XXX 3 XXX 5月も近いというのに冷え込みがきつく、雨が続いた週末、保は自分の机に座ってズキズキと疼くような頭痛を堪えていた。 立ち上がったり、大きな音を聞くだけでも痛みが酷くなるので、ひたすらに耐えることしかない。 「課長? 具合が悪いんじゃないですか? 顔色がよくないですよ」 吐き気がして席を立った保はトイレにやってきたのだが、朝からほとんど物を食べていないので、何度も飲み込んだ唾や胃液しか出てくるものはなく、嘔吐刺激によって頭痛が更に酷くなってしまって、立っているのがやっとという状態だった。 手を洗い、水で絞ったハンカチを額に当てて、なんとか頭痛を治めようとしていると、後からやってきた美也が心配そうに声をかけてきた。 トイレに入らないところを見ると、もどらない保を心配して様子を見に来てくれたのかもしれない。 「すまない。頭痛がするだけなんだ。しばらくじっとしていれば治まるから」 なんでもないように言ったつもりだが、顔色の悪さは隠しようもなかったのだろう。美也は愁眉を解かない。 「頭痛なら、いい薬を持っていますよ」 ポケットに手を入れた美也に、保は申し訳ないと思いつつ、首を小さく横に振った。 「薬は駄目なんだ。胃が痛くなったり、吐き気や眩暈がしたりする」 「ですが……」 美也は手に薬のシートを持っていた。 「色んな頭痛薬を試したんだけれどね、どれも駄目だったんだ。こうしていればなんとか治まるんだ。慣れているから気にしないでくれ」 無理にも笑うが、美也はシートからカプセルを二つ取り出した。 「河合君」 「課長、これならきっと大丈夫ですよ。これね、俺のかかりつけの医者に貰った薬なんです。なんと、小児用の痛み止めなんですって。これはさすがに試したことがないでしょ?」 美也にしては珍しく強引に話を進めてくる。 「だが……」 「小児用だから副作用が少ないですよ、きっと。大人は絶対大人の薬でないと駄目ってこともないです」 押し付けられたように薬を渡されて、どうしたものかと迷ったが、まっすぐに見つめてくるヘーゼル色の瞳に逆らえなかった。 「あ、これ、どうぞ」 反対側のポケットから、小さなペットボトルを渡される。 「ありがとう」 気分が悪くなったのなら悪くなったときだ。この際、吐こうが胃が痛くなろうが、大差はないような気がして、カプセルを口にいれペットボトルの水で飲み込んだ。 ただの水だと思っていたがほのかに甘みがあり、喉を通るときにすっきりした気分になった。 「これから外回りに行ってきます」 軽く頭を下げて美也は出て行った。 片手を上げて見送り、ゆっくりと自分のデスクに戻る。 あまり期待はしてなかったのだが、それから30分を過ぎた頃から、徐々に頭が軽くなっていくような気がした。 頭痛の名残りの重さは感じるが、痛みはなくなった。 信じられない気持ちだった。 「河合君、あの薬、よく効いたよ。ありがとう」 夕方になって美也が戻ってきて、業務報告を聞いた後、保はあらためて薬の礼を言った。そして薬の名前を教えて欲しいと頼んだ。 今までどの薬を飲んでも駄目だったのに、特効薬を見つけたような気分なのだ。手に入れておきたい。 「すみません、薬の名前は知らないんです。今度聞いておきます。今持っている分を渡しておきます」 美也はカバンの中から薬袋を取り出した。 薬袋には患者名は未記入だったが、水嶋小児科という医院の名前が印刷されている。本当に小児科の出している薬だったらしい。 「1回に2錠です。1日2回までということです」 「全部貰えば君が困るだろう? 持ち歩くということは君も頭痛持ちなんだろうし」 美也は優しい笑みを浮かべる。患者に対する医師のような微笑だ。 「俺はまた貰いにいきますから。頭痛薬下さいっていえば、すぐに出してもらえるんで。まだ家にも残ってるのがありますし」 「そうか? 悪いな、ありがとう」 「いいえ。それ、なくなったら言ってください。すぐに貰えますから」 かかりつけの医者ということで、薬も貰いやすいのだろう。 「しかし、小児科に……行くのか?」 こんな綺麗な男が小児科の待合室で一人で待っている様子を思い浮かべて、つい笑ってしまう。若い母親たちの注目を集めているのではないだろうか。 「ですから、かかりつけだから、患者さんがいなくなってから、こっそり連絡を貰うんですよ。酷いな、課長、笑うなんて」 もう貰ってきませんよと軽く脅されるが、笑われたことで恥ずかしがって目元をほんのり赤くした美也は、壮絶に美しかった。 笑いに誤魔化していなければ、息を詰めて見つめてしまうほどだった。 今日は一日頭痛を堪えていなければならないと覚悟していた保は、笑いながら業務時間が終わることがとてもありがたかった。 「じゃあ、今度、この薬のお礼に何かご馳走しよう」 貰った薬袋を大切にカバンに入れ、本当にお礼の気持ちで誘った。 けれどそんな二人の様子をちらちらと社員たちが見ているのがわかる。 拙いだろうかと思ったが、取り消しをするつもりはなかった。 保から歩み寄ろうとしても、あからさまに一線を引いたように距離を置かれてきた。 美也をそんなしがらみに巻き込むことになるだろうかと迷いはしたが、その迷いは一瞬だった。 美也のほうも、同僚たちの嫉妬混じりの厭味に辟易しているのだ。 「楽しみにしています」 けれどさすがに美也も具体的に話をするのは良くないと察したのか、冗談のように済ませて業務報告に移った。 その日の夜、美也から頭痛がぶり返してはいないか心配するメールが届いた。 保自身もそれを気にしていたが、幸いなことにまた痛くなったりはせずに、穏やかに眠れそうだった。 メールでならと、謝礼の誘いをしたが、美也は社内にいたときのように『楽しみにしています』とだけ返事をしてきた。 美也のことだから、気を遣わせ過ぎないようにという、気配りなのだろうと思う。 そう思いたい。そうでないと、振られたような気分になる。 「ようなじゃなくて、振られたんだろうな……」 ベッドに寝転び、ぽつんと呟くと、胸がちくりと痛くなった。 その痛みを不思議に感じて、胸に手を押し当てる。 目を閉じると、美也の綺麗な顔が浮かぶ。 またちくっと胸が痛む。 「まさか……」 まさかと、笑おうとする。 自分の気持ちを認められず、保は苦く笑った。 「相手はどんなに綺麗でも、男だぞ?」 男に惚れたというのだろうか。 「感謝してるだけだ……」 自分に言い訳をする。 確かに美也は美しい。名前に負けていない。 だが、それ以上に綺麗なのは心だと思っている。 彼の父親がそう願って名前をつけたように。 父親という単語を思い出し、保はふっと息を吐いた。 自分の境遇をまざまざと思い知らさせる。 自分が美也に思いを寄せれば、それだけで迷惑をかけてしまうことになる。 狭く、古い部屋。母一人、子一人では、ここでさえギリギリの生活だった。 大手の会社の課長ともなれば、二人の生活など余裕のはずだ。 実際、自分の年齢ならば、家庭を持ち、子育てをしている者だっている。 けれど、この古いアパートから抜け出せない。 保は溜め息をついて身体を起こした。 「たとえ相手が女性でも……無理なんだよ。人を好きになるなんて」 笑おうとして、なんとか笑おうとして、保はその苦さに顔を歪めた。 |