XXX 6 XXX 週があけた月曜日、保はプレゼントされたネクタイをしめていった。 ネクタイに合わせて少し明るめのスーツを選んだつもりだが、それがうまくいっているかどうかは自分ではわからなかった。 営業部に入ったときには、みんなの視線がネクタイに集中しているような気になって緊張した。意識しすぎているとは自分でも思ったのだが、平常通りと心の中で言い聞かせて朝の挨拶をした。 保の努力が功を奏したのか、社員たちはすぐに視線を自分の仕事へと向ける。 第一関門を突破したような達成感で席に着くと、まだ保を見ていた美也と視線が合った。 美也はにっこりと嬉しそうに笑った。普段よりも尚一層美しく見えるのは、やはり惚れた欲目だろうか。 「河合君、今日の午後はA地区を回るんだったわよね。うちの顧客先が好きな和菓子の店があの辺りにあるんだけど、買ってきてくれないかなぁ。明日、持って行きたいのよ。買い物の時間、ある?」 昼前になると、それぞれが食事に出かける支度をする。営業に出かけるものは、そのまま出かけることが多いので、美也に用事を頼もうとする女子社員が声をかけた。 「あ、いいですよ。なんていう店ですか?」 美也も気軽に引き受けている。 周りの社員たちは、本当に営業先に持っていくのかと疑わしい目で見ている。 美也と話すきっかけにしようとしているのではないかと推察しているのだ。 店と菓子の種類を説明するのに、わざわざ美也の隣に行き、必要以上に接近して見えるのも、疑いを招く原因だろう。周りはもう確信に近かったが。 田崎というその女子社員は、保から見ても今日はいつもより派手なスーツを着ているように思えた。 美也のほうは淡々と買い物をメモしていた。 「それじゃあ、俺、そろそろ昼飯に行きます。そのまま出ますので」 美也が書類をカバンにつめて席を立った。 「あら、もう? 買い物のお礼にランチをご馳走しようと思っていたんだけど」 田崎の台詞を社員たちは「やはりな」と聞いた。 「うーん、せっかくのお誘いは嬉しいんですけど」 美也が気乗りのしなさそうな声で自分の腕時計を見ようとした。 男性にしては細身の手首で、銀色の時計がくるりと回り、文字盤が内側になっていた。 それを右手で戻し、時間の確認をする。 「A地区のほうで食べようと思っていたんですよ。向こうの打ち合わせ指定が昼休みなんで、その後に食事にしようと思ってて。せっかく誘っていただいたのにすみません。それに買い物はついでなので、気を遣わないで下さいね」 断りの文句の後に極上の笑顔。 笑顔に見惚れ、断られたことが後になってわかる。 「あ、あら、そう?」 田崎もそれ以上はしつこく誘えないようだった。 美也が断ってくれたことを、保は内心ほっとしていた。 田崎は社内でもかなりの美人で、自分でもそれを自覚している節があった。 仕事はそつなくできるので、得意気な態度が鼻についても、保は気にしてなかった。田崎のほうも、保はターゲット外なのだろう、必要以上に接触してこないので助かっている。 「その時計、河合君には大きすぎるんじゃない? いつも見難そうよ」 いつもねぇ……と思いかけて、田崎の指摘に保もはじめて気がついた。美也は時間を見る時、いつも右手を添えていた。 あれは時計が大きすぎて、手首で回って、直していたからなのだ。 「時計屋さんで調整してもらえばいいのに。国内製だけど、ずいぶんいい時計でしょう?」 時計のメーカーまで見ているのかと驚いてしまい、保はつい二人を見てしまった。 「俺にはこれがちょうどいい具合なんです。両手で時計を見るって、なんだかいい男の仕草のような感じがしません?」 美也はまた艶やかに笑う。その笑顔のまま、保を流し見た。息が止まるような、美しい仕草だ。 「やっぱりいい男は、身だしなみも整えたほうがいいと思うわ」 田崎は負けずに言い返し、自分の席に戻った。本当はかなりいらついていそうな態度だ。 「それじゃあ行ってきます」 美也は誰ともなく声をかけて出ていった。 保は詰めていた息を気づかれぬようにそっと吐き出した。 室内は微妙な空気に包まれて、田崎をちらちらと盗み見るものもいるが、保は自分のカバンから黒いノートを取り出し、そっと開けていた。 ページの終わりのほう、最近の項目の中に、美也のプロフィールが書かれているはずだ。 履歴書を見ずに誕生日を当ててください。美也は言ったが、本人に聞いてもそんな答えが返ってくるのなら、他に調べようがない。 これは履歴書ではないからと言い訳しつつ、ページを繰る。 