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 梶原と一緒に通された病室は、その病院で最高の特別室で、ホテルの部屋かと思うような豪華さだった。ベッド周辺に配置された医療機器が、それを感じさせるのみだ。
 病室のベッドとは思えない広いベッドの真ん中に一人の老人が寝ていた。上体を少しだけ上げて、入ってきた恭平を見ていた。
 顔色はよくない。深く刻まれた皺に年齢と病気の影を感じる。貴島賢一翁だ。
「賢次の……息子ではないのか」
 しわがれた声は聞き取りにくい。
「違います。荒谷みどりさんの運転する車で事故に遭い、記憶喪失になり、保さんの記憶を植え込まされました」
 詳しくは文書にして送付してあった。この様子では読めてないかもしれないと心配したが、渋面で頷く様子を見れば、読んだのか聞かされたのか、わかってはいるようだった。
「賢次と保の父子鑑定では、間違いなく親子であると証明されたが」
 意識はしっかりしているようで、言葉はゆっくりだが、内容に変なところはない。
 けれどその内容こそ、恭平には納得できないものだった。
「親子鑑定についてはしていただけない、結果は出ていないと、ずっと聞かされていましたが」
「正次と塚田が握り潰していたようだ」
 そこで貴島は疲れきった様に目を閉じた。
 あまり長くは起きていられない様だ。
「貴島家としては、荒谷保さんと賢次氏との親子関係を認知すると同時に、正次氏と塚田氏の件につきましては、御子柴さん、貴方に訴えを取り下げていただけるよう、示談の席について頂きたいのです」
 貴島家の顧問弁護士がソファへ座るようにと手で促す。
 恭平と梶原はそろってソファへと移動した。
 秘書らしき人物が熱いお茶を運んでくる。本当に病室とは思えない待遇だ。
「我々は御子柴さんが来られる前に、荒谷みどりさんと面会してきました。貴方が保さんではないとなると、本物の保さんはどうなっているのか、とても疑問でしたので。実際に親子鑑定に出された血液と頭髪は、賢次氏と親子であると証明されましたし」
「親子鑑定については、事故の前に行われたはずです。俺は血液をとられたこともないし、髪の毛も渡した記憶がありません」
 弁護士は資料をめくりながら、うんと慎重に頷いた。
「事故は二年半も前のはずですけれどね」
 どうしてこんなに時間がかかった。それを非難する気持ちは大きかった。
「鑑定結果については正次氏より報告を受け、その時に荒谷親子には十分なことをしていると報告を受けていました」
「しかし、認知についても何度も弁護士事務所にも訴えていました」
 何もみどりの擁護をする必要はないのだが、保として暮らした二年間については、言いたいこともいっぱいあった。
「正次氏はその度に、過剰な要求を受けていると、反対に悩んでいる様子でしたので」
 怒りを感じるよりも呆れてしまうようなお粗末さだった。
「それで荒谷みどりさんに、保さんの消息を尋ねました」
「まともに話し合えましたか?」
 梶原がとうてい無理だろうというように尋ねた。
「お二人がみどりさんと面会された後、かなり興奮状態が続いたようで、抗精神剤を処方されていました。それで落ち着いていたようです。少しばかり呂律や記憶に曖昧なところはありましたが」
「結果は?」
「保さんは亡くなっておられるそうです。おそらくとしか言えないのですが、みどりさんのお話によれば、交通事故で亡くなれたと警察から連絡があり、確認に行ったとき、保さんではないと証言してしまったと。警察に問い合わせたところ、保さんと思われるご遺体は行方不明者として荼毘にふされ、ご遺骨が保管されていました」
 もう全てがわかっているというわけだ。
「今回、御子柴さんに和解して頂く条件として、正次氏、塚田氏への告発を取り下げて頂き、こちらから治療費と慰謝料として、これだけをお支払いしたいと思っています。
 示談書と書かれた用紙には、細かい文字で示談条件が書かれた後に、想像していた以上の金額が提示されていた。
「ここには明記していないのですが、これでみどりさんへの告訴も取り下げて頂きたいと、賢一氏の願いも入っております」
「貴方たちはみどりさんに対して、どうするつもりなんですか?」
 賢次との生活は叶わず、息子を女手一人で育て、その息子にも先立たれ、自分は半身不随の重傷を負った。
「賢次さんも保さんも亡くなられた今、本来ならば賢一氏の遺産を渡すべき相手はみどりさんになります。けれど、みどりさんも重病の身、彼女が亡くなられたあと、貴島家の財産が他人に渡ることは避けたい」
「そんな勝手な」
「えぇ、とても勝手ですね。その代わり、みどりさんの今後の治療から老後の生活にわたるまで、すべて貴島家で十分にさせていただくこととします」
「貴方たちは信用できない」
 いまさら信用できるわけがない。
 保に遺産が渡らないようにするために、人の命まで狙おうとする一族だ。
「みどりさんの後見として、貴島貞夫さんと塚田歩さんのお二人を指名させて頂きます。正次氏の長男である貞夫さんと、塚田氏の長男である歩さんは、貴島家に対しては改革を望まれておられる方です」
 保の身体を心配してくれていた歩を思い出し、彼ならば信用できると感じた。
「歩さんは御子柴さんに対してもとても心配しておられ、みどりさんが今後、御子柴さんにご迷惑をおかけないよう、しっかり後見の役目を負うと申しておられます」
 これでよかったのだろうか……。
 身体中から力が抜けていくような虚無感を覚える。
「よく話し合ってから、お返事をさせて頂きます」
 梶原が提案してくれたので、恭平も疲れた身体で立ち上がった。
「ここでの最後のお願いなのですが……」
 弁護士が言い難そうに恭平を見た。
「なんでしょうか」
「みどりさんが貴方を街で見かけて、保さんにそっくりだから身代わりを頼むつもりで、話を偽って車に乗せた所、事故を起こしたという話でした」
「えぇ、二十歳を過ぎてからの写真は少なかったですが、それでも俺に似ているとは思っていました」
「賢一氏に顔をよく見せてあげてくださいませんか? 賢一氏は、とうとう保さんに会うことが出来ませんでした」
 会うつもりなどなかったのではないか、何度も面会を申し出たが、すべて断れたのだという恨みは、老人の病の深い顔を見れば言い出せなかった。
「荒谷親子の面会の願い出は、すべて正次氏によって握り潰され、賢一氏からの願いは貴方達から断られたと聞かされていたのです」
 恭平の心の中を察してか、弁護士は申し訳なさそうに言い添える。
 ベッドの脇まで歩いていき、恭平は側の椅子に座った。
 賢一翁はゆっくりと目を開き、恭平を見た。その瞳が潤んでいるように見えるのは、気のせいか病気によるものか。
「お祖父さん、病気に負けないで。頑張ってください」
 顎がゆっくり上下する。
 唇がかすかに動いて、恭平は保が言うはずだった言葉を口にした。
「恨んでなんて、ないよ」
 賢一翁が眠ったのを見て、恭平は立ち上がった。
 弁護士が頭を下げるのを背に、病室を出た。



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