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 御子柴恭平は壊れそうなほどに速く打ちつける心臓を宥める術もなく、手や足の震えをどうやって止めていいのかもわからず、いっそ倒れてしまいたいと思う気持ちを叱咤して、なんとかその場所に立っていた。
 ここまでは梶原に送ってもらった。
 一緒に説明しましょうかという申し出は、実のところとてもありがたかったのだが、決死の覚悟で断った。
 貴島家との和解交渉は順調に進んでいる。そのほとんどは梶原に任せてあったが、治療費と慰謝料でかなりの額となり、梶原への支払いも十分にできる。
 いよいよ大詰めとなった和解交渉について、貴島賢一は恭平の両親への謝罪もしたいということで、両親への報告をする前に、恭平は自分のけじめをつける時がきたと覚悟を決めた。
 本当なら、和解交渉が始まった時点で、会えばよかったのだろう。
 しかし、まだ完全に御子柴恭平に戻ったわけではない、きちんと和解が成立し、今後の心配がなくなるまでと、引き伸ばしてきたのは言い訳でしかない。
 怖かったのだ。
 ただ、ただ怖かった。
 時間はあっという間に流れ、季節はもう冬で、半年が過ぎてしまっていた。
 出来れば職が見つかるまで、という思いはあったが、それも臆病な自分の言い訳でしかない。
 会うのが怖い。
 美也は自分を責めるだろうか。
 責めないはずがないとわかっていながら、顔を見るのが怖かった。
 美也の部屋が見えた。もう帰っているらしく、部屋の明かりがついている。
 感覚がなくなるほどに冷たく緊張している指先をぎゅっと握りしめる。
 一歩を踏み出して、責められるならまだマシな方だよなと気がついた。
 顔も見たくないと拒絶されても仕方ないのだ。
 待っていてくれと頼んだわけではない。何一つ約束もしていない。
 黙って姿を消し、会える機会はいくらでもあったのに、逃げていた。
 今更何をしにきたと、つき返されるかもしれない。
 踏み出した足が止まる。
 逃げ出せればどれほど楽になるだろう。
 そう思った自分の弱さに唾棄するほどの腹立ちを覚える。
 とにかく殴られよう。どれほど罵声を浴びせられてもいい、どれほど責められてもいい、もう顔も見せるなと拒絶されてもいい。
 会いたい。美也に会いたい。
 御子柴恭平として、河合美也に会いたい。
 高校時代に知り合って、そのまま自分を追いかけるように大学に来てくれた。
 気持ちを打ち明けたのも美也からだった。
 恭平は美也をいいなと思いながら何もできずに、遅れて美也の気持ちを察しながら、気持ちを口に出来ずに、手を出せずにいた。
 今も昔も臆病なのは自分で、美也が行動に移してくれた。
 だからもう逃げてはいけない。美也のどんな気持ちも、怒りでも、苦しみでも、呆れでも、憎しみでも受け入れて、今度は自分から美也を取り戻すために行動を起こさなくてはならない。
 だから、まずは謝罪からだ。
 ごくりと唾を飲み込んで、萎えそうになる足を運んだ。
 まるで綿の上を歩いているような頼りない感覚だが、なんとか美也の部屋の前までたどり着いた。
 インターホンを押そうとする指先が、みっともないほど震えている。
 ぎゅっと目を閉じて、深呼吸をして、それでも震えは止まらなかったが、小さなボタンを押した。
 ピンポーンと、恭平の心境とは正反対の軽やかな音がした。


 もう捜す場所がない。
 どうして人間が一人、こんなに綺麗さっぱり消えてしまうのか。
 上着も脱がないまま、美也は疲れた身体をソファに横たえ、深い溜め息をついた。
 前にも捜し出せたじゃないか。
 大介は前と同じように捜せば見つかるんじゃないかと、励ましのつもりなのか簡単に言ってくれるが、その希望は薄いように思われた。
 前は……恭平は記憶を失い、荒谷保として普通に生活をしていた。
 アレルギーと持病を持つ恭平なので、どこかの病院に現われるに違いないと、色んな病院に出向いていた。そこで保を見つけた。
 自分の病気ではなく、みどりの見舞いに来ていたのだが、それでようやく見つけることが出来た。
 今回は……恭平はどうやら、恭平として姿を消した。そこに「消える」という意志がある限り、簡単には見つけられないように思う。
 それでも一縷の望みを託し、みどりを何度か訪ねたが、一度目は保を連れてこいと怒鳴られ、二度目は保が保がと錯乱状態で、三度目にはまるで意志の抜けた人形のようで、そして先日はとうとうどこかへ転院してしまったとかで、その場所を知ることはできなくなっていた。
 もう無理だ。捜す場所がない。
 宗田という弁護士は、貴島家で何かあったらしく、とても忙しそうで、美也を見れば気の毒そうに顔を反らされてしまうのだ。
 その宗田も、とうとう今日、弁護士事務所を辞めてしまったらしい。
 貴島家との何かで忙しかったのではなく、自分が独立するために忙しかっただけなのだ。
 宗田から預かっていると、事務所の人が封筒を渡してくれたが、中には一枚の名刺が入っているだけだった。
 何故弁護士など紹介されたのだろう。紹介されるのなら、探偵事務所のほうが相応しいはずなのに。
 もう疲れた。捜す場所など残っていない。
 身体も、心も、とうに限界は過ぎていた。
 資金も底をつきかけている。
 御子柴の両親は捜索費用として援助をしてくれるが、それを受け取る気持ちにはなれず、全部恭平のために貯金してある。
 彼が戻ってきたときのために……。
 ……涙がこぼれた。
 戻ってくるのだろうか。
 今度こそきっと自分は捨てられたのだ。だから、恭平は戻ってこないのだ。
 執拗に捜し、記憶を失くした保の前に平然と現われ、騙していたのも同然のように部下として接した。
 きっと恭平は記憶を取り戻した途端、そんな美也が怖くなったのだ。
 だから戻ってこないのだ。
 明日からは……恭平ではなく、仕事を探そう。
 大学に戻れるかはわからないが、復学して、また助手として雇ってもらえるように頼み込もう。
 二人で戻るのだと決めて、恭平の籍もなんとか残してもらっている。
 そこへ一人で帰ろう。
 そう思うのに、明日ここを出れば、また恭平を捜してしまうかもしれない。
 そんな毎日の繰り返しなのだ。
 けれど明日こそきっと。明日はきっと、仕事を探そう。
 大学でなくていい、一人で生きていけるように。
 だから今夜はもう眠らせて。一人でゆっくり眠らせて。
 部屋の明かりを消す気にもなれず、ベッドに行く気にもなれず、上着さえ着たままで、ソファで目を閉じる。
 今夜は眠らせて。恭平の夢を見ないですむようにゆっくり眠らせて。
 そう祈った美也の耳に、部屋のインターホンが長閑な音を響かせた。
 大介だろうか。
 心配して見に来てくれるのはありがたいが、彼を見るのは正直辛いのだ。
 居留守を使えば帰ってくれないだろうか。
 起き上がる気になれず、美也はソファの上で丸まった。
 ピンポーンと、軽やかなベルがもう一度鳴り、美也は溜め息をこぼして床に足を下ろした。


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