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 病院の廊下を足音を響かせないようにゆっくりと歩く。
 自分も入院していたこの病棟は、長期の入院者が多い。
 手に持った紙袋の中には、着替えが詰まっている。
 帰りには汚れたものを持って買えるために、紙袋は大きめのものだ。
 通い慣れた病室は、もう部屋の番号すら見なくてもわかるほどになっている。
 最低でも週に二回は通えるようにとは思うものの、休みの日に見舞いに来るのがやっとという時期もある。
 週の半ばの今夜来れたのは取引先との会議が一つ相手の都合でキャンセルになったためだ。
 四人部屋の入り口に荒谷みどりという名札がかかっている。入り口手前の左側のベッドに保の母親が入院していた。
「具合はどう?」
 保が顔を覗かせると、みどりはぼんやりとした視線をめぐらせ、しばらく見つめた後、「あぁ」と溜め息をつく。
 若い頃はかなり美人だっただろうと思わせる目鼻だちだが、今は顔色も悪く、やつれてしまっている。
 長い間、母一人で苦労して保を育て上げ、貴島の家との話し合いの最中に交通事故に遭った。みどりはその事故で下半身不随という後遺症を負ってしまい、入退院を繰り返している。
 事故は運転していたみどりの過失が原因のため、保険金は最低限しか下りなかった。母子家庭の苦しい生活の中、個人的な保険には加入しておらず、以後の入院生活は保の肩に重くのしかかっている。
「珍しいわね、平日に」
 視線を逸らして、暗い顔で呟いた。
「仕事が早く片付いたから」
 洗濯してきたものをロッカーに入れ、ベッドの下のカゴから汚れ物を取り出す。これも慣れた手順だ。
 ベッドの横の椅子に座ると、みどりはまたも深い溜め息をついた。
「リハビリなんて、どれだけしても一緒なのに、また違うことをしなくちゃならないんですって」
 リハビリが辛い。点滴や薬が嫌。看護師が不親切。医者の態度が悪い。
 みどりの愚痴はいつも同じことの繰り返しだ。
「頑張れば歩けるようになるかもしれないから」
「嫌よ。歩けても、両手に杖でしょ。それなら車椅子のほうが楽なのよ。もう嫌。保、早く退院できるようにしてよ」
 退院しても一人では生活ができない。公的なヘルパーだけでは満足せず、自己負担のヘルパーを雇うので、退院しても生活は楽にならない。
「ねぇ、貴島はまだあなたを孫とは認めないの?」
 最後は必ずこれだ。
 保と父親の父子証明の鑑定以来は、かなり前に出されているのだが、貴島側がなかなかそれを認めようとしない。
 弁護士を立てて裁判にしようとしたところでようやく、保の就職を世話してきた。
 当時、保もみどりと一緒に事故に遭い、生死の境をさまよったので、試験も受けずに就職できるのは正直なところありがたかった。
 しかし、貴島グループに就職できたなら、生活も楽になり、みどりの治療ももっといいところで受けさせてやれると思ったのは、糠喜びに過ぎなかった。
 貴島が用意した保のポストは、ただの飼い殺しだったのだ。
「なんとか頑張っているから。もう少し業績を上げられればきっと……」
 何度もした説明を繰り返すと、みどりは癇癪を起こした。
「いつもそればっかりじゃないの!」
 悲鳴のような叫び声に、部屋の中から咳払いが起こる。静かにしろという合図だ。
「母さん、興奮するのは良くないよ」
 この人を母親と呼ぶことに、心の奥で微かな抵抗が起こる。
 苦労して育ててくれた人なのに、申し訳なくて自分が情けなくなる。
「まったく……貴島さえ、あの人さえ生きていてくれたら……、病室だって個室に入れただろうに」
 今度はさめざめと泣く。
 見ていられなくなって、消灯の時間だからと立ち上がる。
「大事にしてね」
 来てくれてありがとうとか、貴方も気をつけてとか、そんな労いの言葉は一切かからない。
 来た時と同じように、足音をたてないように、ゆっくりと病室を出る。
 廊下に出た途端、保もまた重い溜め息をついた。