『河合美也』自分の文字の後に、彼のプロフィールが細かく書かれている。ほぼ履歴書を写したようなものだ。 19XX年7月17日。美也の生年月日がわかった。 誕生日までは2ヶ月ある。それまでにどうやって調べたのか、言い訳を思いつかないといけないだろうが、とりあえずわかったことで安心する。 何を贈ろうかと考えていると、無意識に手がネクタイへと動いた。 「課長にしてはちょっと冒険した感じのネクタイですよね」 田崎の向かいに座る吉本が声をかけてきた。保の課では、総合職の女子社員は彼女たち二人だけだ。 「慣れてなくて落ち着かない気分なんだ」 贈り主がいないので、照れも混じって本音を洩らす。似合わないだろう?と笑いを交えながら。 「お似合いですよ。課長は背も高いですし、もっとお洒落をすればいいのにと思ってました。雰囲気が明るいほうがきっと取引先で評判が上がると思います」 明るくなどとは、とても出来そうになかった。 「頑張ってみるよ」 前向きな返事をしながら、心の中では、明るくなんて無理だと言っていた。そしてこのネクタイはプライベート用だと決めた。 苦笑いでノートをカバンに戻すと、田崎が睨んでいた。保がそれに気づくとすっと視線を外されたが、その陰湿な瞳は保の心に重く沈みこんだ。 建築中の商業ビルを見てくれと本社から指示があり、保は美也を連れて現場を訪れた。 指示を出したのは、貴島正次、貴島グループ会長の次男であり、不動産部門の統括である本社の社長でもある。 会長の次男ということは、保の父、賢次の弟であって、保の叔父でもある。正次は保のことなど絶対に認めないという、反対派のトップでもあるのだが。 美也が受け持つ地域なので、視察の段階から連れて行くことにした。叔父から居丈高に言われ、少しでも気を紛らわしたかったという気持ちもあったことは否めない。 「地上5階建て、地下駐車場と隣に立体駐車場。半分が大手スーパーで、半分がテナント。隣にシネコンとゲーセン。ターゲットはやっぱり10代から20代ですよねぇ」 美也が完成予想のイメージ画と建設中の実物を見比べながら呟いた。 保の事情など知る由もない美也は、興味深そうに周りを見ながらついてくる。建築中のビルに入れることは滅多にないので、珍しいのだろう。 保は現場責任者を探して足場を潜った。入り口で聞いたところ、地下駐車場の出来具合を見に行ったということだった。 「課長!」 美也の叫び声に振り返った。 彼が大声を出すのははじめてのことだと思っていた。 「どう……」 戻ろうとした保は、必死の表情で駆け寄ってきた美也に腕をつかまれ、横に強く引きずられた。 「……っ!!」 何か言おうとしたのと、足首に衝撃が走ったのは同時だった。 「課長!」 ひどく大きな音がした。土煙も舞い上がる。 美也が顔を歪めて保と足首を見比べていた。泣き出しそうだ、綺麗な顔はこんなときでも美しく歪むんだなと、場にそぐわないことを考えていた。 右足首がじわりと痛みを訴え始める。 保の足の脇には、ブロックが粉々に砕けていた。 もしも美也が気づいて引っ張ってくれてなければ、あのブロックは保の頭を直撃していただろう。 「大丈夫ですか?」 わらわらと工事現場の人が集まってくる。誰もが顔を引きつらせているところを見ると、全員がぐるというわけではなさそうだ。 「何をしているんだ、救急車を!」 美也が悲痛な表情で叫ぶ。 「大丈夫だ。足を掠めただけで……」 なぜこんなものが上から……と見上げると、黒い影が揺れた。 あきらかに姿を隠した。 「血が出てますよ、ちゃんと病院に行かないと」 美也がハンカチで傷口を拭いている。 人垣ができ、ざわめき始める。 隠れた黒い陰、人の集まり、誰かの叫び声……。 赤い血、痛いのかどうかもわからないほどの衝撃……。 ずきっと足ではなく、頭が痛んだ。 「くっ……」 「課長?」 ずきずきとした痛みは強さを増し、ガンガンと襲い始めた。 「……うっ……うう……」 頭を両手で押さえ蹲る。 「頭を打ったんですか? 大丈夫ですか? 課長! 課長!」 美也の悲鳴に似た叫び声が強い痛みの中に割り込んでくる。 「救急車! 早く! 救急車を! 課長! 嫌だ! しっかりしてください!」 頭を打っているのなら揺らしちゃ駄目だと、誰かが保から美也を引き剥がそうとする。 「離せ! わかってる! 早く救急車を呼べよ!」 取り乱す美也に大丈夫だと言ってやりたい。 ――美也、大丈夫だから……。 「あっぁぁぁ」 痛みが更に強くなる。 何も言えないまま、頭を抱え、近づいてくる救急車の音を遠くに聞いていた。 |