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 美也は順調に仕事を覚え、顧客先の評判も良かった。
 特にノルマというものはなかったが、それでも営業成績は数値で見えてくる。課長になった保には美也の成績がかなりのものであることはすぐにわかった。
 引き継いだ顧客先ばかりでなく、新規で仕事を取ってくるときもあり、新人とは思えない仕事ぶりを見せてくれる。
 保は純粋にいいことだと思ったが、周りの反応は微妙な感じになっていった。
 僻み、妬み、その他諸々の悪感情が渦巻き始めたのだ。
 最初はまだ可愛いものだった。
「顔がいいと得だよな」程度の冗談とも取れる軽い僻みだった。
 そこで美也が軽く受け流していればよかったのだろうが、彼はふんと鼻で笑ったというのだ。
「顔で仕事が取れるほど、世の中甘くありませんよ」
 新人が取る態度ではなかっただろう。可愛くないと、一気に印象が悪くなった。
 そうなると誰も悪口を止められない。
 憶測も混じり、悪質な捏造も加わっていく。
 しまいには身体で仕事を取っているのだという噂まで回り始めた。
 こんな時は上司である保が仲を取り持つのが普通なのだろうが、そもそも保自身が部下たちに受け入れられていない。
 荒谷保。
 名前こそは母親の姓なので荒谷だが、父親は貴島グループの会長の長男だった。
 保を妊娠した母と結婚する直前に父親は事故で亡くなった。
 母は保を貴島会長の孫として認めろと何度も交渉しているが、未だ認められていない。
 けれど保が貴島グループの中で働くことは認めた。
 その結果、若くして課長という地位につけたのである。
 保もまた、社員たちに羨望というよりは、妬みの対象となっているのである。
 保が正式な息子として迎え入れられていたなら、向けられる感情は180度違ったものになっていただろう。
 しかし、庶子であり、認知もされていず、貴島グループの中でも末端の会社で課長となれば、媚びる理由も見当たらないのか、冷ややかに保の成り行きを見ているだけだ。
 美也に対する態度を咎めれば、更に空気は悪くなるだろう。
 どうしたものかと悩み、美也を昼食に誘うと嬉しそうについてきたので、話を振ってみると、美也はあっけらかんと笑って言ってきた。
「俺は気にしていません。もう慣れていますから。むしろ課長は俺を叱らなきゃいけませんよ。もっとみんなに可愛がられるように態度を改めろって」
 保は苦笑いして、そうしてくれるか?と尋ねた。
「できません」
 なのに美也はきっぱりと断ってきた。
「河合君」
「俺には後ろめたいことなど一切ありません。顔で得をしていると思われているようですけど、むしろ嫌なことのほうが多いですよ。セクハラで訴えられるような案件もありますよ。会社のためにしませんけどね。もちろん、身体で仕事を取ったこともありません。俺は胸を張って、自分の実力で仕事をしているって、言い切れます」
 美しい顔できっぱり言われるとこちらがたじろいでしまう。それほどに迫力があった。
「だいたい、顔で仕事が取れるなんて、甘い考えですよね。そう思うならば、整形でもすればいいのに」
 傲慢とも取れる言葉だが、美也が幼い頃はその顔のせいでいじめにあってきたことを知っている身としては、きつく言えなかった。
「あまりあからさまなことは言うなと注意はするつもりなんだが」
「しなくていいですよ。さすがに社会人というべきか、おとなしいほうだと思ってますから」
 身体で仕事を取っているというのが、おとなしい方だといえるのかと、そちらのほうに驚いてしまう。
「以前はもっと?」
 美也はクスクス笑い出す。
「大学の単位も身体で取ったそうですよ、俺は。教授連中をたらしこんでね。もう勃たないようなおじいさん教授相手にそんなこと出来るかっていうの」
 ふざけたように言っているが、目元には悔しさが滲んでいる。言っているほどには忘れていないのだろう。
「黙っててやるから同じようにしろって脅迫めいたことも言われたことがありました。どれも無視してきましたけど」
 外見だけなら華やかで苦労知らずの美青年だが、そのために酷い中傷も受けてきた。
「そんなのに比べたら、社会人らしく、限度は弁えているんだなと思えますから」
 そんなものかと済ませられないような話をされてしまう。
「顧客先で身体を触られたりとか……するのか?」
 美也の言葉に引っかかって尋ねると、おかしそうに笑う。その表情は妙な色気があって、保はどきっとした。
「ボディタッチが多いなと思う程度ですよ。まぁ、ちょっと仕事のことでうまくいかないって愚痴をこぼすと、他の仕事を紹介してくれたりなんかはしますけど、絶対に見返りは差し出してません」
 薄い色の瞳が真っ直ぐに保を見つめてくる。
「それなら誤解は解いておいたほうがいいんじゃないのか?」
 ほんの少し歩み寄ってくれれば、魅力的な美也の外見に対しては、強くは言えないのではないだろうかと思う。
