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 みどりと面会をしてから、頻繁に頭痛が襲うようになっていた。
『お前は保だっ!』
 叫ぶみどりの声が頭に響いて、それが痛みを呼び起こすのだ。
 しかし、繰り返される痛みのやり過ごし方も覚えた。
 目を閉じ、深呼吸を繰り返す。そうして御子柴恭平の思い出を呼び起こす。
 家族や友人達との楽しい過去。途切れがちだった記憶も、その方法によってゆっくりと繋がっていく。
 そして美也との想い出。美しい笑顔と、交わした会話の数々。
 目を開いたときには、側に美也がいないことがとてつもなく寂しかった。
 会いたい。走り出しそうになる感情を必死でこらえる。
 あと少し。もう少し。せめてこの後遺症が落ち着いて、貴島家の確執から解放されてから。
 命さえも狙おうとする荒谷保の親族から、別人だと認識されるまでは。
 本当ならば事故の時に治療をした病院で、記憶喪失とその後の過誤記憶症候群についての治療とカウンセリングをしてもらうのが一番いい方法なのだろうが、恭平はその方法を選ばなかった。
 そこに行けば美也に会うだろうから。
 美也が本当のところ、どのようにして荒谷保を見つけ、それが恭平だと確信したのかはわからない。
 だから接触しそうな場所は避けるしかなかった。
 それと同時にあの病院もあまり信用はしていなかった。
 恭平の症状を解離性健忘と診断し、それ以上の追求はしなかった。母親だと名乗るみどりの言い分を信じるしかなかったのは事実だろうが、大の男が一人、身分証明になるものを何一つ持たず、携帯さえ持たずにいたのに不思議にも思わなかった。
 頭痛についても、ただの後遺症とだけ決め付け、薬が合わなくてもずっと同じ物を処方し続けた。
 母親に保の事について問い合わせられるのも困る。
 今はただカウンセリングを受けて、貴島家や荒谷みどりと闘う気力を溜めたかった。
 梶原はまず第一に、傷害事件として荒谷みどりを、殺人未遂として貴島正次と塚田愛の告発することを提案した。
 民事訴訟よりも刑事告訴を先にした方が、身辺の安全も図れるだろうし、追いつくように裁判を起こす民事訴訟も勝ちやすいだろうということだった。
 告発というのはどんなものだろうかと心配は大きかったが、梶原が届けを出しに行き、ずいぶんと早く帰ってきた。
「届け出るだけですからすぐですよ」
 イメージとしてはすぐにも警察が三人を捕まえに行くのだろうかと思ったのだが、そんなことはないらしかった。
「ただ、問題なのがですね、実際に殺人未遂に遭ったのが荒谷保さんで、それは犯人はわからないまま捜査は続行されていて、その犯人を名指しで、別の被害者が届け出たという形になりますから、御子柴さんもこれから事情を聞かれることになるでしょう」
「それは覚悟をしています。出来る限り、理解してもらえるように、思い出せる限りのことを書き止め、詳しく話せるように頭の中も整理してあります」
「大変でしょうが、頑張りましょう」
 梶原はにっこり笑って恭平に握手を求めた。
 差し出された右手を握りしめ、恭平は決意も新たに、しっかりと頷いた。

 吹く風が冷たさを増し、コートを着る人が増え始めたが、恭平の周囲は大きな変化はなかった。
 恭平の事情聴取は済んでいたが、それ以外の捜査がどのように進んでいるのかはほとんどわからない状態だった。
 梶原が何度か足を運んでくれているが、あまり捗々しくないようだった。
「もっとこう、バーンと事件が解決するように思ってました」
「テレビドラマのように?」
 梶原に言われて、恭平は正直にはいと言って笑った。
「いやぁ、弁護士事務所に来る人のほとんどはそんな感じなんですよ。弁護士が出て行くだけで解決したら、私達も楽なんですけれどねぇ」
 実際のところ、弁護士は膨大な書類を抱え、地道に聞きまわり、聞き分けのない相手を説得するのが仕事だと梶原は笑う。
「特に私のような冴えない中年が行くと、あからさまにがっかりされてしまうので、肩身が狭いです」
 梶原は冗談交じりに言うが、彼の弁護士事務所は着実に仕事の数も増え、実直な仕事ぶりに紹介者が広がり始めている。
 宗田や梶原に出会えたのは、恭平にとってとても幸運なことだった。
 二人でなければ、今頃、また自己を喪失してみどりの元へ戻っていたのではないかとすら思える。
「今までの不運の見返りですよ、きっと。けれど、まだ私は御子柴さんのために何か出来たわけではないので、あまりありがたく感じないで下さい」
 梶原の謙虚さに心を打たれる。彼の元で働きながら、恭平は元の生活に戻るための準備も進めていた。
 約三年にわたる他人としての生活のため、失くしたものは数知れずあった。
 一番大きなものは仕事だろう。大学の助手として仕事をしていたが、もう元に戻るのは無理だろう。
 仕事を探さなければならないが、まだ御子柴恭平として動くことは出来ないので、就職活動に向けて色々調べ始めていた。
「このままここで働いて欲しいくらいなんだけれど」
 梶原は言ってくれるが、そこまで甘えることも出来ない。何の資格もない、もとより理系で畑違いの恭平では、できる仕事もこれから取れる資格も限られてしまっている。
 他にも運転免許の期限が過ぎていたりして、身を立てるだけの基盤がなにもない。
 不安はいっぱいだったが、それに挫けているような場合ではなかった。
 むしろやる気だけは溢れており、焦ったり、空転したりと、自分にイライラすることが増えた。
 とにかく帰りたい。元に戻りたい。
 それだけで心がいっぱいになる。
 自分を抑えるばかりのある日、梶原の事務所に宗田が駆け込んできた。
 尋常ではない様子に、恭平の不安が増大した。
「貴島賢一氏が御子柴恭平さんに会いたいと言ってます」
 はぁはぁと荒い息の中、咳き込みながら言う。
「貴島……賢一……」
 記憶の中の、正確にはノートに書かれた文字の中の、その名前を。
「保の祖父……?」
 息を整えながら宗田が頷いた。
「入院中で容態が思わしくなかったのでは?」
「入院中なのは確かですが……、それほど酷くはないようです。貴島と塚田が、賢一氏に荒谷親子のことを聞かせないようにしていたようです」
 二人の汚い策略に、みどりも保も嵌められていたということだろうか。
「二人が御子柴さんに訴えられ、このままでは逮捕、実刑も免れない見通しで、ようやく打ち明けざるをえなくなったようです」
 それでは恭平のやってきたことは無駄ではなかったのだろうか。
「まだ安心は出来ませんが、まずは一歩を踏み出せそうですね」
 みどりが、保が、どうしても会えなかった人物。
 その人に会える。
 じわりと汗の滲む手を、恭平はぎゅっと握りしめた。



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