのに。彼が上司の名前まで知っているとは思えないのに。
 それでも綺麗な顔で、真剣に名前を呼ばれているように思うと、痛みが軽くなるような気がする。
「足のほうは折れていませんね、縫合をします。麻酔をしますから」
 やはり骨折まではしていなかったらしい。
 足よりも頭痛がひどくて、足の痛みなど感じていない状態だったが、折れていないと言ってもらえてほっとする。
 折れていたりしたら、仕事や生活にかなりの支障が出たことだろう。
 ズキン、ズキンと痛む頭の中で、美也が何かを言っている幻を見た。
 必死で何かを訴える様子が愛らしかった。
 呼んでくれている声が聞こえればいいのに……。美也の声は届かず、美しい笑みが自分に向けられる。
 やがて痛み止めが効いてきたのか、保は眠りに引き込まれていった。


 目が覚めたのは薄暗くなった病室だった。
 痛みを予測して目を開けるが、恐れていた頭痛はやってこなかった。
「課長? 目が覚めましたか?」
 やはり名前を呼ぶはずがないかと、保は最初にそう思って笑った。
「まだ痛みますか? 苦しいですか?」
 自分では笑ったつもりだったが、上手く笑えなかったらしい。美也が立ち上がって保の顔を覗きこんできた。
「医者か看護師を呼びましょうか?」
 労わるような声は穏やかで、心地よかった。ずっと聞きたいと願っていた声をようやく聞けたように感じた。
「河合君……会社のほうは……」
 気がかりはたくさんあったが、まずはそれを聞いた。
 今はもう夜も近い。仕事はどうなっているのだろうか。
「会社には連絡しました。先ほどまで部長がいらしてました。医者が三日ほど入院したほうがいいという事で、今週は休みにしていいからと帰られたんです」
「そうか……」
「建築現場の責任者も来ていて、保険がおりると言ってました。治療費や入院代は支払ってもらえるそうです」
 治療費がかからないとわかって少しほっとする。
「君が対応してくれたのか。……すまなかった」
 病院に着いてから治療中に寝てしまった。美也はその間に、会社に連絡を取り、現場責任者と話をしてくれていたらしい。そして目が覚めるまでずっと待っていてくれた。
「そういえば、君が引っ張ってくれなければ、私は死んでいたかもしれないな。君は命の恩人だ……、ありがとう」
 美也を見て礼を言う。笑ったつもりだったが、今回もうまくいかなかったようだ。
 美也は顔を歪めて唇を噛み締め、涙を零したので、保はうろたえた。
「河合君……、いや、……その」
「…………なんて、……い……で……」
 泣き声に混じって言われたので、よく聞き取れなかった。
「河合君……」
 点滴の繋がっていない手を伸ばす。
 指先に涙が伝う。
 保の指先が頬に触れ、美也はピクリと身体を震わせた。
「……すみません……男なのに……俺」
 ゴシゴシと手の平で涙を拭う。綺麗な容姿に似合わない乱暴な仕草に、保は小さく笑みを作った。
「それを言うなら、私だって、男なのにあんなに痛がったりして、みっともなかったよ」
 美也は首を左右に振った。涙を隠すように立ち上がり、部屋の明かりをつけに行く。
 病室が明るくなり、自分が個室にいることを知る。
「他に部屋はなかったのかな。なんだか、贅沢だ」
「部長が個室にしてもらうようにって言ってくれたんです。保険もおりますし、三日ですから気にしなくていいんじゃないですか?」
 確かに気兼ねはなくていいが、なんだか落ち着かない。
「先生は……君に何か言っただろうか」
 できることなら、美也に自分の病歴は知られたくなかった。
 隠すことではないと思いつつも、少しでも上司らしくいたかった。
「何も聞いていません。痛み止めが効いているから、夕方まで眠るだろうということと、三日間の入院という説明を聞いただけです」
 さすがに患者のプライベートまでは話さなかったらしい。美也に知られなかったとわかってほっとする。
「それより課長」
「何だ?」
「現場監督も言っていたんですが、あんなブロックが落ちてくるなんて考えられないそうなんです。おかしいって言うんですよ」
 見上げた先に動いた黒い影……。
「それに、俺、見たんです。あの時、とっさに上を見上げて。人がいたように思いました。慌てて逃げるような、背中しか見えなかったんですけど」
 ずきりとこめかみが痛んだ。
「現場なんだから、人ぐらいいるだろう」
「でも、あんなブロック、今の工程では上で使わないそうなんですよ」
「現場監督は自分たちのせいにしたくないんだろう。何かの間違いにしたいんじゃないのかな」
 自分も影を見たと言えばいいのに。
 その影に心当たりがあると言えばいいのに……。
 だが、今は言えない……。
「でも、課長……」
 美也が自分のために言ってくれているのはわかった。だが、今はまずいのだ。
「すまない、また痛みがぶり返してきたみたいだ。君も今日は疲れただろう? 色々と面倒をかけてすまなかった。礼はあらためてさせてもらうよ。今夜はゆっくり休んでくれ」
 美也はぐっと詰まって黙り込んだ。
 その顔を見ることができなくて、上を向いて目を閉じる。
「すみません、課長は病人だったのに。明日、また来ます。必要なものがあれば言ってください」
 きしりと椅子が鳴り、美也が立ち上がる気配がした。
「そんなに面倒はかけられないよ。私は大丈夫だから」
 目を開けて美也を見た。
 今もまた泣き出しそうな表情で、保をまっすぐに見つめていた。
 視線を逸らせば、保が消えてしまうのではないかと恐れているように。
「本当にありがとう」
 小さく頭を下げて、美也が病室を出て行く。
 ドアのところで振り返り、美也は唇を小さく動かした。
「俺は……貴方を守ります。……二度と……ない」
「……河合君?」
 語尾はかすれて聞き取れなかった。
 ドアが静かに閉じる。美也がいなくなった病室は、電気もついたというのに、ひどく暗く感じられた。
 美也は自分のことをどう思っているのだろう。少しは好かれているのだろうかと期待してしまう。
 ずっと付き添ってくれて、本気の心配をみせてくれた。
 だから、期待してしまう。
「まさか。無理だ……。それに……私はこんな身体だし」
 家庭も悲惨だ。
 ひどい事故に遭ったというのに、頼れる人もいない。
 母親は同じ病院にいるが、きっと訪ねてこない。
 他に身寄りはなく、親族の名乗りを上げた相手は……。
 物陰に隠れた黒い影。唐突に命じられた視察。
 いよいよ祖父の状態は悪いのだろうか。
 自分の始末を急いで、直接手を下そうとするほどに。
 病室の隅にもその影が潜んでいるようで、保はぶるっと身体を震わせた。



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