 美しさを武器にするのなら、社外のみではなく社内にも向けるほうが、美也にとっても良いのではないか。
「誤解も何も、そんな噂を口にする時点で、あの人たちに理解してもらえるとは思いませんから」
「しかしな……」
 頑なともいえる美也の態度に、少なからず困惑する。美也にこんな一面があったと知るのは、意外な驚きでもあった。
「自分の努力もしないで、他人の結果を本人の努力以外の場所に探すなんて、馬鹿すぎます。彼らが俺に、どのような営業努力をしているのか聞いてくれば、惜しみなく話すつもりでいますけど、顔で取引をしていると思われているんなら、そう思っておけって思うだけです」
 美也は孤立しているわけではない。孤高であろうとしているのだ。
 他人と折り合うのに、自分が低みへ降りるのではなく、高いところへ登って来いと待つタイプなのだろう。
「確かに、他の者は少しばかり考え方が甘いのかもしれないな」
 もう説得は無理なのだろうと保は溜め息をついた。
「課長もあまり彼らの顔色ばかり伺わなくてもいいんじゃありませんか?」
 深い溜め息をどのように取られたのかわからないが、美也は自分の強さを保にも求めてきた。
「別に顔色を伺っているわけでは……」
 弁解をしようとするが、すぐに口篭ってしまう。
 たいして大きな仕事をしたわけでもなく、前の課長が異動したのにあわせて、自分がそのまま課長に昇進した。
 年齢でいえば上の者もいたし、部下の信頼の厚いものも他にいたというのに。
 その不自然な昇進に、社員たちはあからさまに眉を顰める。
 保自身、美也のことを心配するより、自分について回る嫌悪の混じった噂を消さなければならない身だ。
 けれど変な噂を流すなと強く言えない。
 いつ貴島グループを追われるかわからない身では、悪目立ちすることだけは避けたいのだ。
「営業先で課長の話は必ず出ます。誠心誠意、とてもよく顧客の面倒を見てこられたではありませんか。課長でなければこの不況の中で、不動産屋を通して賃貸に出すなんてしなかったという人もいましたよ」
「それは社交辞令だよ」
 真面目にコツコツとしか仕事のできない。他から見れば利益率の悪い仕事ぶりだと映っているだろう。
「本当の話ですよ。普通なら担当が替わった時点で契約を切られることも多いのに、継続してもらえているのは、面の皮一枚の美醜じゃありません。俺の背後に課長がいてくれるからですよ」
 熱心に褒められて、これではどちらが説得しているのかわからない。
「君が私に接するように、他の社員にも接してくれれば……」
 つい愚痴めいた言葉を洩らしてしまう。
「みんなが課長のように、俺の努力していることも認めてくれればね」
 どうにも説得は無理らしいとわかり、保は苦笑するに留めた。
「けれど何か困ったことがあれば、すぐに言ってくれ」
 強い意志のこもった美也の瞳は、揺るぎないものだ。彼はそう生きていくことで、外見で判断されることの不都合を武器に変えてきたのだろう。
「そのときはお願いします。課長だけが頼りですから」
 微笑を浮かべた美也は壮絶に美しかった。ぞくりと背筋が痺れるような、憶えのある感覚が走る。
 まっすぐに見つめてくるヘーゼル色の瞳から逃れるように横を向いた。
「そういえば、この前新しく契約したところなんですが、一度課長と会いたいと言ってるんです。そこを紹介してくれた宮原ビルの人が、課長の話をしていたそうで、つなぎだけでもお願いできますか?」
「あ、あぁ」
 保は慌てて上着の内ポケットからスケジュール帳を取り出した。近々の予定を確認する。
「そうだな、今週の木曜日なら、午後から予定を空けられるが」
 細かい字でびっしりと書かれたスケジュールを調整しようとする。
「あとで向こうにそれでいいか聞いてみます」
 言いながら、美也は保の手元を興味深そうに見ている。
「何だ?」
 特に見られても不都合なことは書いていないが、手前に引いて隠すようにしてしまう。
「前から思っていたんですけど、課長って、スケジュール帳にかなり細かく書き込みますよね」
 時刻と社名だけではなく、担当者名から建物の階数、時には電話番号や打ち合わせした時間までを書き入れたノートは、遠めに見れば黒くさえ見える。
「あ…、そ、そうだ。癖なんだ。書いておかないと不安でね」
 そういえば奇異な目で見られるか、神経質だと敬遠されるかどちらかなのだが、美也はノートから保に視線を戻し、そうですかと微笑んだ。少しだけ寂しそうな目で。
「忘れてしまうよりは、いいことですよね」
 ぐにゃりと視界が揺れるような鼓動がした。
 思わず目を閉じる。
「課長? 大丈夫ですか?」
 美也の声が耳の奥で聞こえるような、遠い感覚を味わう。
「大丈夫だ……」
 気持ちを落ち着けようと深呼吸しながら、目を開けて顔を上げる。
 心配そうに覗き込む瞳が目の前にあった。
 ドクドクと自分の心臓の音が聞こえるような気がした。



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