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 荒谷みどりの病院に足を運ぶのは本当に久しぶりのことだった。
 記憶を取り戻して以来、一度も訪ねていない。だから本人がどうしているのかはわからなかった。宗田の同僚が何度か訪ねて行ったそうだが、特に取り乱してはいないものの、息子が行方不明だと報せると、意味不明の言葉をぶつぶつと呟き続けていたそうだ。
 周りは精神疾患を心配しているようだが、本人は一切の治療を拒否しているという。
 病室で面会をすることは憚られた。
 もう息子ではないのだ。
 梶原も宗田も荒谷みどりをまず告発することを勧めたが、恭平はとにかく一度会って、彼女からの謝罪を求めたかった。
 彼女もまた貴島の家の被害者なのだ。彼女にも貴島から受け取るべきお金があって当然だと思う。
 荒谷みどりを許すつもりはない。自分が犠牲にされた二年半は、恨み深き長い時間だ。けれど、何も持たない彼女から、全てを奪って犯罪者にするのは、あまりにも非常なような気がしたのだ。
 貴島家が保の父の死に際してするべきことをしていれば、この悲劇は起こらなかった。
 病院側に申し入れ、小さな会議室を借りてもらった。
 梶原と二人で椅子に座って待っているところへ、荒谷みどりは車椅子に乗せられてやってきた。
 入ってきた彼女を見て、恭平は驚きに息を飲んだ。
 一気に老けている。まだ60才になっていないはずなのに、車椅子に背を丸めて座っている姿は、今にも枯れ落ちそうな老人の姿だった。
「保……おまえっ!」
 けれど恭平を見た途端、皺だらけの顔を醜く歪ませて、細い腕を伸ばしてきた。
「どこに行ってたっ! 動けない母親を放り出して、何してたっ! このひとでなしっ!!」
 身体が自由に動いたなら、掴みかからん勢いで、恨みのこもった目で恭平を睨みつけてくる。
「俺は荒谷保じゃない。それは貴方がよく知っているはずだ」
 目の前の女性は小さく、身体も自由に動かない老人だというのに、恭平は恐怖に肌を粟立たせた。
 恨みよりも、憎しみよりも、恐怖が勝っている。
「お前は保だっ! 私の息子だ! 保!! 貴島から遺産を取って来い!」
 思わず顔を背けてしまう。もはや彼女の頭の中も心の中も、金のことしかないのだ。
「荒谷みどりさん。私は彼、御子柴恭平さんの弁護士の梶原と申します。貴方が二年間に渡って、記憶喪失の彼に誤った記憶を与え続け、彼本来の生活を奪った。その件について……」
「こいつは保だ!! そんな男じゃない! こいつは私の息子なんだ! 貴島家の御曹司なんだ!!」
 梶原の言葉を遮り、自分の言いたいことだけを叫ぶ。
「落ち着いてください、荒谷さん。彼は自分の記憶を取り戻しました。彼は貴方の息子さん、荒谷保さんではありません」
 修羅場にも慣れているのか、梶原は動じることなく、言い聞かせるように話しかける。
「こいつは保だ! 保! 全部教えてやっただろう! 思い出せないなら、全部教えてやる! 保ー!!」
 車椅子から落ちそうになりながら、必死に恭平に手を伸ばしてくる。その姿を見ているだけで身体が固くなり、ずきんずきんと頭痛が押し寄せてくる。
「荒谷さん、興奮しちゃ駄目よ。血圧が上がるわ」
 看護師が落ち着かせようと、みどりの肩を優しく叩くが、気付いていないのか、無視しているのか、みどりの目は恭平だけを見ていた。
「お前は保だ。保! 母さんを見捨てるのか、一緒に貴島に復讐しようと約束したじゃないか!」
 恭平は首を振り、よろよろと後ずさった。椅子にぶつかり、がくりとその場に膝をついた。
「大丈夫ですか、御子柴さん」
「違う、保だ! 保! 保!」
 車椅子からずり落ちて、恭平に擦り寄ろうとする。付き添いの看護師が慌ててみどりの身体を起こそうとするが、その手を邪険に振り払う。
「痛…い……。くっ…」
 みどりから逃げるように後退し、頭を押さえた。
「御子柴さん、大丈夫ですか。とにかく、今日は一度帰りましょう。立てますか?」
 これでは話し合いにならないばかりか、せっかく後遺症が治りかけている恭平の精神に良くないと判断した梶原は、恭平に肩を貸して立ち上がらせた。
「まてっ!! 保!!」
 叫ぶみどりを無視して、看護師に帰りますとだけ告げて会議室を出た。
「先生を呼びましょうか?」
 廊下に出たところで、中の騒ぎを聞いていた看護師が気を遣って声をかけてくれたが、梶原は主治医のところへ行くからと断ってくれた。
 恭平もとにかくここを離れたかった。
 這うようにたどり着いた梶原の車の中で、恭平は大きく息を吐いた。
「薬は持ってますか?」
「大丈夫です。多分、すぐに治まりますから」
 実際に病院を出てからは、徐々に痛みも引いてきている。
「話し合いになりませんでしたね。やはり個人的に話をして済ますというのは無理でしょう」
「……そうですね」
 溜め息をつく。
「資料はほとんど揃いました。手続きもほぼ済んでいます。一気に進めましょうか」
 エンジンをかけ、ゆっくりと車を駐車場から出しながら、梶原がこれからの予定について話している。
 鈍い痛みの残る頭でそれを聞きながら、窓の外を流れていく景色を見ていた。
 病院に向かう街路樹の歩道を俯き加減で歩く一人の青年がいた。
 そろそろ上着も必要な季節なのに、薄手のシャツだけで歩く細い影がとても寒そうに見えた。
「美也…っ」
 窓に額を貼り付けてよく見ようと目を凝らすが、車はあっという間に彼の影とすれ違い、遠ざかっていく。
「お知り合いですか?」
 車はスピードを落とし、路肩に寄った。
 しかしもう美也の姿は小さな点にしか見えない。
「いえ……行って下さい……」
 捜している……。
 恭平を? 保を?
「美也」
 完全に見えなくなった通りの向こうに、ささやくように名前を呼ぶ。
 振り返る美也の姿が浮かぶ。
 恭平を探す美也の顔を思い浮かべる。恭平を見つけられず、不安に揺れるヘーゼルの瞳。
 笑いかけて安心させてやりたい。
 恭平は強くまぶたを閉じ、ごめんなと心の中で謝って、目を開いた。
「俺は……負けません。もう、二度と」
 美也に誓おう。
 両手を握りしめて、しっかりと頷いた。



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