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 4月に入ってきた新入社員に疲れが見え始める5月。世間では5月病というらしいが、張り切っていた新人が自分の限界や、過信を知り始める頃だ。
 それで落ち込む人が増える。
 最近は落ち込むだけではなく、あっさりリタイアする者が増えているという。
 ここで粘ればちゃんとした社会人になれるというのに。
 保の課の新入社員は5月病など無関係のように、バリバリと働いている。そのバイタリティーが眩しいほどだ。
 当初他の社員たちとギクシャクしていたが、美也が真面目に取り組み続けていると、厚かった壁も薄くなっているように見えた。
 元々がそれほど仲良しチームのような部署ではない。だからようやく美也も馴染めたということなのだろう。
 そうなると美也も他の社員たちと同様に、付き合いが悪く、金銭に渋い保のことを避けるのではないかと覚悟もしていたが、美也は全く態度を変えず、保を慕うように接してくれる。
 これが上司と部下でなければ、その態度に淡い期待を抱いてしまいそうになる。
 あれだけ容姿の整った青年が、何のとりえもない年上の、まして男など恋愛対称にするわけがないと自嘲する。
「課長、週末なんですけど、予定ありますか? ちょっと下見したい物件があるんです。もし課長に予定がなければ、一緒に来ていただけないかなと思いまして」
 週の半ば、美也が就業後に尋ねてきた。
「週末? 土曜日?」
 フロアにはもう殆ど人が残っていなかった。
「はい」
 保は机の上に出していたスケジュール帳を開いた。個人的には予定など入らないが、会社関係で予定がなかったどうかを確かめる必要があった。
「何も予定はないな。遠くか?」
 休日は病院に行く。溜まった家事をする。
 そして一人で過ごす。
 仕事の接待は苦手だし、貴島グループの幹部は保のことを隠したいので、そういったものは入ってこない。
「そんなに遠くじゃありません。じゃあ、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げて、お先に失礼しますと礼儀正しく帰っていく。
 胸の中に爽やかな風が吹いたような心地好さを感じた。
 本当に奇跡のような青年だと思う。
 外見が良いのにそれを鼻にかけたところもない。仕事は真面目だし、私生活も乱れた様子はない。
 恋人はいるのだろうかと考えて、緩やかに首を振った。
 いてもいなくても自分には関係のない話だ。いないからといって、そこに自分が座れるわけではない。
 そんな対象として自分が見てもらえるわけもないだろう。
 せめて頼れる上司になろう。そう思うしかなかった。

 美也が見たいと言ったのは、できたばかりの大型商業ビルだった。
 店舗間の隙間が広く取ってあり、天井も高く、開放的な流行の建て方だ。
 空間が広いと客は気持ちいいだろうが、入れる店舗は少なくなる。その兼ね合いが難しい。
 けれどギュウギュウ詰めで店舗を入れてテナント料を取るより、広く開放的にして客を呼び込み、複利的に儲けようとするビルが増えている。
「やはりこれからはこういう時代になるんだな」
 建てる前からテナントを決め、それにあわせて展開をしていく。ビルがあって店が入るのではなく、店にあわせてビルを建てていく。
 テナントが入れ替わるときも、どこでも入れるわけではなく、相当な審査がされそうだ。
「こういうところに新規の参入は難しいでしょうね。でも、食い込む価値はあると思うんです」
 上階から店を見ながら降りていく。
 土曜日ということもあり、人出はかなり多かった。
 若者向けということもあり、二人はそれぞれに私服で来ていた。
 保は普通にシャツとスラックスだが、美也は襟が黒い革のシャツに、袖が五分丈のピンク色のシャツを重ね合わせ、濃いグレーの細身のパンツをはいていた。とても社会人には見えない。
 髪もいつものように軽くセットしているのではなく、サイドもおろしてワックスで髪先を遊ばせている。
 これで美しい顔なのだから、歩いているだけで誰もが振り返るほどだった。
 立ち止まれば、誰かが声をかけようと様子を窺っているのがわかる。
 美也に見惚れる人たちは、その横に立つ保を見てそれまでぼーっとしていた顔を途端に不快そうに歪める。
 あまりにも不釣合いだからだろう。
 少なからず落ち込むが、それもまた仕方のないことだと諦めた。
 どうせ数時間のことだ。気づかないふりで押し通そうとした。
「あ、課長。この店、いいですよね」
 5階のメンズショップで美也が立ち止まった。
 Kaoru−10(カオルダッシュテン)というショップ名だが、保ははじめて見る名前だった。若者向けらしいが、品物は派手なのではなく、落ち着いたトーンのものが多い。
「このネクタイ、課長に似合いそうですよ」
 美也は青味がかった黒いネクタイを手に持っている。近づいていくと、やはり黒ではなく、紺色なのだとわかる。
 地模様とほとんど変わらない色の色で刺繍がされている。刺繍はどうやら花らしいが、何の花かはわからなかった。
「ちょっと私には若いよ」
 派手ではないが、やはり若くて明るい人がつけてこそ似合いそうなネクタイだと思った。
「そんなことないですよ。似合いますって」
 美也はネクタイを簡単に形作って、保の首に合わせ、傍にいた店員に「ね?」と相槌を求める。
 もちろん似合うわけがないのだが、まさか店員が正直に言うわけはなく、「とてもお似合いです」と営業スマイルを見せる。
「これ、課長の誕生日プレゼントにします」
「え?」
 包んでくださいと美也はさっさと店員にネクタイを渡してしまう。
「ま、待ちなさい。私の誕生日は3月に済んだばかりで、そもそも君に誕生日プレゼントを貰うようなことは」
「固いこと言いっこなしです。2ヶ月遅れの誕生日でいいじゃないですか。その時に俺はまだ社員じゃなかったんですから。上司に誕生日にプレゼントをして、ちょっと評価を上げておきたいんです。いっぱいお世話になったし」
 保の抗議を受け付けず、美也はたくさんの言い訳を早口で言って、店員もそれに共謀するようにネクタイを包んでしまった。
「週明けには結んできてくださいね、是非」
 綺麗にラッピングされた細長い包みを押しつけられる。
「じゃあ、河合君の誕生日はいつだ? その日には私からも何か贈ろう」
 それでおあいこになると、保は美也の誕生日を尋ねた。
 簡単に答えてくれると思っていた美也は、一瞬真顔になり、そして首を傾げて笑った。
「俺の誕生日、いつだと思います?」
「いつだと……って。そんなことを言われても……」
 確か履歴書に書いてあったはずだ。それを見た覚えがある。
 黒いノートにも部下のデータとして、プロフィールは書き込んだはずだ。
 けれど思い出せない。
「課長が俺の誕生日を、履歴書を見ないで知ることができたら、プレゼントを貰うことにします」
 美也は笑ったまま背中を向けた。下りのエスカレーターに向かって歩き出す。
「絶対に履歴書を見たら駄目ですからね」
 エスカレーターに乗った美也が振り返って笑いかけてくる。
 そのまま姿が消えていくのを、保は慌てて追いかけた。
 カサリとリボンが揺れた。
 本人は教えてくれず、履歴書も見ず、誕生日を知ることなど……できるはずがない。
 履歴書を見ても駄目なら、保の書いたデータを見るのも駄目なのだろう。
 エスカレーターをおりた美也は、保が追いつくのを、美しい笑顔で待っていた。



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