 また一人の部屋に帰らなくてはならない。立派な企業の課長だというのに、住んでいるところは2DKの古いアパートだ。保が生れたときからずっとそこにいる。
 稼いだ金は、母親の治療代に大半が消えていく。どれだけ質素に暮らしていても、貯金もままならない。
 部下に食事をおごることも、好きな人にプレゼント一つ贈ることもできないのだ。お金に細かい、ケチだと部下からの評判が悪いこともわかっているが、どうにもできなかった。本当にギリギリなのだ。
 なのに母のように貴島に対する恨みはあまり強くない。
 保はもう、いろんなことに疲れていた。
「彼だって、母子家庭で育ったのに……」
 美しい笑顔を思い出す。美也のことを思うだけで、沈んでいた心が浮上する。
 母親を大切にし、父親の思い出を楽しそうに語り、人付き合いは上手くないが仕事にも積極的に取り組んでいる。
「やはり、私は相応しくない」
 密かに想うだけにしよう。
 それならば、相手が男だということにも悩まなくていいのだ。
 誰にも告げない想いだから。

 金曜日は美也と一緒に、取引先に向かった。
 一度保にも顔を出して欲しいといわれたとかで、何か難しい要求でもされるのかと心配していたが、単に相手が大袈裟にしたかっただけのようだった。
 美也に対するパフォーマンスかもしれない。相手はビルの女性オーナーで、かなり美也を意識しているのがわかった。
 美也のほうはあくまでもビジネスライクに接していたが、それがどうにも不満のようだ。後で保に何か言ってくるかも知れないなと感じた。
 他の営業マンと担当を交換しなくてはならないかもしれない。
 美也と険悪になっていない相手にしなければならないだろう。
「課長?」
 帰りに立ち寄ったコーヒースタンドで、これからのことを考えていると、美也が心配そうに顔を覗きこんできた。
 間近で見つめられてドキドキする。
「すみません、こんなことで課長にまで出てきていただいて」
 保が疲れていると勘違いした美也が申し訳なさそうに謝罪する。
「そんなことは気にしなくていい。あのオーナーはちょっとうるさいタイプだったのに、君にちゃんと引き継がなかったから」
 彼女だけは自分が担当してもいいかと思いついて、少しばかりほっとする。
「また何か難しいことをいってきたら、すぐに報告してくれ。一人で悩まなくていいから」
「ありがとうございます」
 美也はこちらの下心などに気づかぬようで、純粋に喜んでいる。
 ニコニコと笑う笑顔は、年よりも幼く見えて、目を奪われそうになる。
 保は自分の視線を誤魔化すために、慌ててカバンからノートを引っ張り出し、今日の取引相手の項目を探し出した。
「分厚いノートですね」
 美也が身を乗り出して、テーブルの下、保が膝の上に置いたノートを覗き込もうとしていた。
 はっとしてノートを閉じる。
「あ、すみません。行儀が悪いですよね」
「いや……そんなことは……」
 保は厚手のノートの表紙にしっかりと手を置く。
 A4版のノートの黒い表紙はかなり使い込まれていて、角が擦り切れ始めている。
 不用意に他人の前でこのノートを出したことに自己嫌悪しながら、保はノートをカバンにしっかりとしまいこんだ。
「大切なノートなんですか?」
 問いかけながら、美也の目は保のカバンを見ていた。
「あぁ、まぁ……。いや、それほどでも……」
「どっちなんですか」
 言い悩む保に、美也はにこやかに笑う。
「大切だけど、好きではないノートなんだ」
 美也は微笑みを消し、真剣な眼差しを向けてきた。
 何かを言いかけて、口を閉じる。
「河合君?」
 横を向いて視線を落とし、小さな声ですみませんでしたと謝る。
 美也らしくない表情に、罪悪感がこみ上げる。
 けれど、どうしてもこのノートだけは見せられないし、その理由も明かしたくなかった。
「気にしないでくれ。こちらのほうが大人げないんだから」
 苦笑して話題を逸らす。
 美也と気まずくなるほうが辛かった。



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